39 モヤモヤ
「梓ちゃん、久しぶり!」
「浩平くん!」
突然現れた男が、椎名を下の名前で呼ぶ。
その男の顔を見て、椎名もまた驚いた表情で男の名前を口にする。
椎名が浩平くんと呼んだその男は、その爽やかな笑顔のまま椎名に近づき、椎名のすぐ正面まで来ると嬉しそうに顔をゆるめて「よっ」と片手を上げる。
「遠くから見ててもしかしてと思ったんだけど、合ってて良かったよ。ちょっと雰囲気変わったのかな」
「浩平くんこそちょっと見ない間にすごいかっこよくなってるじゃん! 私全然わかんなかったよ」
「そうかな? ありがとう、梓ちゃん」
実に和やかな会話を繰り広げる椎名と浩平くん。その浩平くんの顔立ちはなかなかに整っており、身長も俺と同じくらいはあり、細マッチョと言えるくらいにはバランスが良い筋肉質の体型。
分かりやすく言ってしまえば、イケメンという言葉が一番しっくりきてしまう。そのくらいには、椎名の言う通りかっこいい男だった。
話を聞いている限りでは、二人はおそらく中学生時代の友人か、もしくは……まあ、そういう関係なのかもしれない。
お互いに下の名前で呼びあっているということから、かなり親しい仲なのだろうと容易に予想がつく。
そんな二人の間に、外部の俺が特に口を出すような状況ではないため、黙って椎名の後ろからその様子を眺める。
それだけだと言うのに、なぜか胸がざわざわと騒いでいた。
脳内には、記憶から消えかけていた今朝の夢がチラチラとフラッシュバックで映し出され、その胸騒ぎを加速させた。
浩平くんが椎名に笑いかける度に心臓に何かが刺さるようか感覚がし、椎名がそれに笑顔で言葉を返す度に、心のどこかに穴が空くような感覚がする。
そして、なぜそんな気持ちになるのかも、全く分からなかった。
椎名の過去にいる親しい友人がたまたまこの場にいるだけ。
その相手に対して、椎名が楽しくおしゃべりをしているだけ。
そう。ただ、たまたま夢で見たような情景が目の前で起きているだけなのだ。
それだけなのに、何故ここまで不快な気持ちになるのだろうか。何故ここまで寂しい気持ちになるのだろうか。
その答えが出る気配は毛頭なく、ただただ二人の会話が終わるのを待っていた。
結局、椎名と浩平くんはそれほど長く立ち話することはなく、あとで電話なりメールなりで連絡するということで解散となった。
椎名は「待たせてごめんなさい」と俺に謝ったが、別に彼女や彼が悪いことは何も無い。
俺は「別に気にしてない」とだけ返して、再び椎名の家へと足を進めた。
* * *
いつものように椎名の家にお邪魔し、机に座り勉強を始める。
いつも通り今日の授業の復習から始め、椎名が板書ノートを綺麗にまとめていく。
俺はただそれを横から眺め、椎名が受けた今日の授業で取り扱った範囲を確認する。
「あ、先輩。今日授業で気になっていたんですけど、ここの例題って……先輩?」
「………」
「村上先輩!」
「うわっ。な、なんだよ急に」
いきなり椎名の顔が距離数センチの目の前に現れ驚く俺に、悪びれもせず椎名は不機嫌そうに頬を膨らませる。
「もう。先輩、やっぱり今日は様子が変ですよ?」
「いや、そんなことは」
「ありますぅ。私、先輩のことなら分かっちゃうんですからね!」
いつもより強い言葉でそう言い切ってくる椎名。
俺の事をなんでも分かっているのか。もしそうならば、ある意味こんな苦労はしなかったのかもしれない。
そんな、本当に情けないことを考えながら、黙り込んでしまっていると、もう一度椎名が次はゆっくりと俺の顔を覗き込んでくる。
「先輩……本当に大丈夫ですか?」
今度は、悲しげな表情をしてその儚い瞳で俺の目を見つめてきた。
「私、先輩が元気ないのはイヤなんです……。先輩にとって私がただの後輩の一人でも、私にとって先輩は大切な唯一の先生なんです。私の前で先輩に悲しい顔はしてほしくないんです……!」
「し、椎名……」
彼女の言葉が心に刺さる。俺は、彼女に何をさせてしまっているのだろうか。
俺がほんの小さなことを気にしているだけで、どれだけ彼女にいらぬ心配をかけてしまったのだろうか。
ついこの間までは、椎名は大切な存在だと伝えたばかりだと言うのに、それさえも勘違いなのではと思わせてしまっている。
そして、それを踏まえて俺に対して溢れんばかりの心配をかけてくれている。
「……もし、私が何かしてしまったのなら謝ります。何か不満があれば直します。先輩の言うことならなんだって聞きます、だから──」
その続きが彼女の口から放たれる前に、俺はその口を彼女の体ごと引き寄せて塞ぐ。
不意打ちで手を繋いだ時以外では、初めて自分の意思で彼女の体に触れた。
抱きしめたその体は華奢で、女の子特有の柔らかさがあり力を入れすぎたら壊れてしまいそうな感覚がした。
「ひゃ、せせっ、せんぱい?!」
当然、抱きしめられた本人は明らかに取り乱し、舌が回っていない。
これ以上俺の不甲斐なさと情けなさで、彼女の言葉を言わせまいととっさに抱きしめてしまったが、さすがに思い切りすぎた。
少し自分でも羞恥の気持ちが込み上げてきて、一旦彼女の肩を持って体を離す。
「わ、悪かった。いきなり」
「い、いえ……。ど、どうしたんですか、急に……」
「いや、とっさの行動でやってしまった。嫌だったよな、本当に悪い」
いくら脊髄反射的な行動だったといえ、いきなり女子に対して抱きつくなど言語道断だ。
これでは、余計に椎名の気持ちを踏みにじるようなことになってしまうというのに、俺は何をしているんだ。
「い、嫌では……ないですよ?」
「え?」
「そっ、その。先輩に触られるのは、イヤじゃ、ないです、から」
カタコトでそう伝えてくる椎名に、俺は思わず胸を抑えるほど衝撃を受けた。
な、なんだ。今のかわいい反応は……。
いつもは俺を小悪魔のほほえみでからかってくるのに、あんな不意打ちの反応。なんというか、ずるいだろ。
「だから、えとその……。もし、どうしてもそういうことがしたいのであれば……い、いいです、よ?」
そう言いながら、椎名はおもむろに両手を伸ばしてくる。
それは彼女の言葉通り、抱きしめていいですよという意思を表していた。
彼女の頬は朱に染まりきり、目線もあちらこちらへと忙しなくさ迷っていたが、意を決してこちらを上目遣いで見上げてきた。
思わず本能のままにめいっぱい抱きしめてしそうになってしまう心を、鬼の理性で押さえ込み、彼女から手を離す。
彼女はどこか寂しそうな目をしていた気がして、たまらず目線も逸らした。
息が乱れるほどに鼓動が荒く、早くなっていて、椎名を遠ざけて正解だったかもしれない。
なぜだか今日の椎名はいつも以上に心臓に悪い。
「し、椎名……?」
「な、なんですか?」
「その、そういうことを軽々しく言うのは、やめとけよ?」
「そういうこと……?」
「だから……あれだよ。触っていいとか、だ、抱きしめてもいいみたいなこと、とか……」
「……っ!」
今になってから自分の言ってしまった失言に気づいた椎名。
あまりの恥ずかしさゆえか、先程の比じゃないほどに顔を真っ赤にして、ぷるぷると震えていた。
「一応言っておくが、嘘でも、ああいうのを男の前で言ったらダメだぞ」
「あ、あんなこと、先輩にしか言いませんし、嘘でもないです!」
「な……」
「……あっ」
さらっとまたもや失言を重ねてしまう椎名。
ついには顔を上げているのにも耐えきれなくなり、机に突っ伏して顔を伏せてしまう。
その状態でも、耳まで赤く染まりきってしまっているせいで、彼女の表情はバレバレだ。
今日の椎名は、心配のしすぎで心に隙ができてしまっているのか、自爆の常習犯になっている。
いつもの椎名では見ることの出来ない一面を見ることが出来たので、申しわけないながらも満足はした。
「と、とにかく。俺だって男なんだ。言動には気をつけてくれ……」
「は、はい……」
机を通した曇った声、かつ震えた声でそう返事がかえってくる。
しかし、椎名がこうなってしまい恥ずかしい思いをさせてしまったのは、俺の情けなさゆえだ。これ以上は彼女に迷惑をかける訳にはいけない。
気を取り直さなければ、そう意気込んであの男のことは自分の中で割り切った。
別に、俺自身椎名に恋愛的な好意を持っているわけではないはずだ。これはあくまで大切な生徒としてだが。
やはり、男として独占欲まがいのもののような気持ちが芽生えてしまったのだろう。
だが、そんなことを椎名に伝えるなんてのは到底無理な話。
あの浩平くんに対して、椎名がどんな気持ちを抱いているのか。そんなことをこれ以上気にしていては家庭教師にも集中出来ない。
これからは、あらためて家庭教師という居場所に自覚を持って椎名と接していかなければ。
そう意気込んで、俺は椎名に伝える。
「よし。もう、大丈夫だ。心配かけてごめんな」
「ほ、ほんとに大丈夫ですか……?」
「ああ。時間無駄にしちゃったな。ほら、続きをやろう」
「は、はい!」
そう言って、お互いにまだ顔の赤みがおさまっていないことはあえて触れずに勉強を再開したのだった。
けしからーん!




