7 ふたりで進む
僕はまたクレアとの約束を守れなかった。今度こそクレアを怒らせたに決まってる。
顔を合わせて「セディと結婚するのはやめるわ」と言われるのが怖くて、僕はクレアから逃げ回った。
家にクレアが来てから初めて、僕は自分の部屋のベッドに入った。クレアが「こっちにいらっしゃい」と扉の向こうから呼んだけど、その声がいつもと違うように聞こえて、僕は返事もできなかった。
ひとりで寝たらあの夢を見てしまう気がした。でもきっと、僕はあの夢を見て、クレアが僕のそばにいないことの恐怖を思い出したほうがいいんだ。
そうして僕はやっぱり悪夢を見た。いつもの暗い部屋とあの女の人。だけど、いつのまにかそれが昨日の劇場の個室と女の人に入れ替わり、また元に戻ったりする。
ふいにクレアの声が聞こえて僕は目を覚ました。薄暗いけど、クレアが心配そうな表情を浮かべているのはわかった。
僕が手を伸ばして縋りつきたいのを堪えて「大丈夫だよ」と言うと、クレアは「あなたが隣にいないと眠れない」と言った。クレアの優しい嘘かもしれない。でも僕はそれを信じた。
ベッドに入ってきたクレアを、僕はしっかりと抱きしめた。嘘みたいに僕の気持ちは穏やかになった。大して時間がたたないうちに、クレアの寝息が聞こえてきて、その後すぐに僕も眠りに落ちた。
クレアは結婚式の前に実家に帰ることをやめてしまった。こんな僕のそばにいるために。
僕はもう、両親を信じているようにクレアのことも盲目的に信じると決めた。クレアも僕を嫌わないし、僕を見捨てない。
もちろん、ただ信じていればいいわけじゃない。クレアに僕と結婚して良かったと思い続けてもらえるように、クレアに相応しい人間になりたい。
クレアは僕に「何でもあげる」と言ってくれた。そして、僕にもクレアにあげられるものがたくさんあると。
よくわからずにいた僕にクレアが望んでくれたのは、もう一度「クレア姉様」と呼ぶことだった。それは僕の望みのはずなのに。
でも、クレアの話を聞いているうちに何となくわかった。母上の言葉どおり、僕はクレアに求婚する前に旧交を温めるべきだったんだ。
婚約するまではクレアの前以外では「クレア姉様」と口にしていたけれど、クレア本人にそう呼びかけるのは6年振りで、初めはちょっと気恥ずかしかった。
でも、一度「クレア姉様」と呼んでしまうと、堰を切ったようにクレア姉様への気持ちが溢れてきた。
婚約とか結婚とかを何も考えず、とにかくクレア姉様に会いたくて会いたくて堪らなかった日々。それにひきかえ、今は何て幸せなんだろう。
僕がクレアにあげられるものというのは、ずっと大好きだったクレア姉様とこれからもずっと一緒にいたいという気持ちを、はっきりとクレアに伝えていくことなのかもしれない。
それから、僕はクレアに今まで黙っていたことを少しずつ話していった。
僕の見る悪夢のこと、その原因になった出来事を覚えていないこと、薄暗い部屋に籠っていたこと、知らない女の人が怖くて堪らないこと、ひとりで外出しては逃げ帰っていたこと、クレア姉様に手紙を書けなかったこと、クレア姉様からの最後の手紙は読まずに仕舞い込んだこと。
こんな暗い話を聞かせるのは申し訳ないけれど、クレアにはちゃんと知ってもらうべきだと思った。多分、クレアも同じように考えてくれた。
クレアはいつも僕に寄り添って、あるいは僕をしっかりと抱きしめて、僕の話を全部聞いてくれた。時には僕が声を詰まらせ、別の時にはクレアが涙ぐんだ。
そしてクレアは、「セディは頑張ったのね」、「あなたは強いわ」と、4年前の僕を認めてくれた。
僕はあの頃の夢を見た。その夢の中には必ずクレア姉様もいた。
僕がベッドから起きられずにいると、クレア姉様が手を握ってくれる。僕が部屋に閉じ籠っていると、クレア姉様が来てカーテンと窓を開け、僕の隣に座ってくれる。僕がひとりで外出しようと玄関を出ると、そこで待っていたクレア姉様が手を差し出してくれる。
僕はクレアに話すべきことがほぼ尽きると、今度は思いきってクレアに元婚約者のことを聞いてみた。クレアは嫌そうな顔をしたけれど、話してくれた。
元婚約者はやっぱりアルバートという名前だった。クレアは16歳の時から5年間もその人と婚約していた。
婚約破棄をしたのは、その人の女癖がとっても悪かったから。
「女癖が悪いってどういう意味?」
「……複数の女性とお付き合いしていたのよ」
僕は目を瞬いた。クレアと婚約してたのに女性とお付き合い、しかも複数なんて、ますます理解できない。
「ええと、同時に何人もの相手を好きになれるなんて、すごく器用な人なんだね?」
自分で自分の言ってることがよくわからなかった。クレアが眉を顰めた。
「あの人は誰のことも好きじゃなかったと思うわ」
「クレアのことも?」
「私のことは特に、よ。今はその中のひとりと結婚したらしいけど、それだって子供ができたから仕方なくではないかしら」
僕は目を見開いた。
「子供ができたって、あ、あれをしたの? クレアと婚約してたのに、別の人と? え、お付き合いってそういうことなの?」
僕の考えていた「お付き合い」は、大人の男の人と女の人が待ち合わせをして、一緒に歩いたりお茶を飲んだりしながら「好きだよ」「私も」などと囁き合い、別れ際にこっそり短い口づけをするというものだった。
少し前にクレアの部屋で読んだ恋愛小説にそういう場面があったから。
クレアはちょっと迷うような顔になってから、それでも言った。
「そうよ。だから私が『傷物』なんて言われるんじゃない」
あれ、あれ、あれ。
「でも、クレアは、僕とが……」
クレアが慌てたように僕の口を手で塞いだ。
「お願いだから、そういうことはあなたの中だけに仕舞っておいてちょうだい。あなただけが知っていればいいの。他の人の前で口に出しては絶対に駄目」
僕がコクコク頷くと、クレアは僕の口を解放してくれた。
「あの、でも、僕はクレアがこれからずっと僕と一緒にいてくれるなら、前にその人と何をしていたとしても構わないよ」
それは僕の本心だった。でも、無理してる。実際にクレアが元婚約者と、僕が考えていたほうの「お付き合い」でもしてたら嫌だ。だけど、クレアが僕のそばにいないのはもっと嫌だ。
クレアはしばらく僕の顔を見てから、拗ねたような顔をした。
「私はセディ以外の人と何もしてないわ」
「うん」
そうだよね。そうだよね。
「あの人とも夜会でエスコートしてもらってダンスしたくらいだし」
それを聞いて、僕の気持ちはもやっとした。
「5年も婚約してたんだから、1回や2回じゃないよね」
クレアが吹き出した。
「やっぱり構うんじゃない」
「構わないけど、ちょっと気になっただけだもん」
僕がムッとしてそっぽを向いたら、クレアが僕の顔をすぐそばから覗き込んだ。
「あら、ちょっとだけなの?」
「……すごく気になった」
僕が正直に言うと、クレアは僕をぎゅっと抱きしめた。
「まったくもう。私に見栄を張らないでと言ったでしょう」
「だって、心の狭い男はクレアに相応しくない」
「心が狭くても、私はセディがいいの。セディが気にしてくれなかったら淋しいわ」
こうなると、僕はクレアに甘えるしかない。僕もクレアを抱きしめて、その首筋に僕の頭をぐりぐり擦りつけた。
すっかり気分が晴れてから、僕は再びクレアに訊いた。
「何で婚約したことを僕に手紙で教えてくれなかったの?」
クレアは首を傾げた。
「さあ、なぜだったかしら」
僕はクレアの答えが出てくるのを待っていたけど、クレアが口にしたのは僕への質問だった。
「5年前に知っていたら、あなたはどうしていた?」
今度は僕が首を傾げた。多分、帰国してヘンリーからそれを聞いた時とあまり変わらないはず。
「落ち込んで、何も手につかなくなったかな。泣いたかも」
「きっと昔の私は、私の手紙を読んだセディがそんな風になってしまうのが辛かったのではないかしら。会えないからこそ、セディには笑っていてほしかったから」
クレアの手が僕の頬を柔らかく包み込んだ。クレアの顔に浮かんだ微笑みも柔らかい。
「あなたが泣く時は、私が涙を拭いてあげたいわ」
「僕はもう大人だからそんなに泣かないと思うけど、それならクレアの涙は僕が拭くから」
僕もクレアの頬に触れ、そのまま長い口づけをした。