なぜか留学生の世話係(カイル)④
とある週末、所用で実家に戻った私はふと思い立って、セディに土産を持ち帰った。寮の部屋でふたりきりになってから、それをセディに差し出す。
セディは反射的に受け取ってから、自分の手の中にある本の表紙を見て首を傾げた。
「何、これ?」
「我が家の家宝だ」
言いながら、私は本を数ページ捲ってやった。現れた挿絵に、セディが固まる。
「特別に貸してやる」
「僕は、いいよ」
「よくない。将来のために、しっかり読んで勉強しておけ」
「だけど……」
私はセディの頬を両手でがっちりと挟むと、グイッと顔を近づけた。
「実技のほうがいいか?」
私の手の中で、セディが震えるように首を振った。セディとならできそうだと一瞬だけ思ってしまったのを打ち消して、私は手を離した。
「だったら、読め」
「でも、カイルの家の家宝なんて、国宝と同じじゃないの? 僕が読んでいいの?」
「もちろん、俺たちだけの秘密だ。この部屋から持ち出すな。メモを取ったりせずに頭で、いや体で覚えろ。再来週また帰宅する時に返してくるから、それまでに全部読め」
「イアンとティムにも内緒なの?」
「当たり前だ。イアンが知ったら何を言われるか」
「やっぱり……」
セディが本を返そうとするのを無視して、私はセディの肩を抱き、囁いた。
「セディ、クレア姉様と口づけするところを想像したことはないのか?」
「そんなの、あるわけないよ」
顔を真っ赤に染めて、セディが声をあげた。
「何でだよ。したくないのか?」
セディの目が泳いだ。そういう欲求がまったくないわけではなさそうだ。
「恥ずかしがるな。好きな相手と口づけしたいと、誰しもが思っている」
「カイルは、その、婚約者としたことあるの?」
「ある」
私はきっぱり言った。実際には、まだまだ子供なリリーと口づけしたことはないが、嘘も方便というやつだ。
セディがまじまじと私の顔を見つめた。尊敬の眼差し、だろうか。
「口づけは、かなり気持ち良いぞ」
私は知ったかぶりをして、そう言った。
「唇をくっつけるだけなのに?」
「おまえはやはり勉強不足だな。まあ、この本を読めば口づけのことも、その先のこともよくわかるだろう」
セディは目を瞬かせた。
「いいか。自分が気持ち良いだけでは駄目なんだ。大事なのは、相手を気持ち良くさせること。相手を悦ばせてこそ、自分も心から幸せを感じて、さらに気持ち良くなれる。わかるな?」
セディがコクリと頷く。
「よし。それなら、どうすればクレア姉様が悦んでくれるのか、しっかり勉強しろ」
セディがもう1度頷いた。
その後、就寝前などにセディは真面目にその本を読んでいるようだった。顔を赤くして、喉を鳴らしたりしている。
いつも以上に朝の状態がひどいが、まあ仕方ない。さすがのイアンも理由に気づくことはなかった。
約束の日、セディは神妙な顔で私に本を返してきた。
「ありがとうございました」
「どうだ、クレア姉様に上手にしてあげられそうか?」
途端に、セディの顔が赤らんだ。
「そんなの、わからないよ」
「上級編も読むか? おまえのためなら持ってきてやるぞ」
セディは慌てて首を振った。
「い、いい」
「そうか。必要になったら言えよ」
「うん」
セディはおずおずと頷いた。
再び卒業パーティの季節がやって来た。
「セディ、今年はどうするんだ?」
「うん、どうしよう」
セディは憂鬱そうに返した。私も今回は無理に参加させるつもりはなかった。
「イアンの婚約者が来るんだよね?」
どうやら、多少の興味はあるらしい。
「ああ。他にも、婚約者がマリーヌにいるやつは何人もいるしな」
私はクラスメートの名をいくつかあげた。
「今年もちょっとだけ行ってみようかな」
セディは呟くようにそう言った。
私はセディを連れてダンスの課外授業に参加することにした。私は女性役を務めてやるつもりだった。
「パーティで踊る必要はないが、貴族の嗜みとして覚えておけばいつか役に立つかもしれない。俺をクレア姉様だと思ってやってみろ」
私の言葉に、セディは珍しく唇を尖らせた。
「無理だよ。カイルとクレア姉様は全然違うもん」
私は溜息を吐いた。
「そんなことはわかっている。だが、ダンスの練習には相手が必要なんだ。我慢しろ」
「わかった」
セディはダンスの才能はあまりなさそうだった。
卒業パーティ当日。予想どおり、セディの衣装は昨年とは違うものだった。だが、やはりセディは私たちの後ろにピタリとついていた。
とりあえず、私もダンスには参加せず、セディのそばにいることにした。私が一緒なら、令嬢たちも気安くセディに近づけないだろうし、礼儀知らずの者がいても追い払ってやれる。
「カイル、僕はひとりでも大丈夫だよ。踊ってきたら?」
私の影に隠れるようにしてこっそりと会場の様子を眺めているくせに、セディはそんなことを口にした。
確かに、私に誘ってほしそうな視線は感じているが、それ以上にセディを見つめる目の多いことに、本人は気づいていないのだろうか。
「おまえが女役で踊ってくれるか?」
「嫌だ」
セディの即答に、私は笑った。セディは公爵家の嫡男らしい矜持をきちんと持っているのだ。
「まあ、今年はゆったりとこの雰囲気を楽しもう。食事も普段より豪華で美味いぞ」
おそらく、セディは前回、食事をとることもできなかっただろう。それに気づいた私はセディとともに、会場の隅に用意された様々な料理の並ぶテーブルに向かい、腹を満たすことにした。
その間に、イアンやクラスメートたちがそれぞれの婚約者を連れて挨拶に来た。セディは逃げ出したいのを我慢している様子ながらも、どうにかそこに留まっていた。
「なあセディ、もしもクレア姉様と出会ってなかったとして、どの令嬢ならおまえは好きになれそうだ?」
私がそれとなく訊いてみると、セディはムスッとした。
「そんなこと、考えたくない」
前置きが悪かったかと思い、私は改めて尋ねた。
「それなら、1番クレア姉様に似てるのはどの令嬢だ?」
「似てる人なんていない」
会場にいる令嬢の顔などほとんど見ていないのに、セディはそう断言した。
「少しくらい似てる人はいるだろう。髪と瞳の色だとか、パッと見の雰囲気とか」
「僕は、クレア姉様の見た目だけが好きなわけじゃないよ」
セディに睨まれて、私は目を瞠った。
「セディのくせに、至言だな」
今は離れていても、セディとクレア姉様には積み重ねた時間がある。それこそ、セディ自身が覚えていない頃からの。そこらの令嬢が一朝一夕に、セディの心の中にいるクレア姉様と代わることなどできるはずがないのだ。
セディの想いに感じるものはあるが、クレア姉様の現状がまったくわからないので私は複雑だった。
結局、セディはパーティを途中で切り上げた。私はそのまま残り、何人かとダンスもした。
私が部屋に戻ると、セディはまだ起きていた。今年は顔色が悪いということもなかった。
「カイル、一緒にいてくれてありがとう。おかげで去年より楽しかった。皆の婚約者にも会えたし」
「それなら良かった」
「あんな風に、大切な人を紹介できるのはいいね」
セディが羨むようにポツリと言った。