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朝の大切なお仕事(トニー)

「あれ、若様、結局こっちで寝たんですか」


 その朝、若様のお部屋に入ると、若様がベッドの中で寝ていた。それはもちろん、いつもどおりの光景だ。

 しかし昨夜、若様は初めてこの部屋の隣にある夫婦の寝室で休まれたはずだった。実際、私は寝室に入っていく若様を見送った。

 昨日はお屋敷で行われた夜会で若様の婚約披露があり、若奥様もこの部屋の隣にある若様夫婦の寝室にお泊まりになることになっていた。

 若奥様に「まだ婚約しただけなのに一緒に寝るのは駄目よ」と追い出されたのだろうか。あの方は、そういう線引きをきっちりするような気がする。まあ、淑女なら当然だ。


 とりあえず、私は若様の体を揺すりながら声をかけた。


「若様、起床の時間ですよ」


 若様はもちろん、このくらいでは目を覚まさず、「んんん」などと唸るのみ。


「若様」


 私はもう1度繰り返した。普段ならそれでも若様は寝たままなので私が強制的に引き起こすことになるのだが、この朝は少し違った。


「クレア」


 若様は、わずかに瞼を動かして若奥様の名を呼ぶと、私を抱き寄せたのだ。

 センティア校を卒業したばかりの頃は若様が「カイル」と口にすることはあったが、さすがに抱きつかれたのは初めてだった。


 しかし、どうしようかなどと私が悩む必要はなかった。


「違う」


 若様は実に哀しそうにそう言うと、すぐさまペイっと私を突き放してから寝返りをうって身を丸めたのだ。

 いや、間違えたのはあなたですから、そんな騙されたみたいにしないでください。


 だが、若様が寝惚けて抱きついたということは、寝る前に若奥様からそれは許されたのだろう。

 私は若様の耳元で囁いてみることにした。実際には囁いても若様には届かないので、普通より大きめの声で言った。


「若様、クレア様はご自分のお部屋で支度をされて、もうじき食堂に下りていきますよ。若様も今朝はクレア様とご一緒に朝食をとられてはどうですか?」


 しばらく待っても反応がないので私が諦めかけた時、ふいに若様がむくりと起き上がった。私の言葉が若様の頭の中で処理されるのに時間がかかったらしい。


「ん」


 私はそれを「クレアと朝食を食べたい」の意と受け取った。


「はいはい。では若様も支度しましょう」


 私が若様の手を引いて促すと、いつもならありえないほど呆気なく、若様はベッドを出た。


 私は若様の寝巻を脱がしながら、ベッドを見下ろした。若様がここで一晩寝たにしては、シーツの皺があまりに少なすぎた。




 若様が食堂に入っていくと、そこにいた旦那様、奥様、若奥様、さらに使用人たちまで、誰もが驚いた様子を見せた。

 若様が朝の食堂に姿を現すことなど滅多にないのだから当然だ。唯一それを知らない若奥様は、若様が未だ目の開かない状態のままやって来たことに、だろうか。


「おはよう、セディ」


 せっかく若奥様が挨拶してくれても、若様の答えは「はう」とか何とか。


「セディの目がもう少し覚めないと、会話は無理だ」


 旦那様がそう仰った。ご自身の経験を踏まえてのことだ。


「そうなのですか」


 私が若様を若奥様の隣の席に座らせてフォークを握らせるのを、若奥様はじっと観察していた。

 若様が意外としっかりした手つきでそのフォークでソーセージを口に運ぶのを待って、若奥様も食事をはじめた。


 朝食が終わろうとする頃になって、唐突に若様が「あれ」と声をあげた。

 やっと目が覚めて、普段とは状況が異なることに気づいたらしい。隣にいる若奥様の姿を見て、さらに目を大きくした。


「クレアがいる」


 一瞬の間があって、若奥様が吹き出した。つられたように旦那様と奥様、私や他の者たちも笑い出した。若様だけはキョトンとしていたが、そのうちに笑顔を浮かべた。


 食事が済むと若様は一旦部屋に戻るために、若奥様と並んで階段を上っていった。

 その隙に、私は旦那様に近寄ってそっと報告をする。


「おふたりは同じベッドを使われました」


「それだけか?」


「そのようです」


「そうか」


 私は旦那様に小さく頭を下げると、若様の後を追った。


 しかし、宮廷に向かう馬車の中で旦那様の問いに「何もしてないよ」と答える若様を見て、どうやらまったく何もなかったわけではなさそうだと私は思ったのだった。




 それからすぐに、若奥様はコーウェン公爵家で暮らしはじめた。


 若様と若奥様がソファに並んで座る姿などは、昔からの付き合いのせいか仲の良い姉と弟のようだったが、時たま漂うほのかに甘い雰囲気はやはり恋人同士、あるいは新婚夫婦のものに見えた。

 旦那様や奥様の目があると、若奥様は意識して若様との距離を保とうとしていが、若様は気にせずそれを詰めていった。

 お屋敷の使用人たちは、そんなおふたりを微笑ましく見守っていた。


 毎朝、私が若様の部屋に入ると、やはり若様はベッドでひとり寝ていた。

 いくら若様が細身とはいえ、若奥様が隣室からほぼ眠っている状態の若様を移動させるのは大変だろう。

 だが、下手に「私が迎えに行くので必要ありません」などと言い、若奥様が気分を害して若様と一緒に寝てくれなくなったら困る。

 とりあえず、私は知らない振りを続けることにした。


 若様は若奥様が隣にいると安心するのか、悪夢を見ることもないようだった。


「若奥様が一緒にいるおかげでよく眠れるようになって、良かったですね」


 ある時、私が何気なくそう言うと、若様の目が少しだけ泳いだ。


「クレアが一緒だから、なかなか眠れないこともあるよ」


 私は思わず若様の顔を見つめてしまった。




 3週間ほどがたったある晩、皆様揃って観劇に出かけられた。

 劇が休憩時間になると、旦那様や奥様、若奥様はそれぞれ席を離れられたが、若様はひとり残っていた。


「トニー、喉が渇いたから、飲み物もらってきて」


 私はチラリと若様の顔を伺った。ご自身が何か飲みたいよりも、私が一緒にここに留まっていることを気にしているのではないかと思ったのだ。


「僕はちゃんとここにいるよ」


 私が若様をひとりにするのを不安に感じる気持ちも、若様は察していた。まあ、この貴賓席に他人は入れないはずだから、そこまで心配することはないのかもしれない。


「わかりました」


 私はそう言って、若様から離れた。

 大勢の方々が屯する中を縫うように歩き、ロビーで配られている飲み物を受け取ると、急いで若様のもとに戻った。


 貴賓室の手前まで来たところで、向こうから若いご婦人がやって来た。もう少しでぶつかりそうになって、私は飲み物を零さないよう庇いつつ、脇によけて頭を下げた。

 わずかに見えた表情には蔑むような色があり、歩き方には気品がない。奥様や若奥様とは大違いだった。


 何となく嫌なものを感じながら貴賓室に入ったところで、私は目を見開いた。


「若様?」


 若様は入り口近くの壁に寄りかかるように座り込み、震えていたのだ。

 私は手にしていた飲み物を小卓の上に置くと、若様のそばに膝をつき、その背に右腕を回した。


「どうしました? 何があったんです?」


 若様は首を振った。


「何も、ないよ」


 若様は震えは治まってきたものの、明らかに顔色が悪い。

 私が咄嗟に考えたのは、先ほどすれ違った女のことだった。あの女が勝手にこの部屋に入ってきたのだろうか。だが、それを若様に問い質すことは躊躇われた。


 若様は立ち上がったが、足元がやや覚束なかった。


「僕、先に帰ってもいいかな」


 そう言いながらも、若様の足は出口に向かって動きだした。私はそれを支える。


「はい、そうしましょう」


 若様を馬車に乗せ、御者に若様から目を離さぬよう頼むと、私は皆様に伝えるために劇場に戻った。

 若奥様は若様が帰宅すると聞くと、迷わず一緒に帰ると決められた。




 翌朝、私が若様の部屋に入ると、ベッドに若様の姿はなかった。

 当たり前だ。若奥様の指示で私が寝室のベッドに若様を寝かせたのだから。


 私は寝室の扉をノックして、声をかけた。若奥様に。


「若奥様、起きてますか? 入ってもいいでしょうか?」


「駄目よ。ちょっと待って」


 一拍空いてから返ってきた若奥様の声は焦っているように聞こえた。中で人の動く気配がする。

 私は少し考え、もしやと1つの答えに至った。


「若奥様のお支度ができたら声をかけてください。若様はそのままでいいので」


 若様が寝巻を着ていないなら、むしろそのままのほうが仕事が楽でありがたいです、と心の中で付け足した。


「入っていいわよ」


「失礼します」


 私が扉を開けると、反対側の扉が閉まるところだった。

 若様は未だベッドの中で眠っていて、その上に衣類が無造作に置かれていた。

 私が掛布団を剥ぐと、当然、若様は真裸だが、顔色は悪くない。


 私は「良かったですね」と頭を撫でてあげたい気分になったが、若様がそういうことをされたいのも若奥様だけなので自重した。

 その一方で、何も知らないまま若様の体の傷を初めて目にしただろう若奥様が何を考えたのか気になった。あの方がそのくらいで怯むことはないと思うが。


 ところが、覚醒した若様は再び顔色を変え、若奥様を避けるような態度をとった。


 宮廷に馬車が到着すると、若様は急ぎ足で降りていった。

 その後ろ姿を見ながら、旦那様が私に尋ねられた。


「いったいどうしたんだ? やはりクレアと何かあったのか?」


「ご夫婦になられたようです」


 私の遠回しな言葉の意味を、旦那様は正確に理解してくださった。そのお顔に浮かんだのは、驚きと喜びだ。


「本当か? だがクレアはいつもどおりのようなのに、なぜセディはああなんだ?」


「私にも詳しいことはわかりませんが、『結婚前は駄目だったのに』とか何とか仰っていました」


「それで、クレアは怒っているのか?」


「怒ってはいらっしゃらないと思います」


「セディの思い込みか。変に拗れなければいいが」


 その後、拗れかけたせいで、若奥様も若様の見る悪夢と過去の事件のことを知った。若奥様はさらに若様に寄り添う覚悟を決められた。

 結果、おふたりの仲はより深まったのだった。




 それからは、朝、私が若様の部屋で若様の姿を見つけることはなくなった。

 近頃では、私が寝室の中の若奥様に声をかけて中に入ると、若奥様が若様を起こしてくれる。


「セディ、朝よ」


 柔らかく甘い声、では残念ながら若様の目は覚めないので、若奥様の声も肩を揺する手つきも少々荒い。


「起きなさい、セディ」


 若様の目がわずかに開き、起きあがったかと思うと、若様は「クレア」と呼びながら、間違えずに若奥様にぎゅっと抱きついていく。

 若奥様の「まったくもう」という言葉は、私が見ているので照れ隠しに口にしているだけだろう。その証拠に、若奥様が若様の体を抱きとめ、頭や背中を撫でる手はとても優しい。


「そう言えば、トニーは10年近くここにいるのよね? もしかして、昔も遊び疲れて寝てしまったセディを迎えに来たりしたことあった?」


「ああ、そんなこともありましたね」


 当時、その役割はたいてい乳母が務めていたが、私が行くこともあった。

 もっとも、若様が眠ってしまったのは遊び疲れてというよりは、はしゃぎ疲れてというのが正確だ。昔の若様は早寝早起きの良い子だったが、「明日はクレア姉様に会える」と思うと、その夜は興奮して眠れなかったのだ。


「やっぱりそうだったのね。あの頃はちょっと顔つきが怖い感じがしたから、別の人だったのかとも思ったのだけど」


「そうでしたか? それは申し訳ありませんでした」


 私は苦笑しながら頭を下げた。そういう自覚がないこともない。


「ふたりで何の話してるの?」


 若様が若奥様の胸の中で不機嫌そうにもごもごと尋ねた。最近は覚醒するのがだいぶ早くなった。


「あなたの話に決まっているでしょう。ほら、身支度してきなさい」


「うん」


 ようやく若奥様から離れると、若様はベッドを下りた。ここからは、まだ私の仕事だ。

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