8 負けたくない
僕たちの結婚式が近づいてきた。
クレアのウェディングドレスが出来あがってお屋敷に届けられたと聞いたけど、クレアは「結婚式までのお楽しみよ」と言って、僕には見せてくれなかった。
僕が一生懸命選んだデザイン画が本物のドレスになったのを、早く見てみたいのに。でもクレアの表情を見ると、気に入ってくれたのは間違いないはず。
父上が見せてくれた結婚式と披露パーティの招待客リストに並ぶ名前の数は僕が震えたくなるほどだった。でも、次期公爵ならこのくらいは当然らしい。
ふたりきりになってから、こっそりクレアに本音を漏らした。
「家族と親戚だけでできたら良かったのに」
「でもその場合、あなたの親戚の中に国王陛下はいらっしゃるのよね?」
「もちろん。陛下は絶対お呼びしないと」
「私はそのほうが緊張しそうだわ」
「え、何で?」
僕が訊くと、クレアはなぜか溜息を吐いた。
仕事は結婚休暇というのが半月もらえることになった。本当はもっと取れるらしいけど、僕はまだ宮廷で働きはじめたばかりだから仕方ない。
休暇中、視察も兼ねて公爵領に新婚旅行に行く。
視察は宮廷の仕事が忙しい父上の代理だ。公爵家の嫡男として初めての大役。公爵領には父上と母上についてしか行ったことないけれど、クレアが一緒だからきっと大丈夫だと思う。
結婚式まであと4日。王宮の庭園で、王妃様主催のお茶会が開かれた。
クレアも母上と参加する。せっかくクレアがすぐ近くにいるのに、僕はいつもと同じように仕事だから会いに行けない。
そろそろ始まったかなという頃、秘書官室に陛下が現れた。
「セディの今の仕事は急ぎか?」
陛下の問いに室長が答えた。
「いえ、それほどは急ぎません」
「では借りるぞ」
そう言うと陛下は僕を手招きした。
「私はもう少ししたら茶会に顔を出すから、セディは先に行って王妃たちに前触れをしておいてくれ。それから、後で私にもセディの婚約者を紹介してほしい」
「はい」
僕は喜んで庭園に向かった。だけど、お茶会の会場が見えてくると、僕の足は止まってしまった。お茶会の参加者が女性ばかりだということをすっかり忘れていた。
きっと大丈夫。僕はこの中からすぐにクレアを探し出せる。クレアを見つけたら、離れず隣にいればいいだけ。クレアは僕に「他の令嬢ともお茶を飲みなさい」なんて言わないから。
そう自分に言い聞かせてから、僕は会場に踏み込んだ。何となく視線を感じた。女の人ばかりのところに男が混じったんだから当たり前だ。
とりあえず王妃様のところに行って、陛下の前触れの役目を無事に果たした。
そこから会場を見渡すと、たくさんの円卓が並んでいた。その1つにクレアがいた。僕の贈ったドレスを着るって、昨夜のうちに見せてくれていたから後ろ姿でもすぐに気づけた。
幸いなことに、その円卓にはクレアしかいない。僕がクレアを独り占めできる。
クレアのほうへと歩いていく途中、他の人たちの話し声が僕の耳に入ってきた。
「ほら、あの方よ。ご自分を傷物にした婚約者を、男爵家に追いやったというのは」
「それで今度は公爵子息とご婚約なんて、節操が……」
ふいに言葉が止んだ。話していた人たちが僕に気づいてギョッとしている。その公爵子息って、やっぱり僕のことなんだ。
さらに足を進めると、別の声。
「元婚約者と関係を持ったなら、大人しくその方と結婚すべきなのに、身の程知らずなこと」
そう言った人の隣にいた人が、僕を見て焦った顔で黙るよう合図していた。
何でクレアのことをそんな風に言われなきゃいけないの。僕がクレアと結婚したいと望んだからなの。
クレアと別の男の人の関係を勝手に想像されるのも気分が悪い。クレアを「傷物」にしたのは僕だけだって叫びたい。
そんなことしたらクレアとの約束をまた破ることになるからしないけど。
クレアの隣の円卓にいた人たちまで、同じようなことを話していた。
「婚約者が他の女性といるところを見たそうですけど、それもあの方が仕組んだことらしいですわよ」
「そこまでして公爵家に嫁ぎたかったのかしら。不潔だわ」
クレアのすぐそばまで来た僕は、クレアの姿を見て目を瞠った。
隣の人の声はクレアにだって聞こえているはずなのに、クレアは動じることなくゆったりとお茶を飲んでいた。
クレアはすごい。僕もあんなの気にしてたら駄目なんだ。
「クレア」
僕が呼ぶと、クレアが驚いた顔で振り向いた。
「どうしたの? また、お仕事を抜け出したの?」
「陛下がいらっしゃる前触れのために来たから、半分は仕事だよ」
「もう半分は?」
「クレアに会いに来た」
そう言って、僕はクレアの隣に座った。クレアは嬉しそうな表情になった。
クレアへの悪口が聞こえなくなったと思ったら、話していた人たちが離れていったみたいだった。僕はホッとして、でもやっぱり口惜しかった。
「あの人たち、クレアのことを話してたの? どうして皆あんな嘘ばかり言うんだろう」
「最初の婚約を破棄したばかりの伯爵家の娘が、国王陛下の甥でもある歳下の次期公爵の婚約者になったのだから、妬まれるのは当然よ」
クレアは何でもないというように言った。でも妬まれるなら、クレアと結婚できる僕のほうだと思う。
「だって、僕はこんななのに」
僕がそう言うと、クレアはちょっと怒ってる顔になった。
「こんなのではないわ。あなたは優秀な秘書官なのでしょう」
「人より少し他の国の言葉がわかるから、重宝されてるだけで、別に優秀ではないよ」
室長や先輩たちの助けがなければ、僕の仕事はたちまち滞るに違いない。
「十分、立派だわ。それに、あなたの顔はとても綺麗だから、たくさんの方が目を奪われてしまうの」
「僕はこの顔、嫌い。もっと父上みたいに男らしい顔が良かった。そうでなければ、誰にも気づかれないような地味な顔とか。でも、僕がこの顔でなかったら、クレアは結婚してくれなかった?」
クレアが僕を顔で選んだなら、それはそれで構わない。どちらにしても僕のクレアへの気持ちは同じだから。
クレアは目を丸くして僕を見つめていた。
「違う顔のセディなんて想像できないわ。私のセディはあなただけだもの。顔だけでなく中身も含めて、あなたは私の大事な婚約者で、もうすぐ自慢の夫になる人よ」
クレアはいつも僕が悦ぶことを言ってくれる。自分がクレアに相応しい唯一無二の人間だと勘違いしちゃうよ。
「僕も、クレアのことは全部好き」
実際に僕にできるのは、クレアへの素直な気持ちを口にすることだけなのに。
「セディ、そんな顔は私の前だけにしてね」
クレアが僕の頬を指でムニッと摘んだ。
僕、どんな顔してたんだろう。多分、頬がゆるゆるで、みっともない顔だったんだろうな。婚約者が人前でそんな顔をしていたら、クレアは恥ずかしかったよね。
それなのにクレアは僕に笑いかけてくれた。
クレアがお茶をお代わりするついでに、僕の分のお茶も頼んでくれた。
クレアが僕の顔をジッと見つめながら、言った。
「セディが来てくれたおかげで、お茶がとっても美味しいわ」
僕も負けじとクレアを見つめ返した。もう周りは気にしない。
「それなら、お茶会が終わるまでここにいようか?」
「それは駄目よ。真面目にお仕事をしない夫では、私が自慢できないじゃない」
そうだった。クレアに相応しい夫は、きちんと仕事しないと。
「わかった。ちゃんとする」
そのうちに、陛下が庭園にやって来られたので、僕は約束どおりにクレアを陛下に紹介した。
陛下は僕の気持ちとか、僕がどうやってクレアと婚約できたかをちゃんとご存知だから、改めて祝福してくださった。
陛下が宮廷に戻るので、残念ながら僕もクレアと分かれて仕事に戻らないといけなくなった。
王宮の秘書官室や陛下の執務室があるフロアへ行くのに、庭園を眺められる回廊の2階を通る。そこの窓から下を見ると、クレアがいた。
僕はクレアに向かって手を振った。すぐにクレアも僕に気がついて、手を振ってくれた。
ふと、お茶会の会場のほうから歩いてくる女の人が目に入った。僕は、誰かがクレアを呼びに来たのかと思った。でも違った。それは劇場で会ったあのおかしな人だった。
「クレア、その人に気をつけて」
僕は咄嗟に叫んだけれど、ここからでは僕の声はクレアに届かなかった。
「逃げて」
口を大きく開けて言ってみたけど、クレアを困惑させただけだった。
僕は今歩いてきたほうへと急いで引き返した。後ろから陛下が「セディ、どうしたのだ」と言う声が聞こえたけど、僕には答える余裕がなかった。
宮廷は迷路みたいな造りになっている。クレアは僕のすぐ真下にいたのに、辿り着くまでは遠い。
センティアにいた頃みたいに毎日、体を動かしていればまだ違ったんだろうけど、僕は卒業してから運動らしい運動をしていなかった。今さらそれを後悔しても遅い。とにかく全力で走るしかない。
ようやく王宮の外に出て、さらに庭園へと走った。
回廊の下、クレアが庭木を背にしているのが見えてきた。クレアと向かい合ったあの人が、右手を振り上げた。その手の中で、何かが光った。
恐怖に捉われる暇もなく、僕はクレアと女の人の間に自分の体を割り込ませた。その直後、お腹に熱い痛みを感じた。
地面に倒れ込んだ僕をクレアが抱きとめてくれた。
「セディ」
「クレア、逃げて」
さっきは届かなかった言葉を、僕はもう一度口にした。だけどクレアはさらに強く僕の体を抱きしめた。
「私があなたを置いて逃げるわけないでしょう」
クレアの声はまた怒ってた。
うん、知ってる。クレアは僕を見捨てない。
「弱いくせにわざわざ自分から来るなんて、やっぱり馬鹿なのね。いいわ、ふたりともやってあげる」
女の人が楽しそうに笑いながら言った。夢の中の女の人が重なって見える気がする。
「セディをこれ以上、傷つけないで」
クレアが庇うように僕に覆い被さったので、僕からは女の人の姿が見えなくなった。僕がクレアを助けに来たはずなのに。ここからどうしたら、クレアを護りきれるんだろう。
でもその時、いくつもの足音が聞こえてきた。クレアの体が少し浮いたのでそこから覗くと、王宮の衛兵たちが女の人を捕まえるのが見えた。
きっと陛下が命じてくれたんだ。僕は胸を撫でおろした。
しばらくあちらを向いていたクレアが、何かの布で僕のお腹の傷を押さえた。
クレアの顔を見上げて僕は息を呑んだ。クレアの目から涙が溢れていた。こんなにポロポロ泣いているクレアは見たことなかった。
「クレア、怪我をしたの?」
「ドレスがちょっと切れただけよ。怪我をしたのはあなた」
それを聞いて安心したせいか、僕の体は忘れていた痛みを思い出した。
「うん。凄く痛い」
「当たり前でしょう。今は我慢しなさい」
そうだ、こんな傷、あの時に比べたら何でもない。
「僕はこのくらいで死んだりしないから大丈夫だよ。だから泣かないで」
僕はクレアの濡れた頬に手を伸ばした。クレアの涙は僕が拭いてあげないと。
「あなたが傷つくのは堪えられないわ。私が怪我をしていたほうがずっと良かった」
クレアが震える声で僕に告げた。でも、クレアが怪我をするなんて、僕は想像もしたくない。
「そんなの嫌だよ。僕の体に今さら傷が増えてもどうってことないけど、クレアの体はとても綺麗なんだから」
僕がそう言うと、なぜかクレアの顔が赤くなった。そんな口づけした後みたいな顔、他の人には見せないでほしいんだけどな。
僕の気持ちを読んだのか、クレアは僕のお腹しか見ないというように顔を俯けた。
僕もそこにあるクレアの手に視線を向けて、ようやくクレアが僕の止血に使っている布がクレアのドレスと同じ色をしていることに気づいた。このドレスもせっかくクレアに似合ってたのに。
でも、もっとクレアに似合うのを選んでまた贈ればいいや。これからいくらでもその機会はあるはずだから。