8 それは悪夢か
「若奥様、起きてますか? 入ってもいいでしょうか?」
トニーの声で私は目を覚ました。どうやら起床時間まで眠ってしまったらしい。
トニーは普段の朝ならセディの部屋に入る前にノックや声かけなどはせず、いきなり扉を開ける。
だから、わざわざ声をかけてきたのは、今朝は私がこちらにいるとわかっていたからで、つまり昨夜のことも知っているのだろう。
私はセディの腕から抜け出して起き上がった。
「いいわよ」
「失礼いたします」
部屋に入ってきたトニーを、私はジロリと見据えた。
「トニー、後で聞きたいことがあるから」
トニーも予想していたのだろう、特に表情を変えることはなかった。
「承知しました」
トニーが頭を下げるのを横目に、私は寝室の扉を開けた。
その朝は、覚醒してからもセディは私を避けなかった。まだセディの態度が少しだけギクシャクしていることは、ご両親なら気づいただろうが、黙って見守っていてくださるようだ。
セディとお義父様が宮廷に向かってからしばらく、お屋敷に戻ってきたトニーを部屋に呼ぶと、私は眉を寄せて彼に尋ねた。
「あなたはセディをひとりにしたらどうなるかわかっていたから、私にセディと一緒に寝ろと言ったのね?」
「そうです」
「セディはいったい何に怯えているの?」
トニーは迷う様子を見せてから、口を開いた。
「夢を見るのだそうです」
「夢? 悪夢ってこと?」
「はい」
「どんな夢なの?」
「それは、私の口からは言えません」
いくらトニーでも、セディが言わずにいたことを私にすべては話せないのは理解できる。
「ただ、毎晩見るわけではないのですが、心身が弱っている時はよく見るようです。でも、若奥様の隣で寝るようになってからは一度も見ていなかったと思います」
「昨夜、もっとはっきり言ってくれれば良かったのに。それが駄目なら、あなたが一緒に寝てあげるとか」
「そんなことはできません。ああ見えて、あの方にだって公爵家の嫡男としての矜持があるんです」
トニーに顔を顰められて、私も納得する。
「そうよね。今のは取り消すわ」
「もう一つ、若様が気を許すことのできる相手はとても限られています。隣で眠れる女性なんて若奥様くらいです」
「ええ、わかっているわ」
なぜ教えてくれなかったのかとトニーを問い詰めるつもりだったのが、逆に諭されて、ただ私は八つ当たりしたかっただけのように思えてきた。情けない。
私の気持ちに気づいたのか、トニーが柔らかい声で話し出した。
「若奥様、若様は優しすぎて少し頼りないところもありますが、この屋敷で働く者たちにとっては大切な方です。だから、若様を隣でしっかりと支えてくれる伴侶を、旦那様が選んでくださるよう望んでいました。でも、若様はご自身で、これ以上ないくらい理想的な伴侶を見つけてきたんです。皆、そのことを誇らしく思っています」
「トニーも含めてってこと?」
「私は、感謝してますよ。若奥様のおかげで、私の朝の仕事が楽になりましたから」
「あれで?」
「はい、あれで」
トニーはわずかに笑ってから続けた。
「若様が朝起きられないのは、夢を見るのが怖くて夜なかなか眠れないからです。以前は朝食の席に着くことはほとんどできなくて、馬車の中で食べていました。ちゃんと目が覚めるのが、馬車に乗ってからだったので」
「……あなた、本当に大変だったのね」
私がそう言うと、トニーに軽く睨まれた。
「だから、他人事のように言わないでください」
その夜、私はセディの部屋を訪れた。ソファに並んで腰を下ろしてから、私はセディを見つめた。
「セディ」
私が優しく呼ぶと、セディがゆっくりと私のほうを向いた。
「トニーに少しだけ聞いたわ。夢を見るのでしょう?」
私の言葉にセディは頷いた。
「それなら、どうして昨夜はひとりで寝てしまったの? 私と一緒なら、その夢を見ないのではないの?」
「僕は罰を受けるべきだと思ったから」
セディが俯きながら答えた。
「罰?」
「クレアが嫌なことはしないと約束したのに、してしまった」
「あなたがそれを悪いと思ったなら、まずは私に謝るのが先だったのではないの? そのうえで、あなたに罰を与えるかどうかを決めるのは私でしょう?」
「……うん。結局、クレアに迷惑かけてごめん」
「忘れたの? 昨夜、あなたと一緒に寝たいと言ったのは私よ。それから昨日も言ったけど、私は一昨日のことはまったく怒っていないのだから、あなたが罰を受ける理由なんて何もなかったのよ」
「でも……」
「私は、セディとなら今すぐでも構わないと思ったからああしたのだし、少しも後悔していないわ。結婚前は嫌だと言ってたのにあっさり考えを変えた私を軽蔑した? もう私みたいな女とは結婚したくなくなったから、私を避けていたの?」
セディがハッとしたように私を見つめた。
「そんなわけないよ。僕は何があってもクレアと結婚する」
「だったら、もっと当たり前の顔をして私の隣にいてちょうだい。私だって、あなたに逃げられたら不安になるのよ」
「ごめん。もうしない」
「いいわ。今回は赦してあげる」
私とセディはふたりで寝室のベッドに入った。どちらからともなく抱きしめ合う。
「セディ、あなたがどんな夢を見るのか聞いてもいい?」
聞くべきかどうか私は迷ったけれど、結局は聞くことにした。
セディは私の体に回した腕の力を強めた。聞こえてきた声は、不自然に淡々としていた。
「すごく嫌な夢だよ。恐い女の人が出てくる」
「女の人?」
「楽しそうに笑いながら、僕を見てる。痛いからやめてって頼んでも、やめてくれない」
セディの体が小さく震えていた。私はセディの背中をゆっくりと摩った。
「その人に暴力を受けるの?」
私はセディの肩にある傷痕のことを思い出していた。セディが語っているのは本当に夢の話なのだろうか。
「うん。その人は見てるだけで他の人にやらせることもあるけど」
聞いているだけで気分が悪くなりそうだ。そんな悪夢と、セディはひとり闘っていたのだ。
「とても怖い思いをしていたのね。でも、私がいるからもう大丈夫よ。万が一、あなたがまたその夢を見てしまったとしても、私がその人をやっつけて、2度と同じことができないようにしてやるわ」
セディが小さく笑った。
「私は本気よ」
「うん。お願い」
その夜は、セディも私もぐっすりと眠った。




