34 今井家
平日の午後。放課後の鐘が鳴りクラスの面々が帰っていく中、俺は珍しく教室に残っていた。
いつもであれば、忠犬のごとく玄関で待っている椎名の元へすぐに向かうのだが、今日は少し予定が違う。
いつになくのんびりと教材を片付けていると、それほど時間を置かず彼女がやってきた。
「おまたせ、陸!」
「早かったな、紗月」
「うん! それじゃあ、行きましょうか」
「ああ」
俺が答えると、彼女は早く早くと言わんばかりに俺の手を引いて歩いていく。
そう、今日は椎名の家庭教師がお休み。まあ、誰かさんが無理やり休みにしたのだが……。
「しかし、紗月の家に行くのも久しぶりだな」
「ほんとよ。たまには昔みたいに遊びに来てくれてもいいのよ?」
「もう高校生だろ。そんなにほいほい行けるもんか」
「幼馴染なんだしいいじゃない。ママも喜ぶわよ?」
「まあ、あの人は喜ぶだろうな……」
紗月のお母さん。いかにも紗月が大人になったらという感じで、紗月に似て美形な人だ。
性格も紗月に似ていて、面白くて優しい人。似ていないところといえば、下ネタを吐かないところくらいだろうか。
完全に紗月の上位互換である。
「なによ、その目は」
「あ、いや」
そんなことを考えていたら、思わず紗月の顔をまじまじと見つめてしまっていた。
「何か言いたそうな目してたじゃない。正直に言ってみなさいよ」
「……紗月のお母さんって、美人さんだよな」
「ひっ! り、陸ったら、椎名ちゃんや私では飽き足らず、ママにも手を出そうとしてるなんて!」
「おい待て。いつ俺が椎名や紗月に手を出した」
「今日は私たち親子を本能のままに貪り尽くすつもりなのね……!」
「頼むからその話、紗月のお母さんにするなよ。俺、軽く死んじゃうからね」
しっかりと紗月に釘を刺してから、彼女の家へ向かう。
紗月の家は俺の家から歩いて数分の場所にあり、小さい頃はよく遊びに行っていた。
もちろん紗月が俺の家に遊びに来ることもあったが、割合的には圧倒的に前者の方が多かった。
あの頃の俺はまだ大人しい性格で、紗月のほうがお姉さんのような感じだった。
そのため、紗月の提案した遊びに俺が反対することはなく、おままごとをした回数なんて数えきれない。
だが、紗月はお姉さんらしく優しい一面もあり、昔はよくそれに助けられた記憶がある。
高校生になってからは紗月の家に行くこともめっきりなくなってしまったので、実に一年ぶりくらいだろうか。
紗月が俺の母さんと仲がいいのと同じく、俺も紗月のお母さんとは仲がいい。
ご近所ということで紗月のお母さんと会うこと自体は珍しくないが、家に行ってゆっくり話をするのは、これも一年ぶりだ。
最寄り駅から、いつもとは少しだけ違う道を歩く。
少し歩けば、見覚えのある一軒家が見えてくる。
玄関の外には今井と書かれた表札と、昔俺と紗月が遊んでいた時に壊してしまい片耳がなくなった犬の置物があった。
「最近見てなかったけど、まだいたんだな、この犬」
「陸のせいで傷物にされちゃったけど、大切な思い出だから……♡」
「お邪魔しま~す」
「ちょ、ま、待ちなさいよ!」
意味不明なハートマークをつける紗月はほうっておき、一足先になつかしい玄関をくぐる。
慌てた様子の紗月もすぐあとに続き、紗月が「ただいま~」と声を上げると、少し時間を置いてからリビングに繋がる扉から紗月のお母さんが顔を出す。
「あら~。早かったわね、紗月」
「うん、陸と一緒に速攻で帰ってきたから」
「お邪魔します」
「ふふ。いらっしゃい、陸くん。ほら、お茶も出してあるから、上がって上がって」
ウキウキした様子でスリッパを出してくれる紗月のお母さん。
これが普通の友達の家などであれば、お構いなくとでも言うのだが、ここではそんなことは言わない。
親しき仲にもなんとやら、なんて言葉もあるが、基本紗月のお母さんに遠慮はいらない。
本当に小さい頃からお世話になっているというのももちろんある。
しかし、そもそも紗月のお母さんは、俺がいろいろと遠慮することを嫌がる。
だから、もういっそのこと何も遠慮することなく紗月のお母さんに接するようになり、そのおかげで今では色々と話が出来るようになった。
「陸くんが高校生になってからは、こうしてゆっくり話すことも少なくなっちゃって寂しかったわ」
「俺も寂しかったですよ。また、紗月のお母さんとこうしてお話出来て嬉しいです」
「あら~もう。嬉しいこと言ってくれるじゃない。おばさん照れちゃうわ」
「おばさんだなんて。まだまだお綺麗ですよ」
「きゃ~! どうしようかしら、紗月。ママ浮気しちゃいそうだわ!」
「うん。やめてね? ママ」
笑顔に静かな怒りを込めながら、紗月が制止する。
「そんなことより、ママ。今日陸を呼んだ理由」
「もう、紗月ったらせっかちなんだから。そんなに焦らなくても陸くんは譲ってあげるわよ」
「そ、そんな話はしてないでしょ! もう!」
二人の様子を眺めながら、お茶をいただく。
こんなふうに二人が話しているのを見るのも、久しぶりだ。
昔からそうだったが、紗月と紗月のお母さんはとても仲がいい。
そして、俺の前だといつも自信満々に変態な紗月も、お母さんを前には敵わない様子。
そんな紗月を眺めるのも新鮮で楽しく、故に見守る。ただひたすらに見守る。
「もう、陸も何か言いなさいよ!」
「あ、お茶のおかわりいただいて良いですか?」
「もちろんよ。ほらほら、ついであげるわ」
「ありがとうございます」
「………」
ついには不貞腐れて何も言わなくなる紗月。
それを横目にもう一口お茶を飲んでから、本題に入る。
今日俺が紗月の家に来たのは、紗月のお母さんからあることを頼まれていたからだ。
その要件は、紗月の家のパソコンの調子が悪いということだった。
紗月を含む今井一家は、紗月と両親の三人家族。
その全員が見事に機械音痴で、何かと電子機器に弱い。
中学生のときにも、こんなふうに助けを求められたことが2、3回あった。
「パソコンの調子が悪いってことらしいですけど。具体的にはどんな感じですか?」
「あ、そうそうパソコンね。えっと、この間起動した時に……」
それからしばらく、お母さんから話を聞く。
その間の紗月と言えば、ずっと机に突っ伏するような姿勢で、視線だけをずっとこちらに向けていた。
途中で俺がそっちに視線を送り返すと、ふんっと頭ごと視線をそらされた。
あらかたお母さんの話を聞き終え、実際にパソコンのある場所へ向かう。
机に突っ伏していた紗月も、俺とお母さんが一緒に移動すると、なんやかんやと後をついてきた。
紗月のお母さんにパソコンの起動だけやってもらい、俺に交代する。
話に聞いていた箇所をいろいろと見て回っていると、ふいに紗月のお母さんが声をあげる。
「あっ、いけない! 私今日、お買い物に行かないといけないんだったわ! 陸くん、大丈夫かしら?」
「大丈夫ですよ。慌てないでゆっくり行ってきてください。その間に直しておきますから」
「え、陸。ちょっと?」
「そう! ありがとう、陸くん。じゃあ、あとは二人に任せたわね」
「はい、お気をつけて」
「ちょっと! ねえ、ママってば!」
「行ってくるわね~!」
そう残して、紗月のお母さんはにこにこしながら手を振り、嵐のように家を飛び出していった。
「さて。俺のほうはもう少し時間をかかるかもしれないし、紗月は好きにしてていいぞ」
「(……ふ、二人きり)」
「紗月?」
「(す、好きにしていい……)」
「紗月さーん?」
「わ、私ちょっと、シャワー浴びてくる!」
「は? あ、おい」
俺が声をかけるよりも早く、お母さんの血をしっかりと引き継いだ嵐の速度で部屋を出ていった。
紗月の言動はよく分からないが、今はパソコンの修理が先だ。
他でもない紗月のお母さんの頼みだ。しっかりと直しておかないと。
俺はそう意気込んで、作業に取り掛かった。
紗月ちゃん家に乗り込め〜!
*余談となりますが、ちょうど一か月前のポッキーの日にTwitterのほうで短編小説を公開しました。
よければ作者マイページ>TwitterURL>固定ツイートより、ご覧下さい(*・ω・)*_ _)