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あなたに呼んでほしいから  作者: 三里志野
あなたに呼んでほしいから
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6 大事なものは

 婚前の公爵家での生活もあと1週間ほどになった。


 私とセディは公爵夫妻に誘われてオペラの観劇に出かけた。それぞれの付き人もいるので、2台の馬車に分かれて劇場へと向かう。

 観劇など私は久しぶりだった。しかも公爵が用意してくださった席は舞台を真正面から見下ろせる特等席で、それだけで私は興奮した。

 劇場はたくさんの観客たちで溢れていたけれど、この席には私たち4人だけなので、セディも落ち着いている様子だった。


 演目は最近話題の波瀾万丈な恋愛劇だった。

 ヒロインの令嬢はある騎士と恋に落ちるが、彼は実は隣国の王子だった。しかもその国との間で戦が始まってしまい、ふたりは離ればなれになる。さらに令嬢は生まれた時からの婚約者のもとに嫁がされることになり、家出を決意する。


 そこまで劇が進んだところで、休憩が告げられた。私は夢見心地のまま、化粧室に向かった。


 化粧室から席に戻る前に一度ロビーに出て、そこで配られていた飲み物を受け取った。

 ロビーの隅で喉を潤しながら、セディはどうしているのかと考える。席に留まったままかもしれないし、飲み物を持って行ってあげようか。


「クレア」


 ふいに横から呼びかけられた。久しぶりに聞く声だけど、誰なのかわかってしまったのが癪にさわる。

 それでも私はもうすぐ公爵家の人間になるのだ。淑女らしく、顔には侮蔑ではなく微笑を浮かべて振り向いた。目まで笑えなかったのは許してほしい。


「どうも、お久しぶりでございます、ウィリス子爵子息」


 きちんと礼もしたのに、アルバート・ウィリス子爵子息は冷たい目で私を睨んだ。


「それは嫌味か? 自分は上手いことやったようだしな」


 何が嫌味なのかわからない。

 今夜も私は公爵家が用意してくれたドレスと宝石を身に纏っている。ウィリス子爵家では息子の婚約者のためにそんなことはしてくれなかった。そういうことだろうか。


 ウィリス子爵家からはバートン伯爵家に慰謝料が支払われたはずだ。我が家のほうが爵位が上だったから、おそらくウィリス家は息子の不始末のせいで他にも苦労しているだろう。私は詳しくは知らないのだが。

 ウィリス子爵子息の責任で私と彼は婚約破棄したわけで、それについてとやかく言うのは完全に逆恨みだと思う。むしろ、ウィリス子爵子息のせいで私まで傷物扱いされて、公爵に嫁として受け入れてもらえないのだ。こっちのほうが文句を言いたい。


「だいたい、おかしいだろ。こんなにすぐに次の婚約が決まって、しかも公爵家だなんて。俺との婚約中から何か裏でやっていたんじゃないのか? おまえ、そういうの得意そうだしな」


 婚約者だった頃は明るくて優しい人だと思っていたけれど、やはり本性は違ったようだ。今となってはどちらでもいいけれど。

 私はこれ以上ウィリス子爵子息の顔を見ているのも嫌で、きっぱりと彼に告げた。


「申し訳ありませんが、連れを待たせておりますので失礼いたします」


「逃げるのか? すっかりお高くとまってるみたいだが、おまえなんかが公爵家に嫁げるわけないだろ。傷物のくせに」


 その言葉には、さすがの私も我慢できずに口を開けた。


「うちの息子の嫁にそのようなことを言って、ただで済むと思っているのか?」


 私が何を言うより前に、私のすぐ後ろから低い声が聞こえた。私が恐る恐る振り向けば、怒りを露わにしたコーウェン公爵の顔が見えた。

 もしかしたらウィリス子爵子息は公爵がいるのに気づいて、わざと「傷物」などと口にしたのかもしれない。


「この女はご子息の妻になれるような者ではありません。こう見えてふしだらな……」


 ウィリス子爵子息はやや怯んだ様子ながらさらに言い募ったが、公爵がそれを遮った。


「まだ言うのか? 君の家は男爵だったな。君が継ぐまで保てばいいがな」


 ウィリス子爵子息は言葉を失ったようにしばらく口をパクパクさせていたが、やがて踵を返すと人混みの中に消えていった。


「申し訳ございませんでした」


 私は急いで公爵に頭を下げた。


「クレアが謝る必要はない。まったく、恥ずかしげもなくよくあんな嘘を吐けるものだ」


「あれは嘘だと信じてくださるのですか?」


 私は目を見開いて公爵を見上げた。見つめ返す公爵の目はとても優しかった。


「もし本当に『傷物』だっだとしたら、君は正直にそう言ってセディの求婚を断ったのではないか?」


 私は頷いた。


「セディを騙すようなこと、私にはできません」


「だろうな。もっとも、その場合でもセディがクレアを諦めたとは思えないし、セディが君を選ぶなら私も君を受け入れたが」


 私がさらに驚くと、公爵はさらに言った。


「君は間違いなく、私の大事な息子を任せることのできる人間だ。信頼している」


「ありがとうございます」


 公爵からそんな風に思われていたなんて、私は感動で泣きそうだった。

 でも、それならあの言葉は何だったの。私の聞き間違いだろうか。


「さっきあの男に言ったのはただの脅しのつもりだが、また何かあったら言いなさい。その時は対処しよう」


「そう言えば、あの人の家は子爵だったはずですが、今は違うのですか?」


「子爵家からは廃嫡されて、先月、男爵家に婿入りしたんだ。妻はすでに妊娠5か月だったか」


 妻というのはあの時の令嬢だろうか。妊娠5か月なら、あれ以前から関係があったということだ。まあ、想像どおりだけど。

 ウィリス子爵子息には弟がいたから、その方が子爵を継がれるのだろう。いや、あの人はもう「子爵子息」ではなかったのだ。


「そうだったのですね。まったく知りませんでした」


 私は少し反省した。

 最近は公爵家での生活で手いっぱいだった。以前ならシンシアや他の友人から様々な噂を聞いていたが、近頃はあまり会っていない。社交の場に出ても、一緒にいるセディの様子が気になって、他の人とのお喋りを楽しむ余裕はなかった。

 もちろん、これからもセディが最優先だ。でも、セディを支えていくためには、できるだけ多くの情報を得ておくほうがいいに決まっている。


「そろそろ席に戻ろう。セディが心配しているかもしれない」


「はい」


 私は公爵と一緒に歩き出した。すると、すぐに前方から駆けてくるトニーの姿が見えた。


「旦那様、若奥様、こちらにいらっしゃったのですか」


 さすがにトニーも公爵の前では畏まる。


「どうした?」


「若様の体調が優れないようで、帰ると仰っています」


「セディはどこにいるの?」


 私は慌てて尋ねた。あんな人のせいでセディのそばを長く離れてしまったことに腹が立つ。


「もう馬車に戻られました。若奥様はどうされますか?」


「もちろん、一緒に帰るわ」


 オペラの続きは気になるが、セディのほうが大事だ。私は公爵のほうを向いた。


「私はセディと先に帰りますが、おふたりはどうぞ最後までお楽しみくださいませ」


「ああ、セディのことを頼む。この埋め合わせは近いうちにしよう」


「いえ、それはセディに強請りますから、お義父様はお気になさらないでください」


 結婚するまではと遠慮していた呼び方を、私は自然と口にしていた。お義父様は特に気にした風もなく答えた。


「それもそうだな」


 私はお義父様に礼をすると、トニーとともに急いで劇場の出口に向かった。


 馬車に戻ると、セディはグッタリした様子で座席の隅に座り、壁に寄りかかって目を閉じていた。薄暗いので顔色まではわからない。


「セディ、寝ているの?」


 もしそうなら起こさないよう、私は静かに声をかけた。


「起きてるよ」


 セディは目を開けずに答えたが、何だか苦しそうだった。

 私はセディの隣に腰を下ろした。馬車が動き出す。


「そこでは硬くて痛いでしょう。私に寄りかかったら?」


 セディは目を開けて私の顔を見つめてから、私の肩に頭を乗せてきた。


「クレア、こんなのでごめんね」


 セディの声は震えているように聞こえた。体調が悪いせいで、気持ちまで弱っているようだ。


「私こそ、あなたをひとりにしてごめんなさい。もう大丈夫。何も心配いらないわ」


 私は頭を傾けて、セディの頭に触れ合わせた。




 屋敷に着くと、トニーがセディの体を支えて部屋まで連れて行ってくれた。私もそれについて行く。

 セディの部屋に入ったところで、トニーが私を振り向いた。


「どっちのベッドに寝かせますか?」


 私が悩んだのは一瞬だった。


「奥のほうでお願い」


 この状態のセディをひとりにしておけるわけがない。公爵にも頼まれたのだ。私がそばにいてあげないと。

 私の気持ちを読んだように、トニーが目を細めて小さく笑った。


 セディの着替えをトニーに任せて、私も自分の部屋で簡単に湯浴みを済ませ、寝巻に着替えた。寝室に入っていくと、トニーが会釈して反対側の扉から出ていった。


 ベッドに入ると、もう眠ったと思っていたセディが目を開けた。


「クレア」


「気分はどう? 少しは良くなった?」


「うん」


 私はセディの上に屈み込むようにして、頭をそっと撫でた。いつもより少しだけ体温が高いようだ。


「ひとりのほうが休めるなら、私は向こうで寝るけど」


 念のためと思って私がそう言うと、セディの顔が歪んだ。


「嫌だ。ここにいて」


 セディの腕が私の体に回されたかと思うと、そのまま強い力で抱き寄せられた。セディの体に押しつけられて、身動きが取れなくなる。


「セディ、ここにいるから放して。苦しいわ」


 セディの腕の力は少しも弛まなかった。セディに抱きすくめられたまま、体の位置が変わり、唇を塞がれる。

 ベッドに仰向けになってセディの重さを感じている状況に、私は初めてこのベッドを使った夜のことを思い出した。あの日は「クレアが嫌ならしない」と言ってくれたことを、今夜のセディはするつもりかもしれない。


「セディ」


 口が解放されたので私はセディの名を呼ぶが、セディの耳には届いていないようだった。セディの唇は私の首筋に降りてきた。寝巻越しに、セディの手が私の胸を掴む。


「セディ、やめて」


 さらに私が口を開くと、セディが顔を上げて私を見た。その表情に、私は息を呑んだ。セディは何かに酷く怯えているようだった。


「お願い、クレア、ずっと僕と一緒にいて」


 私は手を伸ばしてセディの頭を引き寄せ、そっと口づけた。


「セディ、私はずっとここにいるわ」


 どうせ半月後には全部あげるつもりだったのだ。セディが今それを必要としているのなら、躊躇うことなどない。

 深呼吸して体の力を抜くと、私はセディの背に腕を回した。

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