3 昔のままでは
夜会の日が来た。
王宮に着いて、僕は怖気づいた。センティアの卒業パーティなんかより、何倍も規模が大きかった。大勢の人がいて、もちろんその半分が女性。
このまま踵を返して逃げ帰りたくなった。でも、それはできない。僕はこの中から、僕のたった1人を探し出さなくちゃいけないのだから。
僕は父上と母上の後ろにぴったりとくっついて、主会場の大広間に入った。辺りを見回してクレア姉様を見つける余裕はなかった。
やがて夜会がはじまり、ダンスのための音楽が流れだした。
「さあ、セディ、クレアのところに行ってらっしゃい」
母上に言われて、僕は恐る恐る足を踏み出した。
だけど大して進まないうちに、僕はたくさんの人たちに囲まれて動けなくなってしまった。しかも、なぜか若い女性ばかり。しきりに何か話しかけてくるけれど、今の僕には外国語よりもずっと難解だった。
とりあえずその中にクレア姉様がいないことだけ確認して、僕はどうにかそこを突破した。だけど息つく暇もなく、また別の令嬢たちが邪魔をしに来る。その繰り返し。
僕は何だか気持ち悪くなってきた。早くお家に帰りたい。でも、このまま帰ってベッドに入ったら、あの夢を見てしまいそうだ。どうしたらいいんだろう。
僕は助けを求めて視線を上げた。
そこに、ひとりの女性が立っていた。彼女も僕を見つめている。クレア姉様だった。
その表情を見れば、クレア姉様も僕が誰だかわかったのだと確信できた。
僕は急いでクレア姉様に近づいていった。女性に囲まれて怯えていたことも、そのせいで気分が悪くなっていたことも僕の中から抜けてしまった。
クレア姉様は、その場から動かずに僕を待っていてくれた。
僕はちゃんとたくさんの人の中からクレア姉様を見つけられた。良かったと心底ホッとする。
目の前にいるクレア姉様はやっぱり僕よりも小さかった。だけど、夜会用のドレスに身を包んだクレア姉様は、昔よりもっと大人っぽくて綺麗になっていた。
僕は母上から言われたことを頭の中に思い浮かべた。駆け寄って抱きつかない、「クレア姉様」と呼ばない、紳士らしくダンスに誘う。
「お久しぶりでございます、コーウェン公爵子息」
やけによそよそしい声で、クレア姉様が言った。「コーウェン公爵子息」って誰だろうと考えて、僕のことだと気づく。クレア姉様が僕を「セディ」以外で呼ぶのは初めてだった。
僕は淋しくなったけれど、多分これが母上の言っていた淑女らしいってことなのだろう。
だったら、僕も紳士らしく振る舞わなければいけなかった。僕は毎日、母上相手に練習した言葉を思い出して、クレア姉様に右手を差し出した。
「クレア嬢、私と踊っていただけますか?」
その途端、クレア姉様の顔に柔らかい微笑が浮かんだ。見覚えのある表情に、僕は間違えてなかったんだとわかった。
クレア姉様の小さな手が僕の手に重ねられた。
クレア姉様の手を取って、僕はダンスの輪に加わった。母上の時は何でもなかったのに、クレア姉様の腰に腕を回すことはやけに胸が高鳴った。
距離が近くなって、懐かしいクレア姉様の匂いがした。僕はさらにドキドキしてしまった。
そのせいもあって、足が上手く動かない。
「緊張していらっしゃるの?」
クレア姉様が僕を気遣うように言った。ああ、このドキドキは緊張なのかもしれない。
「少し」
「夜会は初めてですか?」
「学校の卒業パーティーは行ったけど、ダンスはしなかった」
「そういえば名門校を卒業して、今は秘書官になられたそうですね。すっかり立派になられて、幼馴染として誇らしいですわ」
クレア姉様が今の僕のことを知ってくれていたのは嬉しい。だけど、クレア姉様の昔とは違う話し方に、僕はまた淋しさを感じた。
それに、クレア姉様はまだ僕を「セディ」と呼んでくれない。
「全然、立派なんかじゃないけど、幼馴染だって言うなら、昔みたいに話して名前を呼んでよ」
「私たちはもう子どもではありませんから、昔のままというわけにはいきません」
「僕は昔のままだよ」
確かに僕は、4年前に別の人間になってしまったような気がしていた。
だけどクレア姉様への想いは変わらなかった。だから僕は、クレア姉様の前では昔のままの「セディ」でいたかった。
だけど、クレア姉様にはそんな僕の気持ちは伝わらないみたいだった。
「さあ、今度は逃げずに、ご自身に相応しいお相手をダンスにお誘いください」
音楽が止むと、クレア姉様はにっこり笑ってそんな残酷なことを言った。僕はここから逃げ出さずに、ちゃんとクレア姉様を誘ったのに。
僕はクレア姉様の手をしっかり握って、人の少なそうなほうへ歩き出した。
クレア姉様が僕を止めようとするように呼んだ。
「セドリック様」
僕は足を止めて振り向いた。きっと、クレア姉様から見た僕は、昔みたいな子供っぽい顔をしていたと思う。
「そんな呼び方じゃなかった」
口から出た言葉も子供みたいだ。でも駄目だった。
クレア姉様はどうして「セディ」と呼んでくれないんだ。やっぱり、僕のことを怒っているのだろうか。
「セドリック様、あなたは次期公爵であり、すでに陛下にお仕えできる歳の紳士のはずです。ご自身のお立場に相応しい振る舞いをしてください」
クレア姉様は僕をまっすぐ見上げて、きっぱりとそう言った。似たようなことを昔も言われた。
ああ、そうだ。昔のままじゃ駄目だったんだ。僕は紳士にならないと。僕はようやく母上に言われたことを思い出した。
「わかった」
僕は頷き、その場に跪いた。
「そろそろ手を放してください。中に戻りましょう」
一度、広間のほうを見たクレア姉様が、僕を振り返って目を丸くした。
「セドリック様?」
「クレア嬢、私と結婚してください」
僕はそう言ってから、クレア姉様の指に口づけた。練習どおりにできたはず。もちろん、母上の手には口づけする振りだけだったけど。
クレア姉様を見上げると、その目は見開かれたままだった。
「な、何を考えているの? 昔みたいに名前を呼んでほしいから求婚するなんて」
「違うよ。結婚したいから、昔みたいに呼んでほしいんだ」
咄嗟にクレア姉様の言葉を否定したけど、僕にもその違いはよくわからなかった。
とにかく、どちらが先でもいい。僕はどちらも望んでいるのだから。
「冷静になってちょうだい。私たちが結婚なんて無理に決まってるでしょう」
そう言ったクレア姉様のほうが、今までに見たことがないくらい慌てているように見えた。
僕はその言葉もすぐに否定した。
「無理じゃない」
何が無理なのか、僕にはわからなかった。
父上は婚約させてくれると言った。母上は自分で求婚して承諾を得て来なさいと言った。陛下だってついさっき、「しっかりな」と言ってくださった。
だけど、クレア姉様はもう一度、僕に向かってきっぱりと言った。
「無理よ」
とうとうクレア姉様は強引に僕の手を振り払い、逃げていってしまった。
無理なのはクレア姉様の気持ちだったのだと、僕はやっと気づいた。僕はクレア姉様に結婚を拒否されたのだ。
何が悪かったのだろう。やっぱり、子供っぽいことを言ってしまったことかな。せっかく「クレア姉様」と呼ぶのは我慢できたのに。
あれ、でも、クレア姉様も最後は昔みたいな話し方をしていた気がする。
僕はクレア姉様の後を追って広間に戻ったけれど、遅すぎたのでクレア姉様の姿は見当たらなかった。
僕ががっかりして溜息を吐いていると、何だかまた女の人が集まってくる気配を感じた。
クレア姉様がいないなら、ここに留まる必要はない。僕は帰ろうと決め、早足で出口に向かった。
「若様、帰るんですか?」
どこからかトニーが現れて、言った。
「うん」
「それなら、旦那様方にそうお伝えしてきますから、少しだけここで待っていてください」
僕がひとりで先に馬車まで行くなんて言っても、トニーが認めてくれるはずはない。
「わかった」
僕は大人しく出口の扉の陰でトニーが戻るのを待ち、それからお屋敷に帰った。
その晩、僕が見たのは、クレア姉様と完璧なダンスをクルクルと踊る夢だった。
ダンスの後で僕が求婚すると、クレア姉様はにっこり笑って頷き、「セディと結婚するわ」と言った。