3 拒絶は不可能
翌日、私はいつもより早く仕事から帰った父に呼ばれた。ちなみに、父は宮廷の財務官だ。
父は戸惑っている様子だった。
「クレア、コーウェン公爵子息から求婚されたというのは本当か?」
「……はい」
私は頷いた。昨夜のあの場面を何人もの方々に目撃されていたことはわかっていたので、誤魔化せないだろう。こんなに早く噂になって、父の耳にまで届くとは思っていなかったけど。
しかし、父が知ったのは噂からではなかったらしい。
「公爵からおまえをご子息の妻に迎えたいと正式な申し入れがあった」
「はい?」
私は思わず大きな声をあげてしまった。
いくら公爵夫人と母が親友だったとはいえ、私は4つも歳上の伯爵家の娘だ。公爵家の嫡男の嫁に相応しいとは思えない。
私の考えているよりも噂が広まってしまって、私をセドリック様の婚約者にしないと外聞が悪いのだろうか。いや、そのくらいならさっさと別のきちんとした令嬢を選んでしまって噂を揉み消したほうが良い気がする。
それならば、公爵がセドリック様の無茶苦茶な我儘を聞いてしまったのか。ひとり息子であることを考えれば、こちらの理由のほうがあり得る。
「クレアからの返事はまだしていないと聞いたが」
「突然のことで、驚いてしまったものですから」
「昨夜の体調不良はそのせいか」
父の呟きに私は身を竦めたが、父は私を叱ったりはしなかった。
「私も話を聞いて驚いたが、それで、どう返事するつもりなんだ?」
私は答えに迷った。私は今日1日、あれはセドリック様の一時の気の迷いだと思い込もうとしていたので、セドリック様に返事をすることなんて考えていなかったのだ。
「お父様は、どう思われますか?」
「良い話だと思うよ。正直に言えば、前の婚約を決めた時だっておまえにこんな良い縁談は来なかった。もちろん、公爵家に嫁ぐことは大変だろうが、幸い、子息も夫人も昔からの知り合いだし、それに、クレアはどこに出しても恥ずかしくない自慢の娘だ。おまえならきっと大丈夫だろう」
「……もう少し考えても構いませんか?」
「ああ、大事なことだからな。ゆっくり考えなさい」
本心はわからないが、嫁き遅れの娘に頭ごなしに「受けろ」などとは言わない父に、私は感謝した。
私はセドリック様と結婚するということについて、ようやく腰を据えて考えはじめた。
ところが、その翌日の午後、我が家にセドリック様が前触れなく現れた。
「どうされたのですか? お仕事は?」
「大事な用事があるからと、少しの間、抜けさせてもらった」
「だったら、早くその用事を済ませて宮廷に戻ってください」
「だから、大事な用事でここに来たんだよ。少し話したい」
私はやっとセドリック様の言葉を理解して、彼を居間に通した。
紅茶を運んだメイドが出ていくと、私たちはふたりきりになるが、扉が少しだけ開けられていた。セドリック様のことはつい最近まで弟のように思っていたはずなのに、何だか落ち着かない気分になる。
「一昨日は、急にあんなことを言ってごめん」
セドリック様はそう言って頭を下げた。やっぱり取り消すのかと思って、私はなぜか少しだけがっかりしたが、セドリック様には笑ってみせた。
「どうか、お気になさらないでください。私こそ、失礼な態度をとってしまい、申し訳ありませんでした」
「別に、失礼じゃないよ。むしろ、やっと昔に戻ってくれたみたいで嬉しかった。呼び方は戻してくれなかったけど」
あれ、と私は首を傾げそうになった。
「ですから、幼馴染だからと言って昔のままでは……」
「だから、結婚するならいいでしょ」
「……本気なの?」
また、昔の口調になってしまった。
「もちろん本気だよ」
それから、セドリック様は私を伺うように見つめた。
「クレアって呼んでもいい? もう、姉様とは呼びたくない」
「この前はクレア嬢って呼んでくれたじゃない」
「ああいう場ではそう呼ぶように言われたから。だけど、他人行儀な感じで本当は嫌だった」
セドリック様は拗ねたように言った。
「コーウェン公爵子息、私たちは他人です。クレア嬢、あるいはバートン嬢でお願いいたします」
私は敢えて冷たく聞こえる言い方をした。まだ流されてはいけない。
「だいたい、あなたは結婚するということの意味をちゃんとわかっていらっしゃるのですか?」
「わかってるよ。僕はクレアとずっと一緒にいたい」
「嬢」
「……クレア嬢と一緒にいたい。クレア嬢でなければ駄目だ」
セドリック様は泣きそうな顔になってしまった。それでも私はグッと堪える。
「あなたは社交界にあまり出ていないようだし、確か通っていたのは全寮制の男子校だったのよね。それならば、今は私しか知らないからそう思っているだけで、これからたくさんの女性と出会えば考えも変わるわよ」
そう私が言うと、セドリック様は絶望的な顔になった。
「たくさんの女性と出会うなんて、それこそ僕には無理だよ」
確かに、先日の夜会の様子ではそれを否定することもできなかった。
私は小さく嘆息した。
「セドリック様のことは好きです」
私の言葉に、セドリック様の顔が明るくなった。
「だけど、ずっと弟のように思っていたから、突然、結婚なんて言われて困惑しているの。お願いだから、返事はもう少し待って」
セドリック様は頷いた。
「うん、待つよ。だから、良い返事をください」
翌日から毎日、セドリック様は私に会いにやって来た。こんなに仕事を抜け出して大丈夫かと私は心配になり、返事を急がなければと焦ってしまう。だが、セドリック様は「大丈夫」と言うばかりだった。
そのうえ、セドリック様はわざわざ私に贈り物まで持ってくる。宝石やドレスといった高価なものではなく、お菓子や花、本など、私が受け取りやすいようなものだ。これも誰かに言われたのだと思うけど、ちょっと嬉しいと感じてしまう。
セドリック様の滞在時間は短かったが、私たちは互いに向き合って色々な話をした。
ふたりで昔の思い出話をしていると、懐かしくてつい気持ちが弛んでしまう。
これではいけないと、私は自分を戒め、セドリック様を試すようなことも口にした。
「私はセドリック様より4つも歳上なのよ」
「うちの父上は母上より12歳も上だけど、仲良いよ」
「……そ、それに、私は婚約破棄したばかりで傷物なんて言われているわ。気にならないの?」
「うん。クレア嬢の婚約者がいなくなって良かった。他にも言い寄る男がいるんじゃないかってことは気になるけど」
「私と結婚したいなんて言う人、あなた以外にいないわよ」
「それなら、クレア嬢も早く僕を選んで」
そんな感じで、毎日毎日、綺麗な顔をした貴公子の訪問を受けて、まっすぐな視線を向けられていれば、誰でも絆されてしまうに決まっている。
そもそも、この歳下の幼馴染のお願いを突っ撥ねることなど私にできるはずがないことは、最初からわかっていたのだ。
私は20日と保たずにセドリック様に陥落した。
「これからは、またあなたをセディと呼ぶわ。セディも私を好きなように呼んでいいわよ」
私の言葉をキョトンと聞いていたセディの顔が、その意味に気づいてフニャっと崩れた。
再会してからのセディは昔に比べてずいぶん表情に乏しい印象で、特に笑顔はほとんど見られなかった。大人になったということなのかもしれないが、私は少し寂しさを感じていた。
だから、諦めに近い感覚で決心したはずなのに、セディのその表情を見て、私は自分の選択が正しかったのだと心から思えたのだった。
すぐさま、コーウェン公爵夫妻とセディが揃って我が家を訪れて、正式な婚約が交わされた。
カトリーナ様は私とセディの婚約をとても喜んでくださっていた。しかし、初めて挨拶を交わしたコーウェン公爵のお気持ちは私にはいまいちわからなかった。穏やかに笑んではいらっしゃるけど、公爵の表情が本心を表しているとは限らない。
そこで私は再び驚かされることになった。
「2か月後、ですか?」
父の声も戸惑いを隠せていなかったが、公爵はにこやかなままだった。
「何か問題がありますかな?」
「そのような短期間では準備が整うかどうか……」
「もちろん、心配には及びません。各方面に確認したうえで、2か月後なら大丈夫という結論に至ったのです。それに、こちらの都合で急がせてしまうのだから、必要なものは全てこちらで用意させていただくつもりです。何か要望があれば早めにどうぞ」
どうしてセディの側がそんなに結婚を急くのかわからない。まあ、私の歳を考えれば、のんびりされるより良いのかもしれないが。
とにかく、正式な婚約を結んでしまった以上、公爵が決められたことを私や父が拒めるはずもなく、2か月後に私はコーウェン公爵家に嫁ぐことになった。