37 帰り際
「んぅーっ」
猫のように両手を突き出し、伸びをする紗月。
紗月の部屋で勉強を開始してからおよそ三十分ほど。そこまで長い時間ではなかったものの、かなり深い勉強が出来たのではないだろうか。
紗月が手をつけていた範囲の重要な基礎や要点は、ちょうど一年前にやっていた内容が深く関わっている。
そう、一年前ということはちょうど椎名が現在やっている範囲でもあるのだ。
二年生になって重要になると、椎名にも少しだけ念を押して教えていたため、俺の中でも記憶に新しい場所。
だから、三十分の間にできる限り基礎と要点をすべて洗い出し、説明をした。
ありがたいことに、紗月は俺の話を真剣に聞いてくれて、ほぼ完璧と言っていいほどに知識を身につけ、問題もミスなく解けていた。
「おつかれ、紗月」
「なんだか学校にいるときよりも深く勉強した気がするわね」
「まあ、本当に全員が理解しきるために授業をしてたらいつまでたっても終わらないからな」
学校の授業の弱点はそこなのでは、と俺は考える。
もちろん、基礎が重要なんてことは当然のため授業でもしっかりと取扱う。
だが、それを授業を受ける全員が完璧に理解しているかどうかまではさすがに見きれない。
その、少しだけの地盤のズレが、知識を応用するときになって大きな災害につながってしまう可能性があるのだ。
しかし、マンツーマンで行う家庭教師は、その弱点に関してはとてもアドバンテージを持っている。
もちろん、学校の授業のように綺麗にまとまっていてスピーディなものには及ばないところもある。
しかし、なんと言っても大きいのは、一つの疑問に対していくらでも時間を費やすことができるという点だ。
少しでも曖昧な知識であったり理解が難しい箇所があれば、そこだけをいくらでも深く学ぶことが出来る。
大きな知識であったり、定期考査の点数には繋がらないこともあるが、事柄に対して深い理解があるというのはそれだけで武器になる。
「私。こんなに楽しく勉強できたの、久しぶりだわ」
「そうか。そりゃ嬉しい限りだ」
俺から言わせれば、深い基礎の原理を知りその知識からそこから先が広がってく、それこそが勉強の楽しさなのだ。
あくまで俺個人の意見ではあるだが、最近では椎名も同じように思ってくれているらしく、少し嬉しかったりもする。
教える立場からしても、その楽しさを知ってもらえる瞬間が、何よりも嬉しく充実していると俺は感じる。
「陸ったら、女の子の扱いも上手いし勉強も出来るし、もしかして優秀さんなの?」
「優秀さんってなんだ。それに、女子の扱い方なんて、俺は知らないぞ」
「髪乾かすのも梳くのも、すごく慣れた手つきだったじゃない」
「それはうちの甘えん坊さんのせいなんだがな」
妹を持つ兄としては、そんな技術が身についてしまうのは必然的なことだ。
特にうちの家庭では、両親よりも兄に寄り付いてくる困った女の子がいる。
最初こそ分からないことだらけなものだが、慣れというのは恐ろしいものである。
「私、ほんとにかなちゃんが羨ましい。陸、私も妹にして?」
「勘弁してくれ。今の状態の奏が一人増えたと考えただけでもゾッとする」
「私が妹じゃ嫌なの?」
「いや、そういうことじゃない。かわいい妹が増えるのは別に構わないさ」
「か、かわっ……」
「問題は、甘えん坊が二倍になることだ。俺一人じゃ処理できる自信がなさすぎる」
紗月が妹になるというのは、昔から姉のように思ってきたゆえに違和感もあるが、妹になった紗月も少し見てみたい気がする。
しかし、今の奏ほどの甘えん坊が二人になる情景を想像すれば、そんなことを言ってる場合じゃないことが容易に分かる。
少なくとも一ヶ月と経たないうちに過労死できる自信がある。
「賑やかになること自体は俺も好きだし、いいんだがな……って、紗月? 聞いてるか?」
「あっ、うん。そ、そっか。そうよね……」
「紗月?」
「じゃあ、陸は面倒がかからなくてしっかりしたかわいい妹なら、私でもいいの?」
「そりゃもちろん。まあ、そんなこと出来るわけないけどな」
絶対にありえないことではあるが、悪くは無いのかもしれない。
もちろん奏から甘えられるのは嫌じゃないし、なんやかんやと甘やかしているのは俺自身だ。
しかし、もしそこに世話のかからない気の利く妹がもう一人いたら、と考えるとかなり楽しそうだ。
ありえなさすぎるあまり、妄想をしてみれば思っていたよりも心が踊る未来が見えた。
紗月は「そっかそっか……」とどこか嬉しそうな顔で呟いていた。
何に対して紗月が笑みを浮かべているのかは分からないが、幸せそうなのでほかっておく。
「しかしまあ、紗月のお母さんの買い物は長いなあ」
「たしかに、言われてみればそうね。いつもならすぐに帰ってくるのに」
紗月と二人、少し心配の念を感じていたのだが、勉強が終わるのにタイミングを合わせたように紗月のお母さんは帰ってきた。
玄関に出迎えに行くと、によによと口元を緩めながら「何かあった?」と聞いてきた。
紗月と一緒に首をかしげながら、特に何も無かった旨を伝えると、お母さんはがっくりと肩を落とした。
時間をかけていた割にはあまり量の入っていない買い物袋を片付け、紗月のお母さんが夕飯の支度を開始する。
パソコンがなんとかなったことだけを伝えて帰ろうとしたのだが、どうせなのだからということで夕飯をご馳走になった。
紗月のお母さんの手料理を頂くのは本当に久しぶりで、久々の今井家の味付けの新鮮味を感じながらそこそこの量をペロッと食べきってしまった。
「ご馳走様でした。おいしかったです」
「ふふ、お粗末さまでした」
手を合わせてそう食後の感謝を述べる俺に、嬉しそうにほほえむ紗月のお母さん。
「今日は珍しく紗月が手伝ってくれたのよ。いつもはそんなことないのにね」
「ま、ママ! 余計なこと言わなくていいからっ」
「陸くんが来たからって張り切っちゃってね、ふふ」
「そうだったんですか。ありがとな、紗月」
「う、うん……どういたしまして」
少しばかり気恥ずかしそうに、ほのかに頬を染める紗月。
椎名の家で夕飯を食べさせてもらった時にも感じていたことだが、女の子が自分のためにご飯を作ってくれるというのは、とても感慨深いものがある。
椎名にせよ紗月にせよ、誰が見てもかわいいと言うであろう二人の手料理を食べたことがあるというのは、改めて考えると男としてはかなり恵まれていることなのかもしれない。
「じゃあ、そろそろ帰ります。お邪魔しました」
「こちらこそ、パソコンありがとね。助かっちゃったわ」
「いえ。また何かあったら呼んでください」
そう言ってぺこりと頭を下げると、紗月のお母さんが優しく俺の頭をなでてくれる。
さすがにこの歳になると少し恥ずかしかったが、あのときと変わらない安心感を感じた。
「ふふ、ほんとに陸くんはいい子ね。もしよかったらお婿さんにこない?」
「ママ?! い、いきなり何言ってるの!」
「あら、紗月は嫌なの?」
「そそ、そんなことはないけど……ってそうじゃなくて!」
うふふ、と楽しそうに笑う紗月のお母さんと、頬を膨れさせぽかぽかとお母さんを叩く紗月。
相変わらずの二人の様子に俺は思わず頬を緩めながら、もう一度別れの挨拶をして玄関を出た。
外はすっかり暗くなっていて、結局椎名の家庭教師の時と変わらない時間になってしまっていた。
奏がいらない心配をしてしまう前に早く帰らなければ、と鞄を背負い直したところで後ろから声が掛かる。
「陸っ」
「ん、どうした。紗月」
「えっと、その。……ママが陸を送ってきなさいって」
「送るって……俺の家、すぐ近くだぞ」
「い、いいからっ。ほら、行くわよ」
半ば強引に紗月が先に歩いて行ってしまい、慌ててその背中を追いかけるように帰路につく。
紗月と二人でこの道を歩くのも久しぶりだなと考えながら歩いていると、途中で紗月が足を止めて振り返る。
「紗月?」
「陸、明日からは、また椎名ちゃんの家庭教師するの?」
「ああ、そのつもりだが。それがどうかしたのか」
そう聞き返しても、紗月は何も言わない。
何も言わず俯いたまま、指先だけが忙しなくさ迷っている。
もう一度だけ紗月の名前を呼ぶと、彼女のほうからゆっくりと歩み寄ってくる。そしてそのまま、ぎゅっと抱きしめられた。
「さ、紗月?」
「………」
動揺する俺を尻目に、それでもなお紗月は何も言ってくれない。
ただ、そのか細い腕で強く俺の体を抱きしめてきた。
それに答えるように、俺も微妙に宙に固まったままの腕を紗月の腰に回して、抱きしめる。
春が終わり、夏に向かっている季節ではあるものの、日が暮れれば肌寒い。まだそんな時期だ。
お互いの体温を直に感じるこの状態はとても温かくて、でも鼓動はせわしなく、落ち着かない。
「どうしたんだよ」
紗月にしか聞こえない声で、彼女の耳元にささやく。その一言でようやく紗月は、ぴくっと体を動かした。
そして、俺の背中にまわした腕の力がきゅっと少しだけ強くなり、俺の胸に埋めた顔を少しだけ動かした。
「なんでもない。……でも、もうちょっとこうしてたい」
「……そうか」
彼女に似合わないか弱い声の、甘えるような小さなお願い。
きゅん、と胸が締め付けられるような感覚がして、詰まる喉から無理やり言葉をひねり出す。
彼女がどうしてこんなことをしてくるのかは分からないが。こんな素直に甘えられたことは、初めてかもしれない。
よく分からない嬉しさと恥ずかしさを感じながら、まだもう少しだけこのままでいたい。そんなことを思いながら、今一度紗月を抱きしめた。
きゃー!