6 問題は僕にあり
ある朝、馬車の中で向かいに座っている父上が言った。
「クレアに家で暮らしてもらおうと思う」
僕は首を傾げた。クレアと僕はあと一月半で結婚する。結婚すればクレアが僕と一緒に家で暮らすのは当たり前、じゃないのかな。
「なるべく早く、とりあえず1か月ほどだ。結婚式の前には一旦バートン家に戻る」
「どうして?」
「本来なら時間をかけて我が家に慣れてもらうものだが、おまえたちは婚約期間が短いからな。ともに暮らせば何か問題も見つかるかもしれない」
僕はびくっとした。問題というのは、例えば僕がクレアにああいうことをしようとしたこと、だろうか。父上も、ああいうことは結婚するまで駄目だと考えているはずだ。
「もしも問題が見つかったら、クレアと結婚できなくなるの?」
「そんなことにはならない。その問題を解決するだけだ」
良かった。それなら、これからはもっともっとクレアを大事にしよう。
クレアが家で暮らしはじめる日も僕はいつもどおり、昼休みにクレアに会うためお家に帰った。
クレアが花嫁修行のために家に通うようになってから、僕は昼休みを正規の時間に戻して、家でクレアや母上と一緒に昼食をとっている。
クレアに言われたとおり、贈り物をする頻度は減らして、その分クレアとゆっくり過ごすことにしていた。
だけど、この日はなぜか、僕を見たクレアが変な顔をした。
「セディ、私は今日からこちらで暮らすのよ」
「うん。もちろん知ってるよ」
朝も夜もクレアがいると思うと、僕の頬は緩む。
「それなら、もうお仕事を抜け出して会いにくる必要はないでしょう」
僕は目を瞬いた。
「僕はクレアと昼食を食べたい。自宅で食べる人は他にもいるみたいだし」
「そうなの?」
僕が頷くと、クレアは「それならいいけど」と言いながらも、何だか納得していないような顔をした。
ふと母上のほうを見ると、母上は困った顔をして目を逸らした。ふたりで僕に隠し事でもしてるのかな。
夜に帰ってから、僕はクレアの部屋に行ってみた。
夜会の日に泊まった時とは違って、クレアが実家から持ち込んだものがたくさん並んでいて、クレアがここで暮らすんだと実感した。
僕があげたものもある。黄色い花の鉢植え、陶器の猫、ガラスペン、妖精が出てくる絵本。それから、クレアの髪には最近よく目にするあの髪留め。
猫の隣には僕の知らない天使が置かれていた。そういえば、外国にいた頃クレアから送られてきた手紙の便箋にもよく天使がいた。
僕は天使を覗き込んだ。
「クレアは天使が好きなの? 猫や妖精は好きじゃなかった?」
そう尋ねて振り向くと、クレアはちょっと吃驚した顔をしてから微笑んだ。
「セディのくれたものはどれもとても好きよ。でも、確かに天使は大好きだわ」
「ふうん。……これ、誰かからの贈り物?」
今まであまり考えたことなかったけど、別の男の人からもらったものだったら嫌だな。元婚約者とか。
「両親からの誕生日プレゼントよ。もうずっと大切にしているの」
両親からということは、まだクレアの母上が亡くなる前のプレゼントだったんだ。それならクレアが大切にするのは当然だ。
「じゃあ、僕も大切にする」
そう言って、僕はクレアを抱きしめた。大切な天使を抱きしめる代わりに、ではなくて、僕がさっきからクレアを抱きしめたくて仕様がなかっただけ。ここは部屋の中だし。
クレアも僕の背中に手を回すと、僕の腕の中でクスクス笑った。
「何が可笑しいの?」
「夜会でレイラに言われたでしょう。『やっぱりお姉様はセディに捕まったわね』って。この天使をもらった時にはこうなるなんて想像もしていなかったけど、今となってはそのとおりね」
どうしてレイラの言葉と天使が繋がったのかはよくわからないけど、クレアが僕とこうするのは嫌じゃないことはわかった。
だから僕は調子に乗ってクレアに口づけた。クレアを気持ち良くしたいけど、やっぱり僕が気持ち良い。
ゆっくりと時間をかけてクレアの口の中を一通り確かめてから、クレアの唇から離れて顔を見つめた。何だかいつもと違う。頬が赤くなってるし、目もとろんてしてる。
どうしよう。すごくドキドキする。ずっと見ていたい。
でも、クレアは僕の視線から逃げるように俯こうとした。僕はそれを止めたくて、急いでまた口づけた。
クレアがいる生活は温かくて明るい日々だった。
朝、僕は気がつくと食堂で朝食をとっているようになった。隣を見れば必ずクレアがいる。
それから僕と父上が宮廷に向かうのを、クレアは母上と並んで見送ってくれる。
夕方、僕が仕事から帰るとクレアが出迎えてくれて、その後はほとんど一緒に過ごす。そして毎晩、僕とクレアは同じベッドで寝る。
クレアが隣にいると、僕は不安も恐怖も忘れられた。あの夢も見なくなった。
だけど時々、僕はムズムズした。
クレアを抱きしめて口づけるだけじゃ物足りない。もっとクレアに近づきたい。もっとクレアを知りたい。でも我慢する。
母上の提案で、僕たちは皆で観劇に出かけることになった。
僕は劇場に行くのもはじめてだったけど、クレアがとても楽しみにしているので僕も楽しみになってきた。
当日、劇場に行くと夜会と同じくらいたくさんの人がいて僕はたじろいだ。でもクレアが一緒だし、僕たちの席は他の人は入れない個室だったので安心した。
クレアはその席から舞台や客席を眺めて興奮している様子だった。そんなクレアも珍しくて、僕は来て良かったと思った。
オペラは離れてしまってなかなか会えない恋人たちが互いを想い合う物語だった。
僕は少し前までの自分を思い出してちょっと切なくなり、僕の隣で目を輝かせて劇に見入っているクレアの横顔を盗み見た。
休憩時間になると、クレアや父上、母上はそれぞれ席を離れた。
僕はトニーに飲み物を頼んでひとり席に残り、クレアの横顔を思い出したり、後半の内容を予想したりしていた。
ふと、人の気配がした。トニーにしては早すぎる。僕は怖々と振り返った。
そこにいたのは知らない女の人だった。僕と目が合うと、その人はにっこり笑った。僕は落ち着かない気分になって立ち上がった。
声をあげて助けを呼ぼうか。だけど、部屋を間違えただけかもしれない。
「あなたがクレア・バートンの婚約者ね?」
女の人が言った。クレアの知り合いみたいだ。クレアを呼び捨てにしたし。でも、何かがおかしい。僕の中で不安が急速に膨れあがった。
「クレアは、ここ、にはいません」
「私はあなたに用があるの」
「僕に? 何、ですか?」
「あなた、あの女に騙されてるわよ」
この人、何を言ってるんだろう。あの女ってクレアのことかな。
「騙す?」
「そうよ。何か理由をつけて結婚を迫られたのでしょう」
「違うよ。クレアに結婚を迫ったのは僕だよ」
彼女は鼻で笑った。
「ほら、そう思い込まされてるのよ。可哀想に」
彼女が僕に近づいてきた。僕は蛇に睨まれた蛙だ。
「あの女は、アルバートに捨てられたのよ。それを次期公爵のあなたが拾ってあげるなんて馬鹿げてる。あんな女はアルバートに返したほうがいいわ。それよりも、若くて可愛い私のほうが未来の公爵夫人に相応しいと思わない?」
「思わない」
考えるより先に僕の口はそう答えていた。
正直言って、目の前にいるこの人の年齢なんて僕にはよくわからない。僕と同じくらいにも見えるし、すごく上にも見える。
容姿が可愛いとはまったく思えない。ただただ怖ろしくて、気持ち悪い。
クレアを捨てたアルバートというのは、クレアの元婚約者のことかもしれない。
もしかしたら、クレアを傷つけた婚約者が今になって後悔して、クレアとやり直したいと望んでいるのだろうか。それで、この人に何か頼んだとか。
だとしても、僕は絶対にクレアを手放したりしない。クレアがいない場所には戻りたくない。
「僕はクレアじゃなきゃ嫌だ。クレアがいれば、ほかはどうでもいい」
僕がそう言うと、女の人は一気に距離を詰めてきて、僕の目の前に立った。僕は後ろに退がって逃げたけれど、狭い個室なのですぐに壁に追い詰められた。
彼女が笑いながら僕の頬に触れた。
「顔色が悪いわよ。何をそんなに怯えているの? ずいぶん情けない男なのね」
駄目だ。気持ち悪い。
「触るな」
僕は無我夢中で腕を出して、彼女を突きとばした。彼女は数歩後ろによろめいてから、僕を物凄い形相で睨みつけた。
「そのうち後悔するわよ」
そう言い捨てて、彼女は部屋を出て行った。僕は動けずに、そのまましゃがみこんだ。
その後すぐにトニーが戻ってきて、僕はお屋敷に帰ることにした。
トニーを馬車で待つ間、僕の頭の中で女の人に言われた色々な言葉がグルグルしていた。
クレアは僕を騙してない。騙してるのは僕のほう。情けない僕を知ったら、クレアは僕を捨てるかな。ううん、クレアはそんなことしないはず。だけど。
しばらくして馬車の中にクレアが入ってきた。あんなに楽しそうにしてたのに、僕と一緒に帰ってくれるんだ。
すごく申し訳ない気分になるけれど、やっぱりクレアがそばにいると安心で、こんな僕にクレアはとても優しくて、僕はそれに甘えた。
だけど、僕はクレアにあんなことまでしちゃいけなかったんだ。




