29 露天風呂
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
一人、露天風呂に浸かりながらそんなことを考える。
では、この状況の何が「こんなこと」なのか。
それは、向こうの扉の奥にいる存在がすべての原因である。
「ふぅ……」
とりあえず、深呼吸をして心を落ち着かせる。
平常心。そう、平常心だ。これは後輩への罪滅ぼしのようなものだ。決してやましい気持ちはない。
平常心の安定のために、広大な緑の景色へ視線を向ける。
よし、大丈夫だ。椎名は色々言っていたが、要は俺をからかうための一手段に過ぎないはずだ。
これくらいで動揺するなんて、それこそ椎名の思う壺だ。先輩としての威厳を保たなければ。
カラカラ……。
そうこう考えているうちに、脱衣所の引戸が開く音がした。
「うわぁ、夜になっても綺麗な景色ですね……」
背後から、椎名のそんな声が聞こえてくる。
「それじゃ、失礼しますね。先輩」
「あ、ああ」
後ろで、ちゃぽんとお湯に入る音がして、その微かな波が俺の体にぶつかる。
そのことが、二人で温泉に浸かっているという事実を強調しているようで、鼓動が加速する。
「先輩?」
「な、なんだよ」
「こっち向いてもいいんですよ?」
「ばっ……い、いや。ほら、今は景色を楽しんでるんだよ、いい眺めだしな?」
「先輩が向いてる方向、壁ですけど」
一緒に入るだけならまだいい。いや、何もよくはないが。
それにプラスすることの、後輩の裸体を直視出来るほどの心臓は持ち合わせていない。
「先輩から来てくれないなら、私から行っちゃいますからね?」
「は? お、おい、ちょっと待て」
「ふふ、えーいっ」
椎名はお湯の中をざぷざぷと歩いてきて、俺のぴーんと伸びた背中に抱きついてきた。
あっ、なんだこれ。やわらかいですね。
「おいっ、こら。離れろって」
「先輩が意気地無しなのが悪いんですよ? 私がこんなに勇気を出してるのに」
「お前が出してるのは、裸体と痴女の本性だろうが」
「だ、誰が痴女ですか! そんなこと言う先輩は……こうです!」
そう言って椎名は、いきなり俺の体をまさぐり始めた。
「ちょ、おい。ば、やめっ、やめろ」
「ほれほれ~、ここがいいんですか~?」
脇から横腹まで、こちょこちょと触りまくる椎名。
ただでさえ色々と触れていて動けない状況。そんな状態で抵抗することも出来ず、されるがまま。
しかし、俺が本気で抵抗しないのをいいことに、椎名のスキンシップは加速する。
だんだんと腕を前に伸ばし、胸や腹、そして下腹部へと……。
「ちょ……いい加減にしろって!」
「きゃっ」
さすがにこれ以上は越えては行けない一線だと感じ、とっさに振り向き椎名の肩を掴む。
とっさのことで力が入りすぎてしまったのか、椎名は小さな悲鳴をあげる。
その声で我に返ると、俺の前には一糸まとわぬ彼女の姿が。
華奢でやわらかい彼女の体はとても綺麗で、真っ白な肌はさながら新雪のようだった。
せめてタオルの一枚でも巻いているかと思っていたのだが、そんなことはなく。
俺が肩を掴んでいるせいで、彼女は自分の秘部を隠すことも出来ず、お湯につかったそこには…………ってアホか!
自分でもびっくりする勢いで、それが視界に入る直前で首を90度回転させる。
なにやら首から変な音がなった気もするが、それどころじゃない。
俺は視線もさらに横へずらし、再び壁の模様を眺めながら口を開く。
「わ、悪い。少し乱暴だった」
「い、いえ……」
いつもは聞かない、消え入りそうな椎名の声。
俺はそっと肩にかけた手を離し、再び彼女に背を向ける。
「……あのな、椎名」
「な、なんですか?」
「椎名は、俺の事をどう思ってる?」
「へっ? そ、それは……」
前にもしたことがあるような質問をもう一度椎名にする。
こんな状態のせいか、彼女も歯切れ悪く言葉を詰まらせる。
「俺は、椎名ことを大切に思ってる」
「へ?」
「前にも言ったかもしれないが、椎名のことは生徒として特別に思ってる。だからこそ、椎名が傷つくようなことはしたくない」
「………」
「でも、俺だって一応男だ。今みたいことをされれば多少意識はしてしまう」
「そ、そうなんですか……?」
「当たり前だろ、俺を何だと思ってる」
「ご、ごめんなさい。でも……そっか。ふふ、そうですかっ」
何故か、楽しそうに笑いをこぼす椎名。
まったく、これでも説教してるつもりだというのに、何がおかしいんだか。
「とにかくそういう事だ。俺にくっ付くなとは言わない。だが、越えちゃいけない一線くらいは考えてくれ」
「分かりました。ごめんなさい、私もやり過ぎました」
「ああ、分かってくれたのならそれでいい」
「でしたら、お詫びに先輩の背中を流しますね」
「ちょっと待て。今の話聞いてたか?」
「聞いてましたよ。だから、その謝罪の気持ちとして背中を流させて下さい」
「………」
椎名の言葉に、思わず頭を抱える。
いまさらだが、彼女にとって越えちゃいけない一線とはどのラインなのだろうか。
いや、背中を流すというだけなら、まだセーフなのか? 俺の感覚も狂ってきている気がしないでもないのだが……。
「……分かった。だが、せめてタオルを巻いてくれ」
「えぇ……どうしてもですか?」
「勘弁してくれ、椎名さん」
「もう、仕方ないですね」
ため息混じりにそう呟いた椎名が、お湯から上がる音が聞こえる。
しばらくすると、再び椎名から声がかかる。
「先輩、もう大丈夫ですよ。タオル巻きましたから」
「あ、ああ」
その声を聞いて振り返ると、バスタオル一枚姿の椎名。
こ、これはこれで来るものがあるな……。平常心、平常心……。
もう一度深く深呼吸をする。
椎名にも後ろを向いてもらい、俺も腰にタオルを巻いてお湯から上がる。
洗い場の椎名の前まで歩いていき、ゆっくりと腰を下ろす。
「……じゃあ、よろしく頼む」
「はい、お任せ下さい♪」
うきうきした声で椎名は返事する。
そして、ゆっくりと丁寧な手つきで俺の背中を洗い始める。
「どうです、先輩? 気持ちいいですか?」
「あ、ああ」
つい最近聞いた、奏の時と同じような問いかけ。
一応肯定はしたものの、実際のところは自分でもよく分からなかった。
奏の時とは違い、心拍数は大変なことになっていて、背中の感覚すらもはっきりとしない。
「後輩の美少女に背中を洗ってもらう気分はどうですか?」
「自分で美少女って言うか。どうだろうな、なんとも言えない気分だよ」
「なるほど、言葉が出ないくらい良い気分と」
「都合のいい思考回路してるな、椎名は」
「ふふん、でしょう」
「褒めてはいないんだな、これが」
いまだに緊張は残っているものの、なんとか普通に会話出来ている自分に安心する。
相手が椎名でなければ、こんなに悠長に話は出来ていなかっただろう。
「なんですか、先輩はもっと私を褒めるべきだと思いますよ?」
「なるほどな、それ相応の褒めるべき事項があれば褒めてやるんだがな」
「じゃあ先輩、何か問題出してください。それに答えられたら褒めてください」
なんともいきなりで自分勝手な話だな。
とはいえ、こんな時でも勉強熱心なのはいい心構えだ。
「よし分かった。それなら……三角関数の主な三つは?」
「……あれ、なんでしたっけ。三角関数って」
「おい。ほらあれだよ、語呂がいいやつだ。記憶にないか?」
「語呂がいいもの……あっ、あれですね! 微分、積分…………いい気分!」
「よし、帰ったら補習だな」
「そ、そんなあ!」
俺の背中を洗いながら、悲痛な声を上げる椎名。
というか、なぜそんな答えが出てくるのだか。俺もまだよく分かってない範囲だぞ、それ。
「ちなみに正解は、サイン、コサイン、タンジェントってやつだ。聞き覚えないか?」
「あぁ……聞いたような気がします」
「まあ、椎名はまだ学校でやってない内容だしな。意地悪な問題だったかもしれない」
「ほんとですよ、まったく」
椎名は文句を垂れながら俺の背中をポコポコと叩いてくる。
「でも、椎名はよく頑張ってるぞ」
「え?」
「俺とは違って一人暮らしで、家事も学校も両立して、勉強だって頑張ってる。素直にすごいと思ってる」
「ほ、本当ですか……?」
「ああ、嘘じゃない」
「そ、そうですか。なんか、素直に褒められたら、それはそれで恥ずかしいですね、えへへ……」
ポコポコ叩きをやめて、照れた様子で笑う椎名。
でも、しばらくすると再び俺の背中に触れ、またもや体を密着させてくる。
「お、おい。だからそういうのは……」
「今だけ、今だけですから。こうさせてください……」
体温を確かめるかのように体を預けて、椎名は小さな声でそう囁いた。
タオル越しに、彼女の体のやわらかさや温かさが伝わってくる。
結局俺は、そんな彼女を振りほどくことが出来ず。
結果として、お湯に浸かっていないのに軽くのぼせかけるという、なんとも情けない状態になるのだった。
この話を書くためのR15指定……。




