2 会いたいけれど
僕はカイルたちのおかげで無事にセンティア校を卒業し、両親と一緒に帰国した。
僕がまず心配だったのは、お屋敷で僕たちの帰りを待っている皆に会うことだった。家で働く人たちの中には、女性もたくさんいる。彼女たちを怖がって逃げ出すなんて申し訳ない。
だけど、それは杞憂に終わった。6年振りに会うメイドたちに対して僕が感じたのは、怖れよりも懐かしさだった。
相手がちゃんと知っている人なら女性でも怯えずに済むとわかり、僕は安心した。それならきっと、クレア姉様に会っても平気だから。
僕は今、クレア姉様といつでも会うことのできる距離にいた。
と言っても、僕はすぐにはクレア姉様に会えなかった。
帰国の翌日には、僕は父上、母上と一緒に王宮に行って、陛下にお会いした。
「セディ、すっかり大きくなってしまったな。もう抱き上げることができないではないか」
陛下はそう言って、代わりに僕を抱きしめてくれた。
陛下のお顔を見て、僕は僕の国に帰ってきたことを実感した。
帰国したばかりなのに、父上は休む間もなく宮廷でのお仕事と、叔父上たちに任せていた公爵領の経営の引継などに追われていた。
母上もお屋敷のことを確認したり、あちこちに帰国の挨拶をしたりと動き回っていた。
でも、母上が挨拶をする方の中にアメリア・バートン伯爵夫人、つまりクレア姉様の母上の名前はなかった。5年前、アメリア様は亡くなってしまったのだ。
その報せが届いた時、母上はとても悲しそうだった。僕も悲しかった。
アメリア様のお顔は少しクレア姉様に似ていて、とても優しい方だったのを覚えている。
クレア姉様は、今の僕と同じ歳の時にはもう母上がいなかったのだ。僕にはそんなこと考えられなかった。きっとクレア姉様はとっても辛かっただろうと思うと、僕は改めて悲しくなった。
母上と父上が忙しそうな中、僕も父上と一緒に叔父上の話を聞いたり、母上と一緒に挨拶したりしていた。
だけど、短期間にたくさんの人に会ったせいか、数日寝込んだりもした。
体調が回復してから、僕は再び陛下にお会いした。僕が父上のように宮廷で働きたいと望んだからだ。
父上が陛下に、僕は語学ができると話してくれていたようで、陛下は僕がそれを生かせるだろうと、秘書官に採用してくださった。
毎朝、気づけば僕は宮廷に向かう馬車の中にいて、サンドイッチを食べたりしているようになった。向かいには父上、隣にはトニー。
僕と目が合うと、父上は仕事のことや秘書官室の先輩たちのことなどを尋ねてきた。
秘書官の仕事は大まかに言えば、陛下の政務の補助や、陛下と宮廷内の色々な部署との間の取次役。
その中で僕に与えられた主な仕事は、他国から陛下に届いた文書や、陛下が他国へ送る文書の翻訳だった。
外交文書は日常会話とは使われる言葉が異なるし、僕の知らなかった難しい専門用語が出てくるので、秘書官室の棚に並ぶ辞書や辞典を片手に文書と睨めっこの日々は、想像以上に大変だった。
だけど、秘書官室の室長や先輩方は親切な方たちばかりで、僕は色々教えてもらったり、助けてもらったりした。
慣れない仕事の合間にも、僕はクレア姉様のことを思い出していた。
僕はバートン家の正確な場所を知らないけれど、馬車の御者に頼めば連れて行ってくれるに違いない。でも、それを実行することはできずにいた。
もしも会いに行って、クレア姉様に「誰?」という顔をされたら、僕はどうすればいいのだろう。
そんなある日、宮廷の廊下を歩いていた僕に、近寄ってきた人がいた。
「セディ、久しぶりだな。帰ってたのか」
親しげに声をかけてくれた相手が誰なのか、僕にはわからなかった。だけど、その顔には見覚えがある気がして、僕は考えた。
ふいに、その人の表情が変わった。笑顔なんだけど、意地悪そう。それを目にした瞬間、僕には彼が誰なのかわかった。
「ヘンリー」
ヘンリーの目が僕を冷たく捉えたように見えたけど、すぐに意地悪じゃない笑顔になった。
「おまえが俺のことを覚えていてくれたとは光栄だな」
「ヘンリーを忘れるわけないよ」
だって、ヘンリーはクレア姉様の弟だ。
昔は僕のことを嫌っているとばかり思っていたヘンリーが、僕を覚えていてくれて、わざわざ声をかけてくれた。そのことが僕は嬉しかった。
それなら、クレア姉様だって僕を忘れていないはずだから。
「クレア姉様は元気?」
「ああ、まあな」
何だか視界が開けたような気分で、僕は仕事に戻った。
それから数日後のことだった。
いつものように、気づいた時には馬車の中でサンドイッチを食べていた僕に、父上が尋ねた。
「セディ、結婚について何か考えたことはあるか?」
それは、いつかのカイルの質問と同じくらい唐突だった。そして、やはり僕の頭に浮かんだのはクレア姉様だった。
でも、僕はクレア姉様と会いたい、また一緒にいたいと思うだけで、結婚まで考えていたわけじゃなかった。
「急に悪かったな。別に結婚しろと言いたいわけではないから、気にしなくていいぞ」
僕が悩むうちに父上が話を終らせようとするのがわかって、僕は焦った。父上にクレア姉様のことを言えるのは今だけかもしれない。この機会を逃したら、もうクレア姉様に会えないかもしれない。
「クレア姉様」
よく聞き取れなかったらしい父上に向かい、僕はもう一度はっきりと告げた。
「クレア姉様がいい」
僕は、自分が大胆なことを言ってしまった気がして、胸がバクバクした。だけど、口にしてから、僕が結婚するのなら相手はクレア姉様しかいないことに気がついた。
父上は少し驚いたような顔になった。
「クレア姉様とは、バートン伯爵の令嬢のことだな?」
僕は頷いた。
「そうか、クレア姉様か」
馬車が宮廷に着くまで父上は何か考えているみたいだった。
父上がどうにかしてくれるに違いないと思い、僕の気持ちは昂った。
その後、父上がクレア姉様の話をすることはなかった。だけど僕は、ただ会うのではなく結婚したいと言ってしまったのだから、時間がかかるのは仕方ないと考えていた。
時々、宮廷でヘンリーに会った。
「クレア姉様は元気?」
「ああ」
僕はヘンリーに会うことが楽しみになっていた。大人になったヘンリーは昔みたいに意地悪なことをしなかった。
僕がヘンリーの顔を見るたびにいつもクレア姉様のことを訊くので、そのうちに、僕が口を開けるより先にヘンリーが「姉上は元気だ」と教えてくれるようになった。
ヘンリーも本当は親切な人だったとわかって、僕はこれからはヘンリーとも仲良くできそうだと安心した。
僕は父上からクレア姉様との結婚の話を聞ける時を今か今かと待っていた。
そんな時、いつものようにヘンリーを見かけた僕は、急いで彼のほうに向かった。
僕に気づいたヘンリーは、やはり僕が何か言うより先に口を開いた。
「実は、姉上はもうすぐ結婚するんだ」
まだ僕は父上からクレア姉様のことを何も聞いてはいなかった。だから、クレア姉様が結婚する相手は僕ではなかった。
僕は目の前が真っ暗になった。
ヘンリーに何と答えたのかも、どうやって秘書官室まで戻ったのかも覚えていない。
何で今まで僕は、あのクレア姉様なら婚約者がいて当たり前だということに思い至らず、浮かれていられたのだろう。ああ、父上はクレア姉様が結婚することを知って、僕に言えずに困っていたのかもしれない。
僕はその後の仕事で間違いを繰り返してしまい、皆に心配された。
ある夜、僕は父上に呼ばれた。父上の隣には母上もいた。
いよいよ父上は僕に「クレア姉様は他の人と結婚する」と告げるのだろうと思い、泣きたくなった。
「セディ、近々バートン家におまえとクレア嬢の婚約を申し込もうと思う」
予想とは真逆の言葉がすぐには信じられず、僕は父上の顔をまじまじと見つめた。
「クレア姉様、結婚するんじゃなかったの?」
「確かに婚約はしていたのだが、それが破棄されたそうだ。その責任はすべて相手にあって、クレア嬢にはまったく非のないことだから安心しなさい」
父上の説明に、僕は頷いた。体の中にじわじわと喜びが広がっていった。
「じゃあ、僕、クレア姉様と結婚できるんだね」
「駄目よ」
ズバッと答えたのは母上で、僕よりも父上が驚いていた。
「な、何を言うんだ、リーナ。この前は……」
「セディ、あなたは本当にクレアと結婚したいの?」
いつもより怖い顔の母上に、僕は急いで頷いた。
「だったら、今度王宮で開かれる夜会に参加して、たくさんの令嬢たちの中からクレアを探し出し、ダンスに誘うくらいしてみせなさい。その上で旧交を温めてあなたの気持ちをクレアに伝え、自分自身で求婚し、承諾を得て来るのよ。どうなの、セディ? やるの、やらないの?」
「や、やる」
そうだった。僕は自分自身でやらなきゃいけなかったんだ。それなのに、父上がどうにかしてくれるはずだとただ待っていた僕は、なんて愚かだったんだろう。
母上はいつもの優しい顔に戻った。
「母上は昨日、バートン家に行ってきたわ」
僕の心臓が跳ねた。
「クレア姉様に会ったの?」
「クレアはすっかり淑女らしくなっていたわね」
僕はもっとクレア姉様のことを聞きたくて堪らなかった。でも、母上が教えてくれたのはそれだけだった。
「いいこと、セディ? あなたも紳士になったんだというところをしっかりクレアに見せなさい。さもないと、別の男性にあっという間にかっさらわれてしまうわよ」
「はい」
僕の返事は、母上を満足させられたみたいだった。
翌日、仕事を終えて帰宅すると、母上が僕に社交の場での紳士らしい振る舞いについて教えてくれた。
どうやってクレア姉様をダンスに誘えばいいのか、求婚の作法はどんなものか、エスコートとは、などなど。
その中で、「クレア姉様」はやめて「クレア嬢」と呼ぶよう言われた。「クレア姉様」では子供っぽいというのはわかったので、どうせなら「クレア」と呼びたかったけど、それでは紳士らしくないらしい。
さらに、ダンスの練習もした。センティアではカイルが女性役をやってくれたけど、女性である母上が相手のほうが踊りやすかった。
僕がセンティアにいたうちに、母上は僕より小さくなっていた。違う。僕の背が伸びたんだ。
きっと今はクレア姉様よりも僕のほうが、背だけは大きいのだろう。
僕の中のクレア姉様は15歳のままで、だけどすごく大人に感じて、僕は17歳になったのにあの頃のクレア姉様にさえまだ追いつけない。
「初めてにしてはまあまあね」
ダンスの練習が終わると、母上は僕を褒めてくれた。
「初めてじゃないよ。センティアの課外授業でちょっとだけ教わったから」
僕が言うと、母上は目を瞬いた。
「あら、そうなの。でも、毎日練習すればきっと上手に踊れるようになるわ」
「うん」
センティアの先生方よりも厳しい母上の課外授業はそれから毎晩行われた。