10 夕飯
「ただいま~」
「お邪魔します」
スーパーで買い物を済ませた後、すぐに椎名の家へ向かった。
ぱんぱんに膨らんだ椎名のエコバックを食卓の上に置き、買ったものをそれぞれ冷蔵庫にしまっていく。
椎名には、冷蔵庫の食材の入れ方にこだわりがあるらしく、俺が手伝えたのはせいぜいエコバックを運ぶとこまでだった。
今思えば、これほど食器棚や冷蔵庫の整頓が出来てる時点で、椎名の主婦力に気が付くべきだったかもしれない。
「とりあえず、いつも通り勉強しましょうか」
「ああ、そうだな」
俺自身、相当椎名の作る麻婆豆腐が楽しみなのか、すでに空腹感がお腹を満たしていた。
その影響のせいなのか、なかなか椎名の勉強に集中が出来ない。
途中、ぼーっと椎名の顔を見つめたまま固まってしまい、顔を赤くした彼女に怒られたりもした。
それほどまでに楽しみでならなかったのだろう。
消しゴムが豆腐に見え始めたころには、俺の空腹がかなり限界に近いところまで来ていた。
それを伝えてくれたのは、他でもない、俺のお腹の情けない鳴き声だった。
「ふふ、やっぱり食いしん坊さんですね、先輩は」
「今回ばかりは何も言えないな」
「しょうがないので、ちょっと早めですが、夕飯にしてあげます」
「ありがたい」
まだ日が沈まない時刻から、準備を始めてくれる椎名。
何かのキャラクターが描かれたかわいいエプロンをつけてキッチンに立つ。
眼鏡とエプロンの組み合わせは案外悪くなくて、ちょっと目で追ってしまった。
ただご馳走になるだけというのも気が引けるので、手伝わせてくれとお願いしたのだが、丁重にお断りされた。
気持ちはうれしいけど、自分がおもてなししたいから、とのこと。
仕方なく、普段座らないソファに腰を下ろしてテレビの電源を入れる。
特に見たい番組もなかったため、たまたま映ったニュース番組にしておく。
特に興味のないニュースを聞き流しながら見ていると、キッチンから椎名の鼻唄が聞こえてきた。
楽しそうな歌声とカチャカチャとした料理の音のほうが、よっぽど耳に入ってきて、テレビの音量を少し下げた。
ニュース番組の天気予報が始まる頃には、鼻唄と一緒に鼻と胃を刺激する美味しそうな香りが漂ってきた。
それにつられてもう一度お腹が鳴き、少し口の中の唾液が増えた。
「あ、そういえば先輩、お家の人に連絡とかしなくて大丈夫ですか? 夕飯のこととか」
「ああ、そうか。ありがとう、今から連絡する」
椎名の料理のことで頭がいっぱいで完全に忘れていた。母さんに今日の夕飯はいらないって伝えておかないと。
携帯を取りだし、母さん宛にメールを送る。
と、すぐに返信が来た。そのメールの差出人は妹だった。
なんで妹のほうが先なんだろうか。疑問に思いつつメールを開いてみる。
『兄さん、夕飯がいらないと聞きましたが本当ですか? 最近、家に帰ってくるのも遅いので少し心配です。今日は何時くらいに帰ってこれますか?』
丁寧な、あいつらしい文章のメールだった。俺はそれを見て少し頬を緩めてから、返信メールを書く。
心配いらないことと八時くらいまでには帰ることを、簡潔に書いて送っておく。
この調子だと、帰ってから目一杯甘やかしてやらないと駄々をこねそうだ。
家に着いてから三十分くらいは、あいつに付きっきりになってしまうかもしれない。
中学生にもなったんだし、いい加減兄離れしてほしい気持ちもあるのだが、ついつい甘やかしてしまう自分がいるものだから、困った話だ。
「先輩、そろそろ出来上がりますよ~」
「ああ、わかった」
キッチンからかかった椎名の声に一言返し、彼女のもとへ向かう。
「料理に関してはダメだったけど、用意くらいなら何か手伝わせてくれないか?」
「ふふ、ありがとうございます♪ じゃあコップとお箸だけお願いしていいですか?」
「了解した」
料理のほうも最終段階といった感じで、椎名はお皿に盛り付けをしていた。
それをチラッと見ながら棚からコップ、引き出しから箸を取り出す。
そのついでに、フキンを一枚持ってからテーブルに戻る。
そのフキンで軽くテーブルを綺麗にしてからコップと箸を置く。
コップと箸を置く、すなわち俺と椎名が座る場所がこれで決まるわけだ。
少し悩んだあと、今回は向かいの席になるように置いた。
夕飯のときくらいは隣じゃなくてもいいだろう。さすがに、色々と食べづらそうだ。
「こっちの準備は終わったぞ」
「こっちも、ちょうど今完成しました!」
椎名から、ちょっと待っててくださいねと言われ先に腰を下ろす。
すると、エプロンを外した椎名が大きなお皿を一つ持ってきてくれた。
俺はそれを見て一言、
「おいしいな、これ」
「先輩、まだ食べてないじゃないですか。しっかり味わってから感想をください」
「いや、悪い。おいし"そう"っていうのも逆に失礼な気がして、言い間違えた」
「ふふっ、なんですかそれ。おいしいのは確定事項ですか?」
「当たり前だろ。見た目と匂いだけでも分かるし、なんせ椎名の作った料理だからな」
「私、先輩に料理を振る舞うの初めてですよ? なんなんですか、その自信」
出来立ての麻婆豆腐を前に熱弁する俺を、楽しそうに笑う椎名。
この間、椎名と外食したときと同じように、二人一緒に「いただきます」と呟く。
さっそくレンゲで麻婆豆腐をすくい、口へ運ぶ。
椎名は、そんな俺の様子を少し緊張した面持ちで見守っていた。
口に入れた豆腐を舌で軽くつぶす。
それだけで、それはいとも簡単に口の中でとろけ、ほのかな辛味と豆腐の旨味が味覚を埋め尽くす。
つまるところ、その味を感じた俺の喉から返ってきたのは、全く味のないただの一言だった。
「うまい……」
「ほ、本当ですかっ?」
「本当にうまい。こんなに美味しい麻婆豆腐なんて初めて食べた」
「そうですかっ。よかったです♪」
満足そうに、嬉しそうに椎名は笑って、自分もご飯を食べ始めた。
そのあとは、二人で他愛もない話をしたりテレビを見て笑い合ったりしながら椎名の夕飯を食べた。
「ごちそうさまでした」
「ふふ、お粗末様でした」
米粒一つ残さずにきれいに完食して、流しに食器を持っていく。
そのままいつものように椎名と二人で片付けを済ませた。
「今日はありがとうな、椎名。本当においしかった」
「どういたしましてですっ。私も、他の人に食べてもらうのは初めてだったので、感想が聞けてうれしかったです。ありがとうございます♪」
「お役に立てて何よりだ。スーパーに寄ったときも言ったが、やっぱり椎名はいいお嫁さんになれると思う。こんな料理が出るなら毎日だって食べたいくらいだ」
「まっ、また先輩はそんなこと言って! わ、私を口説いても何も出ませんよ……ま、まだ」
「別に口説いてるわけでも見返りを求めてるわけでもない。むしろ今日はたくさんもらったよ」
「む、むぅ。先輩には家庭教師をしていただいてますし、何かしら見返りを用意する約束じゃないですか。何かしてほしいこととか、ないんですか?」
「してほしいこと……と言われてもなあ」
うーん、と少し考えてみるが、なかなか思い付かない。
事実、椎名に勉強を教えるというのは、俺自身のためにもなっているのだ。
勉強を他人に教えるという難しさと、かなりの復習になっているのが相まって、もしかしたら俺のほうが勉強させてもらっいるかもしれない。
そういう意味でもますます「してほしいこと」なんてものは見つからない。
今の椎名に求めているのは、最近の過度なスキンシップへの反省くらいなものだ。
「そうだな……じゃあ一つだけお願いしてもいいか?」
「え、えっちなことはまだダメですよ!」
「しねえよ。それにまだってなんだよ。そんなことじゃない」
「それ、以外?」
それの他に何があるんですか?とでも言いたげな顔をする椎名。
おいこら、吹っ飛ばすぞ。
心の中で軽口を叩きながら、さっき浮かんだことをしっかりと言葉にする。
意外とそれが難しくて、口から出るまでちょっと時間がかかってしまった。
「えっと、さ。椎名がよければ、なんだが。……また機会があったら、夕飯を一緒してもいいか?」
「えっ」
呆けた表情で固まる椎名。
やっぱり言葉にすると恥ずかしくて、自分の耳が熱くなるのを感じた。
椎名は、すっと顔をうつ向かせて、
「村上先輩は、やっぱり…………」
「やっぱり、なんだ?」
聞き返すと、椎名はぶんぶんと頭を振って、ぱっと俺の手を握る。
そのまま顔を上げて、いたずらな笑みに変わった表情をする。
「仕方ないので、またいつか私の料理を食べさせてあげます♪」
「ったく、相変わらずだな、その態度は」
「不満ですか?」
「いいや。次を楽しみにしてる」
「はい♡」
そう言って椎名はまた、かわいくて眩しい笑顔を咲かせた。
ところでプチトマトっておいしいですよね。