9 あげたり貰ったり
翌朝、私はほぼ寝たままの状態のセディを彼の部屋に戻すことはせず、大人しく寝室でトニーに引き渡した。まったくもって無駄な労力だったとわかったから。
私は朝食の席で公爵夫妻の許可をいただいて、実家に戻った。
エマや主要な使用人たちと話をしたり、屋敷の内外を見て回り、父とヘンリーの帰宅を待って一緒に夕食をとった。
約束の時間に外に出ると、私を迎えに来てくれた公爵家の馬車が停まっていた。だが、御者に扉を開けてもらって中に乗り込もうとした私は目を見開いた。
「お義父様」
「ちょうど仕事が終わったところでね。せっかくだから、クレアと少し話をしようかと思ったんだ」
「わざわざいらしていただいてありがとうございます」
宮廷からコーウェン公爵家に帰るのと、バートン伯爵家に来るのでは、方向が異なり遠回りになるのだ。
私がお義父様の向かいに座ると、馬車が走り出した。
実家の様子や、父と交わした会話の内容について簡単に報告する。
「セディのために、色々とすまない」
「いいえ、すでに私自身のためでもありますから」
「……セディに夢の話を聞いたそうだね」
「はい」
私は頷きながら、やはりその話かと思った。
「黙っていたことは謝ろう。いつかは話すつもりだった。いや、これほど長く話さずにいられるとは思っていなかった。君が隣にいることでセディに良い影響があればと期待していたが、想像以上だったよ」
「あの、セディの話は本当に夢なのですか? セディの体にはいくつも傷痕がありますよね。あの話は現実にあったことではないですか?」
私が気になっていたことを思いきって尋ねると、お義父様の表情が暗くなった。
「おそらく、としか言えない。……セディは13歳の時に行方不明になって、3日後に傷だらけで発見された。その間のことをセディはまったく覚えていない」
「犯人は捕まったのですか?」
いつの間にか、私は膝の上で拳を握りしめていた。
「セディの件に関しては、犯人は特定されていない。だが、同様の被害に遭った者が他にもいて、その犯人は相応の罰を受けている」
セディを今も傷つけている存在に対しては、どんな罰が与えられたって足りないと思う。お義父様だって、同じ気持ちだろう。
犯人が特定されていないとお義父様は仰ったが、敢えて特定しなかったのかもしれないし、そもそも事件のことを届け出なかったのかもしれない。例え被害者だとしても、事件に巻き込まれたとなれば醜聞になりかねないからだ。
それに、お義父様が私に話してくださったのは、ご自身で把握されていることのほんの表層に過ぎないのだと思う。私が想像しているよりずっと酷い事件だったのかもしれない。
「事件以降、セディは他人と接することが苦手になってしまった。特に女性を怖がるので、結婚などは無理だろうと諦めていた。だが、あの子には兄弟もいないし、いつかひとり遺すことになると思うと不憫でならない。それで一応のつもりでセディに結婚について訊いてみると、クレアの名を出したのだ。父親としては、是が非でもその女性を息子の嫁に迎えてやりたかった」
お義父様の言葉で、私はふとあることを思い出した。
「前の婚約を破棄した時に気になったことがあるのですが、あの時、ウィリス子爵子息の名で私を呼び出したのは、もしかしてお義父様だったのですか?」
あの人が私をあんなところに呼び出すはずがないので、おかしいと感じていたのだ。相手の令嬢の仕業かとも思ったが、驚く様子が本物に見えた。
お義父様は目を細めた。
「ああ、そのとおりだ。クレアを呼びにいった者にあの男を見張らせていたのだ」
「私と一緒にあれを見られた方も?」
「私が用意した。君ひとりではあの男が手荒な真似をする可能性があったし、それに……」
「私が見なかったことにするかもしれないから、ですね」
「君に不快な場面を見せてしまったことは悪かったと思っている」
婚約破棄せざるを得ない状況にしたことは、悪いと思っていないということだろう。もちろん、そんな必要はまったくないのだけど。
「私をあの婚約から救ってくださったこと、感謝いたします」
私が微笑むと、お義父様の口元も綻んだ。
「救ってもらっているのはセディのほうだ。ありがとう」
結局、私に対するお義父様の言動は一貫してひとり息子を想ってのことだったのだ。私を逃さず、確実にセディの妻にするため。
どうやらお義父様は私が考えていた以上の親馬鹿のようだ。
「あの言葉も、そのままの意味だったのね」
私がポツリと呟いたのを、お義父様は聞き逃さなかった。
「どの言葉のことだ?」
「……セディの子を産まなくていいというお言葉です。その、てっきり、私の産む子など必要とされないのかと思いました」
私が正直に答えると、お義父様は目を瞠った。
「それは、私の言葉が足りなかっただろうか? すまなかった。もちろんクレアにセディの子を産んでほしいに決まっているではないか。だが、セディにそのための行為はできないかもしれないと思っていたのだ」
過去形だ。やはり私とセディがすでにそれをしたことは知られているのだ。お義父様の顔が期待で輝いているように見えた。
「子どものことはともかく、クレアはこれからもセディの隣にいてくれればそれでいい」
お義父様はそう言われたが、私は恥ずかしさに顔を上げていられなかった。
公爵家の屋敷に戻ってすぐ、私はセディの部屋に向かった。ノックして声をかけると、中から驚いたような声が聞こえて、すぐに扉が開いた。
「実家に帰ってしまったんじゃなかったの?」
ちゃんとセディのいるところで話したのに、やはり朝食時の彼の耳にはきちんと届いていなかったようだ。それにしても、トニーあたりが教えてくれなかったのだろうか。
「それで、今こちらに戻ってきたのよ。まさか私があなたを放り出してしまったとでも思っていたの?」
セディが慌てたように首を振った。私たちは部屋の中に入り、ソファに並んで座った。
「私、結婚式の前に実家に帰るのはやめて、このままここにいることにしたから」
「え、大丈夫なの?」
「今日、様子を見てきたけど問題ないわ。父も私の好きにすればいいと言ってくれたし。もう実家には私がいなくても大丈夫。それよりも私を必要としてくれるのは、こちらでしょう?」
「ごめんね。僕のせいで」
「あのね、セディ、私はそれなりに色々な覚悟を決めてあなたと結婚すると決めたのよ。このくらいで私に謝らなくてもいいから」
「どうしてクレアは僕と結婚することにしたの?」
「あなたが毎日、私のところに来て、結婚してくれと言ったんじゃない。覚えてないの?」
「もちろん、覚えてるけど……」
「あなたは私じゃないと駄目だとも言ってくれたわ。私はそれがとても嬉しかったの。だから、私があなたにあげられるものは、何でもあげたいと思っているのよ」
普通、貴族の結婚はそれぞれの家同士のものだ。私の最初の婚約もそうだった。
父が私の婚約者を選ぼうと考えはじめた頃、母が病で倒れ、しばらくして亡くなった。私に来ていたいくつかの婚約の打診は、その間にほとんど撤回されてしまい、残った相手がウィリス子爵子息だった。
だが、ウィリス子爵が求めていたのは伯爵家の娘であり、私ではなかった。もっと上位貴族の令嬢を嫁にできるなら、そちらを選んでいたと思う。
子息に至っては私など、裏でいくら遊んでいても何も言わない都合のいい女だと思っていただろう。
私は家に迷惑をかけたくなくて、あの人と結婚する覚悟を決めていた。
だけど、本当はあの人の妻になることが嫌で嫌で堪らなかった。表面的には夫婦としてそれなりの関係を築けたかもしれないが、心を通わせることは無理だったと思う。
婚約破棄が決まった時、将来への不安はあったものの、とてもすっきりした気分になったものだ。
セディは私自身を望んでくれた。さらに言えば、セディが私を選んでくれたから、公爵家も私を歓迎してくれたのだ。そこに、それなりの事情があったのだとしても。
「言っておくけど、私だけが一方的にあげるつもりはないわよ。あなたにも同等か、それ以上のものを貰うから」
「僕がクレアにあげられるものなんてあるの?」
「そんなのいくらでもあるわ。今までだって、あなたは私にたくさんくれたじゃない」
「そうなの? お菓子とか花とかのことじゃないよね?」
「違うわよ。……ねえ、セディが私といて良かったって思うのはどんな時?」
「いつも思ってるよ」
「それなら、私にしてもらって嬉しかったことは?」
「いっぱいあるけど、またセディって呼んでくれたこととか……」
「あ」
私が思わず声をあげると、セディが目を瞬いた。
「セディ、夫婦になる前にもう一度だけ、私のことを『クレア姉様』と呼んでくれない?」
「どうして?」
「あなたは私にばかり昔みたいに呼べと言って、自分は再会してから一度も私のことをそう呼んでくれなかったじゃない。正直、それがとても寂しかったの。せめて求婚する前に『ただいま、クレア姉様』くらいは言ってほしかった。そうすれば、私ももっと早くあなたのことを『セディ』と呼べたと思うわ」
「そうだったの? あの時、本当は姉様と呼びたかったけど、そう呼んだら子どもの頃のままだと思われそうだから我慢したんだけど」
「馬鹿ね。そんな我慢はいらないわ。私に対して見栄を張ったりしないでちょうだい」
セディはコクリと頷くと、私をまっすぐに見つめた。
「ただいま、クレア姉様」
セディは少し恥ずかしそうに微笑んだ。昔のままの天使の笑みだ。
「お帰りなさい、セディ」
私も笑って答えると、セディが私を抱きしめた。
「クレア姉様、ずっとずっと会いたかった。もう絶対に離れないから」
腕の中にすっぽりと私を閉じ込めたセディは、やはりもう昔のままではなかった。