20 膝の上
椎名の手作りクッキーを頂いたあと、いつも通りお皿を片付け、勉強の準備をする。
そして、これまたいつも通り、椎名が隣に座るのを待ってから、家庭教師の仕事を開始……しようとしたのだが。
「先輩っ。今日は先輩の膝の上で勉強を教えてもらえないですか?」
「……は?」
あまりにも突然の言葉に、思わず間抜けな声を返してしまう。
今、この後輩なんて言った?
「悪い、俺がちょっと聞き間違えたのかもしれない。今日は……の後、なんて言った?」
「先輩の膝の上で勉強させてください」
「……は?」
俺の耳がおかしいのかとも思ったのだが、おかしいのは椎名の頭だった。
いや、膝の上で勉強ってどういうことだ?
前みたいに膝枕をして、寝ながら勉強したいってことか? それとも、膝の上で抱っこした状態ってことか?
一つ目だったらまだしも、二つ目だった場合さすがにちょっと色々とまずいのではないだろうか。
膝の上で抱っこという行為自体は、実は妹の奏のせいで慣れていたりする。
甘えん坊な奏とはよくその状態でテレビを見たり、勉強を見てやったりしている。
そんなこんなで、膝の上で抱っこすることは抵抗ないのだが、相手が椎名となれば当然話は変わる。
普通の高校生、ましてや生徒兼後輩の女の子を膝の上に乗っける度胸は残念ながら持ち合わせていない。
「えっと、理由を聞いてもいいか?」
「理由ですか?」
「ああ。どうして、わざわざ俺の膝の上で勉強したいんだよ」
「そんなの決まってるじゃないですか。先輩とくっつきながら勉強したいからですよ」
「……そ、そうか」
単刀直入にそんなことを言ってのける椎名に、我ながら動揺が隠せない。
前々から椎名は、俺に対してやたらくっつきたがってはいた。
それの延長線だと思えば、椎名的には全然大したことではないのかもしれない。
肩を寄せあったり膝枕をしたり、これまで散々くっついていたし、今さらこれくらいのことで動揺する俺がおかしいんだろうか……。
「どうしても、膝の上じゃないとダメなのか?」
「……ダメなんです。今日だけでもいいんです、出来ませんか……?」
「ぐっ……」
悲しげな瞳でお願いしてくる椎名。
かれこれ、椎名と出会ってから何回この上目遣いにやられてきたんだろうか。
ほんとに、何度やられても耐性がつかない。案外チョロくないか、俺。
「……わかったよ。しっかり勉強もしろよ」
「はいっ。それじゃ、失礼します……」
そう一言断ってから、あぐらをかいた俺の脚元に入ってくる椎名。
小さな椎名の体は、俺の足の中にすっぽりと収まる。
「っ!」
目と鼻の先に椎名の髪の毛がきて、ふわっとシャンプーの甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐる。
さらには、勢いよく座ったため、Tシャツ一枚姿のせいで服がまくれ、彼女のパンツ越しのおしりが直に俺の太ももに触れている。
とてもとてもよろしくない。女子力プラス二十点。
早くも気が気ではない俺を置いて、椎名は俺の胸にもたれてくる。
「えへへ~。先輩の匂い落ち着きます~」
「俺は全く落ち着かないんだが」
「先輩、女子高生の匂いでドキドキしちゃってるんですか~?」
「そうだよ悪いか。こちとら健全な男子高生なんだよ」
「全然悪くないですよ~。うふふ」
てっきり今どきの女子高生みたく「きもーい」とでも言われるかと思ったのだが、何故か機嫌が良くなる椎名。
そして、るんるんと鼻歌交じりに勉強を開始する。
というか、機嫌が良いのはいいがあまり体を動かさないで欲しい。
さっきから彼女の柔らかいおしりが、俺の大事な部分に当たっている。意識するな……そう、心を清く……。
写真でしか見たことない死んだ曽祖父をひたすら思いながら、精神の平穏を保つ。
ひいじぃちゃん。俺は今、強く生きてるよ……。
「先輩、ここの問題なんですけど」
「ん、どこだ? っと、すまん」
「あっ、いえ……」
テキストを見ようと体を起こすと、上に座った椎名のバランスを崩す形になってしまい、とっさに彼女を抱き抱える。
彼女の腰に片手を回し、体勢を整えてから、あらためて質問の箇所を見る。
「ああ、この問題か。これはまず最初に両辺にマイナスを掛けて……って。椎名、聞いてるか?」
「き、聞いてますよ! 両手の花に手をかけるんですよね!」
「誰が二股の話をした。一次方程式の解は一つだけだぞ」
「うぅ、わかってますよ!」
何故か、赤面して動揺を露わにする椎名。
腰に回した手がいけなかったんだろうか。たしか、前に俺から触るのはセクハラだとかなんとか言ってたしな。
いや、今回に関しては完全に不可抗力だと思うが……。
とりあえず、これ以上そこを追求されるのも困るので、その状態で説明を続ける。
落ち着きのない椎名も、一通りは説明を聞いて理解した様子。
特に何も言って来なかったので、ゆっくりと腰に回した手を離そうとしたのだが。
「……椎名?」
何故か、彼女の手でそれを遮られてしまった。
具体的に言えば、俺の手を引かせないようにガッチリと掴まれた。
椎名は、俺の問いかけに答える様子もなく、さらには俺のもう片方の手も自分の腰に回した。
結果として俺は、目の前に座る椎名を抱きしめる状態になってしまう。
ほぼ体全体が彼女に触れるような形で、女の子の柔らかさを嫌というほど感じてしまう。
家で奏を抱っこするのとは比じゃないぐらい緊張する。自分でも顔が赤くなってるのが分かった。
元に、目の前の椎名も、顔こそ見えないが耳がこれでもかと言うほど赤く染まっていた。
こいつ、自分でやっときながら照れてるのかよ。無理してるのか?
椎名は、しばらくその状態のまま固まっていたが、少しすると思い出したかのように勉強を再開する。
俺が教えたことを出来ているかどうか、椎名の肩から顔を出して確認する。
「おい、途中で計算ミスしてるぞ」
「え? ど、どこですか?」
「ほら、ここ」
「あ、ほんとだ……」
途中式を指差してやると、すぐに気づいて訂正する椎名。
こんな初歩的なミス、普段の彼女ならそうそうしないんだが……。
ちょっと気になって彼女の背中に問いかける。
「椎名。なんかお前、無理してないか?」
「へ? そ、そんなことナイデスヨ?」
「だったら、なんでエセ外人みたいになってるんだ」
「せ、先輩だって、ドキドキしてるじゃないですか! じ、女子高生とこんなことするなんて、普通だったらお金払っても難しいですよ!」
「普通だったらまず、そんなことを望んだりしないと思うんだが」
俺がそう返すも、椎名は「そんなことないですー」と不貞腐れたように言う。
お金を払ってまで女子高生を抱っこしたいなんて思うやつがそうそういてたまるものか。犯罪臭しかしないぞ、そんなの。
と、お金のことで思い出したが、まだあのことを椎名に聞いていなかった。
この際、忘れないうちに聞いてみるか。
「なあ椎名。少しだけ大事な話をしていいか?」
「ど、どうしたんですか、そんなあらたまって。も、もしかして、ついに先輩のほうから……!」
「お前が何を想像してるかは知らんがたぶん違うぞ。家庭教師の給料の話だ」
「………」
「顔を見なくてもわかるほど露骨に残念オーラ出すなよ」
「(……先輩の、ばかっ)」
小さく何かを呟く椎名。何を言っているかは分からなかったけど、漠然と不名誉なことを言われてる気がした。
「少し前から考えてたんだ。家庭教師の給料のこと」
「給料……ですか。普通にお金じゃダメなんですか?」
「一番最初にも言っただろ。高校生同士でお金の取り引きなんてダメだ。これだけは譲れない」
「ふふ。真面目ですね、先輩は」
「悪いか」
「いいえ。そんな先輩が私は好きですから」
さらっとそんなこと言ってのける椎名。
俺の上に座って表情が見えないせいで、余計に彼女が何を考えてるのかが分からなく、ちょっと動揺してしまう。
今更こんなことでドギマギしてたら心が持たないぞ、俺。
「実は、俺自身、別に給料はなくてもいいかなとも考えてるんだ」
「え?」
「家庭教師なんて名目だけど、最近だと俺の勉強もさせてもらってるし、そこまで何か見返りが欲しい訳でもないんだよ」
「そんなのダメです!!」
いきなり声を上げて机に手を叩きつける椎名。思わず、椎名の腰に回した手を離す。
すると、彼女が180度体を回転させ、こちらに正面を向ける。
それまで体操座りしていた椎名の足は、俺の足を跨ぐように左右に開いて、今すぐにでも彼女に押し倒されそうな姿勢。
そして、俺の顔からほんの十センチほどの近さに彼女の顔がきて、思わず仰け反りそうになる。
「先輩には感謝してるんです。勉強のことはもちろん、いつも何かと気遣ってくれて……。それなのに、私が先輩に何もお返ししないなんてありえません! これは絶対です!」
「そ、そうか……。悪い、俺が自分勝手だったな」
「ほんとです! 給料については私も一緒に考えますから、いいですか?」
「は、はい。すみません」
至近距離からのあまりの気迫に、気づけば平謝りの俺。なんで俺は後輩に説教されてるんだろうか。
まあ、実際俺が悪いんだが、そこまで反対されるとは思っていなかった。
椎名にも、俺の家庭教師に対してプライドや信念があったようだ。それを踏みにじるようなことはしてはいけない。
あらためて、給料に関して真剣に考えなければと実感した瞬間だった。
女の子はいい匂いがするんです。そう、きっと。