7 去る者を追う
朝、目覚めると、私は体の怠さを覚えた。それでも、目の前にあるセディの寝顔がいつもと変わらないので、私は安堵する。
セディの額に触れてみても、平熱のようだ。こんな格好で寝てしまったけど、体調が悪化しなくて良かった。
ぼんやりとセディを見つめていると、彼が寝返りをうった。その拍子に掛布団がずれて、裸の肩が覗いた。
そこに、彼の白い肌に不釣り合いな、刃で斬られたような長い傷痕があった。貴族の子息なら剣術くらい学んだことはあるだろうが、稽古中に誤って負った傷にしては大きい。
さらによく見ると、他にも小さい切り傷や火傷の痕のようなものも見つかった。
いったいこれは何なのかと私が眉をひそめて考えていると、ふいに扉がノックされた。セディの部屋のほうだ。
「若奥様、起きてますか? 入ってもいいでしょうか?」
セディの侍従であるトニーが私を呼ぶのは、セディが起きているはずがないとわかっているからだろう。
「駄目よ。ちょっと待って」
私は慌てて飛び起きた。体が痛むのを無視して、床に散らばっていた服を拾って身につけていく。
「若奥様のお支度ができたら声をかけてください。若様はそのままでいいので」
トニーにはすべて見透かされている気がする。以前からそうだろうとは思っていたけれど、やはり恥ずかしい。
もちろん、セディはどうせこれからトニーが着替えさせてくれるのだから、私が苦労して寝巻を着せる必要はないわけで、「そのままでいい」というのはトニーなりの私への気遣いかもしれない。
だけど、本当にこのままトニーに丸投げしていいのだろうか。下着くらい身につけさせるべきではないか。
だが結局、私はセディをそのままの状態でトニーに任せてしまった。
扉越しにトニーに声をかけてから、私が自分の部屋に逃げ込むと、すでにアンナも私を待っていた。
公爵夫妻と私の待つ食堂に、瞼の上がりきらないセディがトニーに支えられて入ってきた。トニーは私の隣の席にセディを座らせると、その手にフォークを握らせる。
「セディの体調はもう良いのか?」
この時間にセディ本人に訊いてもまともな答えは望めないので、お義父様はトニーに尋ねた。
「熱もありませんし、大丈夫だと思います」
すべて、すでに私も見慣れた普段どおりの光景だった。
しかし、私の気持ちは違った。公爵夫妻の前にいつもの顔で座っていることが居た堪れないのだ。
せっかく距離を縮めることができたと思ったのに、昨夜のことを知ったらお義父様はがっかりされるのではないだろうか。結婚前に大事な息子に手を出して、やはりふしだらな娘だと。
今はまだ知られていないと思うが、トニーに気づかれているのだから、時間の問題だ。
そうやって私が必死にいつもの顔を取り繕っているというのに、セディは相変わらず半分寝たままフォークを使っている。
ちゃんと目を覚ましたら何か言ってやろうと思わないでもないが、おそらく私からはセディに何も言わないだろう。
昨夜のセディの様子を思い出すと胸が痛い。私とのあれでセディの心が平静を取り戻せたなら、私はそれで構わない。
食事を終えて一度部屋に戻ってから、玄関ホールへと向かった。宮廷に行くセディとお義父様を、お義母様と一緒に見送るのだ。
セディとお義父様は毎朝、同じ馬車で宮廷に向かう。仕事の終わる時間が違うので、帰りは別々だ。トニーも朝は宮廷までふたりに付き添う。
ところが、この日は玄関ホールにセディが現れなかった。やはり体調が悪いのかと思っていると、玄関の扉が開いてトニーが入ってきた。
「セディはどうしたの?」
「もう馬車にいます」
「ええ、どうして?」
「さあ、顔を合わせづらいんじゃないですか」
トニーの答えを聞いて、私は言葉に詰まった。こんなところで、そんな微妙なことを言わないでほしい。
「喧嘩でもしたの?」
そばにいたお義母様にそう訊かれた。お義父様も私の顔を見ている。
私は慌てて首を振った。
「いいえ」
どうやら、私はセディに逃げられたようだ。昨夜「一緒にいて」と言ったのはセディのくせに。
「ちょっと、行ってまいります」
私は玄関を出て、すぐ前に停まっている馬車に向かった。開いていた扉から中を覗くと、私に気づいたセディがビクリと肩を震わせてから、身を縮めた。
何であなたが私を怖がるのだと問い詰めたくなるが、それはグッと堪えて嘆息した。
「いってらっしゃい。私はいつもどおりここであなたを待ってるから、安心してしっかり仕事するのよ」
セディはしばらく私の顔を見つめてから、コクリと頷いた。
その夜、セディが帰宅したのはずいぶん遅い時間だった。玄関ホールで出迎えた私と目を合わせようともせず、さっさと自分の部屋に入ってしまう。
セディの帰宅時間は毎日違うし、遅くなる日もあるけれど、この日ばかりはまた逃げるつもりだったのかと私はセディを疑った。
私は就寝の準備を整えると、先に寝室に入ってセディを待っていたが、いつまでたってもセディの部屋の扉は開かなかった。隣室にセディがいる気配はあるのだ。
私がもう諦めて寝てしまおうと思いはじめた頃、私の部屋のほうの扉が叩かれた。
「お嬢様、まだ起きていらっしゃいますか?」
この屋敷で私を「お嬢様」と呼ぶのは、実家からついてきたアンナだけだ。
「起きてるわ」
「トニーさんが、お嬢様にお話があると来ているのですが、どういたしますか?」
「会うわ」
私が部屋に行くと、廊下側の扉の前でトニーが頭を下げた。
「こんな時間に申し訳ありません」
「いいわよ。それで、話って何?」
どうせセディのことだろうと私は思っていたが、案の定、トニーの口から出たのはそれだった。
「若様を赦してあげてもらえませんか?」
「赦せと言われても、別に私はセディを怒ったりしてないわよ。セディが勝手に私から逃げてるの」
「仰るとおりですが、若奥様のほうから歩み寄って、今夜も若様と一緒に寝てください」
いつもはセディよりずっと偉そうな顔をしているトニーが、主人に叱られた使用人のように深く頭を下げた。いや、トニーの場合は主人のために下げなくていい頭を下げているわけだけど。
何だかんだ言って、トニーがセディを大切に思っていることは、私もよくわかっているつもりだ。
とはいえ、一応まだ結婚前なのに、「一緒に寝ろ」と言うのはどうかと思う。
「とりあえず、私から声をかけてみるわ。でも、後はセディ次第よ」
「はい。ありがとうございます」
トニーはもう一度頭を下げてから、部屋を出ていった。
私も寝室に戻ると、そのままセディの部屋の扉まで行き、ノックした。
「セディ、まだ起きているなら、こっちにいらっしゃい」
返事はなかった。私はしばらく気配を伺い、再び声をかけた。
「セディ、私は昨夜のことは怒っていないけど、あなたがこのままだとわからないわよ」
やはり反応はなかった。
「おやすみなさい」
私は諦めてひとりでベッドに入った。だけど、なかなか眠れそうにない。
気持ちが波立っているのもあるけれど、隣にセディがいないせいで落ち着かないのだ。
セディのことをグルグルと考え、何度も寝返りを打ってから、私はようやく眠りに落ちかけた。だが、どこからか聞こえてきた物音で、再び私の意識は浮上した。
私はしばらくベッドの中でその音の正体を探った。苦しそうな唸り声。聞こえてくるのは、セディの部屋からだ。
私はすぐにベッドを下りて、セディの部屋の扉を開けた。声がさっきよりはっきりと聞こえた。
淡い灯りを頼りに、ベッドの中にいるセディを覗き込んだ。しっかり閉じられた目からは涙が溢れ、痛みを堪えるように歪んだ顔にびっしょりと汗をかいていた。
「セディ、セディ」
私はセディの体を揺すった。何度か繰り返していると、セディの目がパッと開いた。
「クレア?」
「セディ、大丈夫? 唸されてたみたいだけど」
セディは手のひらで顔を拭って起き上がった。
「大丈夫だから、クレアは向こうに戻って」
セディの声は揺れていた。どう見ても痩せ我慢だ。
まったく、私は何をしていたのだろう。セディのそばにいてあげようと思っていたのに、セディに避けられたことですっかり臍を曲げていた。扉越しに声をかけるのでなく、部屋に入ってちゃんとセディの顔を見るべきだった。
「ここにいるわ」
私はベッドの端に腰掛けた。
「僕は本当に大丈夫だから」
「……私が、あなたが隣に来てくれないせいで眠れそうにないのだけど。でも、セディがひとりがいいなら戻るわ。起こしてしまってごめんなさい」
そう言って立ち上がろうとした私の手を、セディが掴んだ。
「待って」
私はセディを伺うように見つめた。
「ここで寝てもいい?」
「うん、いいよ」
セディが掛布団を捲りあげて、私を招いた。私がその中に潜り込むと、セディは私の体をしっかりと抱き寄せた。