姉は何もしていない(ヘンリー)②
姉上がアルバートと本当に婚約破棄したのは、それから間もなくのことだった。結局、俺がもたもたしているうちに、姉上自身が決断したのだ。
とうとう姉上も我慢の限界に達したのかと思いきや、アルバートが女と絡み合う姿を目撃してしまったらしい。そんなところを姉上に見せたアルバートに殺意を抱いたが、残念ながらもうあいつと会う機会はないだろう。
さすがの父上もアルバートにかなり腹を立てていた。屋敷の使用人たちに対してアルバートが来ても門の中に入れないよう、さらに姉上とは絶対に会わせないよう徹底された。
姉上は結婚せずにこのまま家にいることを心苦しく思っているようだった。父上に「後妻を求めている良い方はいませんか」なんて尋ねている。
もちろん俺は大反対だ。姉上が後妻だなんて認められるはずがない。父上も姉上をアルバートと婚約させたことを後悔したらしく、「無理に結婚しなくていい」と言った。
よほど良い相手が見つからない限り姉上を家から出すものかと、俺は心に決めた。
しばらくして、アルバートの相手がルイーズ・アボットだったと知った。もちろん、俺があいつに同情することはない。
1か月後、家族で王宮の夜会に参加することになった。
王家主催となれば、国王陛下の甥であるセディも来るかもしれない。俺がわかったのだから、セディと姉上も会えば互いにわかるだろう。
少し前にコーウェン公爵夫人が家を訪ねてきたそうで、すでに姉上もセディが帰国したことを知ってしまっていた。しかし、俺としてはふたりの再会を阻止したかった。
会場に入ってしばらくすると、やはりセディもやって来た。だが、セディは親の背に隠れるようにして俯いていた。
あの様子では、セディは広間の隅のほうにいる姉上には気づかないに違いない。多分、姉上が自らセディに声をかけに行くことはしないだろう。俺は安心して、エマとダンスを踊ることにした。
音楽が2曲目になり、次は姉上を誘おうかと俺は考えていた。だが、視界の隅に姉上の姿が入った気がしてそちらを見ると、姉上は何とセディと踊っていた。
俺は慌ててそちらに近づこうとしたが、人が多くてなかなか進めない。やがて曲が終わると、姉上とセディの姿が見えなくなってしまった。
「お姉様、何だか楽しそうだったわね」
エマは呑気に言った。
「そんなわけないだろう」
「でも、さっきのが例の幼馴染なのでしょう? 久しぶりに再会できたなら、やはり嬉しいはずよ」
しばらくたってから、父上に姉上が先に帰宅したと聞いた。セディの姿も見当たらなかった。俺は不安に囚われたままだった。
家に帰ってから姉上に会うと、何となくソワソワして見えた。俺は敢えてセディには触れなかった。
翌日、家に戻った俺は先に帰宅していた父上に呼ばれた。父上は興奮しているようだった。
「ヘンリー、喜べ。クレアに縁談が来た。しかも、とても良い話だ」
俺は咄嗟に聞きたくないと思った。
いやいや、落ち着け、俺。確かに姉上は公爵家に嫁いでも何の不思議もない人だ。だが、伯爵令嬢に公爵家から縁談が来ることなど普通はない。だから、違うはずだ。
「何と、コーウェン公爵家からだ」
俺の必死の否定は呆気なく吹き飛ばされた。そうだ、セディは普通じゃなかった。
「何でも昨夜、クレアは子息から求婚されていたらしい」
俺は愕然とした。あいつがそんなことをできるやつだとは思っていなかった。
「それで、姉上は何と答えたのですか?」
「返事はまだだが、クレアだって悪い気はしていないようだ。それにご夫人はアメリアの友人でおまえたちもよく知っている方なんだから、公爵家といっても他家よりはクレアも気安いだろう」
父上は、もう決まったも同然と思っているようだった。そもそも公爵家からの申し出なのだから、断りにくいものではある。
しかし、姉上にきっぱりと拒絶されればセディだって諦めるはずだ。俺はその場面を想像しようとしたがまったく上手くいかず、姉上が「仕方ないわね」と笑いながら受けてしまう姿ばかりが思い浮かんだ。姉上は昔からセディに甘いのだ。
俺は頭を抱えて蹲りたいのをどうにか我慢した。
次の日、俺は宮廷でセディを捕まえた。
「おまえ、どういうつもりなんだ。姉上に求婚するなんて」
俺が低い声で迫るとセディは目を丸くしたが、すぐに照れたように頬を染めてエヘヘと笑った。この前はしょぼくれていたくせに、ずいぶんな変わりようだ。
「クレア姉様、とっても綺麗になったね」
セディはそれが俺の質問に対する答えになっていないことになんか気づきもせずに、だらしない顔で空を見つめた。姉上の姿を思い出しているのだろう。
「当たり前だ。だが、おまえがこのまま姉上と結婚できると思ってるなら、大間違いだからな」
俺がそう言うと、セディはハッとしたように俺へと視線を戻した。ひどく真剣な表情になる。
「大丈夫、ちゃんとわかってるよ。クレア姉様に頷いてもらえるまで毎日会いに行って、何度でも僕の気持ちを伝えるから」
「ちょっと待て。毎日、家に来るつもりなのか?」
「うん。昼休みの時間をずらして外出するってことで、室長と陛下の許可はもらったから安心して」
くそっ。こいつは曲がりなりにも陛下の甥だった。
「安心できるか。俺のいない間に勝手な真似はさせないぞ」
「でもクレア姉様の父上には許可を得たって、うちの父上が言ってたよ」
俺は歯噛みした。姉上とセディの婚約を望んでいる父上が、公爵の頼みを断るわけない。というか、そんなことに父親の力を使うなよ。卑怯だぞ。
その後、俺は同僚に捕まって仕事に連れ戻され、セディが我が家に行くのを止めることはできなかった。
「セドリック様は毎日、お姉様に色々な贈り物を持っていらっしゃるのよ。選ぶのも大変でしょうに」
帰宅してエマから姉上とセディの様子を聞くことが俺の日課になったが、日々、俺の神経がすり減っていくようだった。
「ふん。姉上の気を引くために必死だな」
俺は顔を顰めつつ、エマが出してくれた焼菓子を口に運んだ。なかなか美味い。
「このお菓子も、セドリック様にいただいたものをお裾分けしてくださったの。美味しいでしょう?」
「全然美味くない」
俺は2つめに伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。1つめはすでに腹の中。騙し討ちをくらったようで悔しい。
「セドリック様にお会いしている時のお姉様、とても楽しそうよ。あの方ならお姉様のことを大切にしてくれそうだし、いったい何が不満なの?」
エマが心底不思議だという顔をした。
俺がセディの何が気に入らないって、姉上大好き度に関して俺と唯一張り合える相手であることだ。
セディが誰よりも姉上を大切にすることくらい、俺にはわかりすぎるくらいにわかっている。セディはアルバートのようなことは絶対にしない。
きっとあいつは釣った魚に美味い餌を与え続ける人間だろう。しかも、あいつが釣るのは姉上のみ。
俺は長いこと姉上の弟であるがゆえに、時々会うだけのセディよりも優位な立場を保持してきた。
だが、姉上がセディと結婚してしまったら、すべて覆されてしまう。弟では姉上にしてあげられないことを、セディはすべてできるのだから。
それに、姉上は結婚したら夫と婚家に尽くす人だと思う。そのうえ夫があのセディとなれば、きっと姉上はあいつに掛かりきりになってしまうに決まっている。
姉上が俺から離れていってしまう。
姉上はセディの求婚を受け入れてしまった。予想どおりの展開に、俺の体から魂が抜けかけた。
宮廷でセディの姿を見かけた。俺は気づかぬ振りをしようと思ったが、セディがサッと寄って来たので逃げられなかった。いや、何で俺がセディから逃げるんだ。
「いい気になるなよ。おまえが義兄になるなんて、俺は絶対に認めないからな」
「うん。今までどおり、セディって呼んでくれればいいよ」
そういう意味じゃないと突っ込むのも面倒だ。
「じゃあ、僕、急いでるからまたね。クレアに会いに行くところだったんだ」
「いきなり姉上を呼び捨てかよ」
セディはヘラッと笑った。
「だって、クレアが好きに呼んでいいって言ってくれたから」
それだけ言うと、セディは去っていった。というか、婚約が決まってもまだ姉上に会いに通うのか。
と、突然セディが足を止め、俺のほうに戻ってきた。いったい何なんだ。
「ヘンリーにまだお礼を言ってなかったね」
「何に対する礼だ?」
「ヘンリーが僕のこと覚えててくれたから、クレアも忘れてないはずだって思えたし、父上に結婚のことを聞かれてクレアがいいって言えたんだ。クレアと結婚できるのはヘンリーのおかげだよ。本当にありがとう」
セディは頭を下げると、今度こそ走り去った。
呆然とそれを見送った後、俺が地団駄を踏んだのは言うまでもない。
それからしばらくして、コーウェン公爵家で夜会が開かれ、姉上とセディの婚約が披露された。そこで、俺は姉上とセディが寄り添って立つ姿を初めて目にした。
姉上は淡いブルーのドレスがよく似合っていてとても美しかった。セディに贈られたものだというのが癪だが。
「お姉様がお幸せそうで本当によかったわね」
エマが無邪気に言うが、俺は素直に祝う気にはなれない。姉上が笑顔でセディと見つめ合っているのが、面白くない。
「大切な弟がそんな顔をしていたら、お姉様が哀しまれるわよ」
「今の姉上はセディしか見てないだろ」
「困った人ね。あなたには私がいるわ、なんて言っても無駄なんでしょうね」
そう呟いたエマの顔を、俺はジッと見つめた。
「エマはずっと俺から離れずにいてくれるか?」
「当たり前じゃない。私はあなたの妻よ」
エマはそう言って微笑んだ。姉上とは全然違うけれど、エマも俺の大切な存在だ。
「エマがいれば何とか笑えそうな気がする」
「それなら、早くお姉様にお祝いを言いに行きましょう」
そうして俺はエマとともに姉上の前に立ったのだが、セディを見るとやはり笑顔が引き攣ってしまったのは仕方ないと思う。