11 弱くなんかない
ご政務にお戻りになる陛下とともに、セディは職場へと戻っていった。
それを見送ってから、私は庭園を散策することにした。美しく整えられた庭木や花壇の間を歩いているうちに、王宮の回廊のそばまで来た。
視線を感じて顔を上げると、セディが2階から窓越しに手を振っていた。私も振り返す。
だが、ふいにセディの手が止まり、その表情が固まった。私に何かを伝えようとしているが、セディの声は私まで届かない。
私は何とかセディの口の動きを読もうと彼を見つめていたが、セディは体の向きを変えて窓際から姿を消してしまった。
私もセディの向かったほうへ歩き出そうとして、すぐ近くに人がいたことに初めて気づいた。
それは、あの男爵令嬢だった。いや、今は結婚して次期男爵夫人か。彼女もお茶会に参加していたのか。
「久しぶりですわね、バートン伯爵令嬢」
元男爵令嬢は笑みを浮かべているが、それがいかにも貼り付けた感じで気持ち悪い。
だが、私は表面的には上手に取り繕って、口を開いた。ああ、この人の名前わからないわ。
「ええ、そうですわね」
「コーウェン公爵子息との結婚式がもうじきだとか」
「あなたはウィリス子爵子息と結婚されたのですよね。おめでとうございます」
「何がおめでとう、よ。ふざけないで」
元男爵令嬢は突然、激昂した。
「本当なら、私こそ公爵夫人になるはずだったのよ。それなのに、あんたがあのくらいのことで騒いだせいで、私はあんな冴えない男と結婚させられて、男爵家なんかに縛りつけられたんだから。全部、あんたが仕組んだことなんでしょう」
私はもちろん何もしていないし、お義父様だって私にそれを見せただけだ。今の口ぶりだと、好きでもない相手とあんなことをしていたようだが、その結果は自業自得のはず。
彼女はどこかで令嬢方が先ほど話していたような噂話でも耳にして、自分こそ被害者だと思い込んだのだろうか。
そもそも、伯爵令嬢が次期公爵に嫁ぐのだってあまりないことなのに、男爵家と公爵家の縁組など夢物語だ。特に、まったく淑女らしくない彼女なら、苦労するだけに決まっている。
「お腹に子どもがいらっしゃるのでしょう。もっと現実を見て、あの方と良い夫婦関係を築かれるほうがよろしいのではなくて?」
彼女とあの人は思考が似ているみたいだし、私なんかより余程わかりあえそうだ。
「偉そうなことを言わないで。あんな簡単に丸め込めそうなのを捕まえたくらいでいい気になって、勘違いしてるんじゃないの?」
私のことだけなら笑っていられるが、セディのことを悪く言われて、私は思わず声を荒げた。
「何も知らないのに、彼のことをそんな風に言わないでくださるかしら」
元男爵令嬢は鼻で笑った。
「わかるわよ。いかにもひ弱で、私なんかを怖がって、あんな情けない男、いくら次期公爵でも私ならお断りだわ」
いったいいつ、彼女はセディに会ったのだろう。そう考えた私の頭の中に、オペラ劇場に行った日のことが蘇ってきた。
元ウィリス子爵子息がひとりで観劇に行くはずがないし、いくらあの人でも結婚したばかりで別の女性を連れては行かないだろう。
あの夜は落ち着いていたはずのセディが、休憩時間に突然、具合を悪くしたのには、理由があったのだ。その後の色々のせいで、私はそのことに思い至らなかった。
「セディに何をしたの?」
「あんたより、私のほうがずっと公爵夫人に相応しいって教えてあげただけよ。あんたみたいな狡賢い女、公爵夫人になってはいけないの」
私のほうへと足を踏み出しながら、元男爵令嬢は右手を振り上げた。その手に小さなナイフが握られているのが見えて、私は咄嗟に後ろに退がった。
振り下ろされたナイフが私のドレスのスカートを切り裂いた。このドレスもセディに貰ったものなのに。
私は彼女と距離を取ろうとさらに後ろに退がるが、彼女はすぐに追ってきた。私の背中が庭木にぶつかって、退路を塞がれる。
彼女の顔に本物らしい笑みが浮かんだ。私を追い詰めた今の状況を、楽しんでいるのだ。まるでセディの夢に出てくる女みたいだと気づき、私の体に鳥肌が立った。
元男爵令嬢が再びナイフを振った時、私たちの間に別の人影が飛び込んだ。セディだ。
私に背を向けて立ったセディの体が、彼女の腕の勢いに押されるように傾いで、私に倒れかかってきた。私は慌ててセディを抱きかかえようとしたが、支えきれずに地面に座り込む形になった。
「セディ」
セディの服のお腹のあたりがざっくりと切れて、白いシャツに血が滲んでいた。
「クレア、逃げて」
掠れた声で言いながら、セディは私の体を押しやろうとした。
「私があなたを置いて逃げるわけないでしょう」
私は絶対に離れまいと、セディの体に回した腕に力を込めた。
「弱いくせにわざわざ自分から来るなんて、やっぱり馬鹿なのね。いいわ、ふたりともやってあげる」
セディはどこかに隠れていてくれれば良かったのにと私も思う。だけどセディは私のところに来てくれた。彼は、こんな時に私を放っておける人ではないから。
「セディをこれ以上、傷つけないで」
セディに覆い被さって睨み上げた私の言葉に、元男爵令嬢はますます笑みを深めた。彼女が三たびナイフを振り上げる。
だが、そこに王宮の衛兵たちが駆けつけて、彼女は瞬く間に取り押さえられた。まだ何かを喚いているようだが、彼女のことは私にはもうどうでもよかった。
私は彼女の手から叩き落とされたナイフを拾い上げると、それでスカートの裾を裂いた。高級なドレスから切り離されてただの布切れと化したもので、セディの傷を押さえる。
私が放り投げたナイフは、衛兵が慌てて拾い上げた。咄嗟に使ってしまったけど、凶器だから証拠品として押収されるのだったわ。
「クレア、怪我をしたの?」
「ドレスがちょっと切れただけよ。怪我をしたのはあなた」
セディは涙目になった。
「うん。凄く痛い」
「当たり前でしょう。今は我慢しなさい」
「僕はこのくらいで死んだりしないから大丈夫だよ。だから泣かないで」
セディの手が私の頬に触れた。私は自分が涙を流していたことに初めて気がついた。
「あなたが傷つくのは堪えられないわ。私が怪我をしていたほうがずっと良かった」
「そんなの嫌だよ。僕の体に今さら傷が増えてもどうってことないけど、クレアの体はとても綺麗なんだから」
セディは真剣な顔でそう言ったが、私の顔は一気に熱くなった。涙も引っ込む。
私たちの周囲には、騒ぎを聞きつけた人々が集まりつつあるというのに、そんなことを口にしないでほしい。「僕はクレアの体を見ました」と言ってるのと同じではないか。
それにしても、ああいう場でセディには私の体を見る余裕があるのね。私にはまったくないわよ。
セディは衛兵たちの手で王宮の中にある客室に運ばれて、陛下が遣わしてくださった侍医の手当てを受けた。
幸い、セディの傷はそれほど深くはなかったものの、5針縫ったそうだ。
侍医が去ってから、私は改めて口を開いた。
「セディ、あなたのほうが歳下なのだから、私より長生きしなきゃ駄目よ」
「クレアがいなくなったら、僕が生きていけるわけないじゃないか。クレアが僕を看取ってくれないと」
「どちらが看取るにしても、そんなのは何十年も先のことよ」
私がセディに言い返すより先に、お義母様が口を挟んだ。
「とにかく、ふたりとも無事で良かった。セディが愛する者を体を張って護れる男だとわかって、誇らしいぞ」
お義父様はそう言って笑った。
でも、この部屋に入ってきた時のお義父様は、真っ青な顔をされていた。息子の危難を聞いて、仕事を放り出して飛んできたに違いない。
お義父様に褒められたセディは、目を輝かせて私を見つめてきた。私にも褒めてほしいのね。そう言えば、まだ感謝も伝えていなかった。
「セディ、私を護ってくれてありがとう。あなたはとても勇敢で、格好良かったわ」
私が微笑むと、セディも嬉しそうに笑った。
だけど、自ら刃物の前に飛び出すような無茶は二度としないでね。
そのまま一晩、セディは王宮に泊めてもらうことになった。私がセディと一緒に残り、お義母様は公爵家の屋敷に、お義父様はお仕事にそれぞれ戻られる。
しばらくして、屋敷から私たちの着替えなどを持って、トニーとアンナが来てくれた。
セディはずっと気丈にしていたのだが、私が隣の部屋でドレスを着替えてからセディのところに戻ると、すっかり弱った顔になっていた。
額に濡らしたタオルがのっているので、発熱したのだろう。少し潤んだ瞳が私を見上げた。
「セディ、私はここにいるから、ゆっくり休むのよ」
「クレア姉様、手を握っててくれる?」
「ええ」
セディが布団の下から伸ばした手を、私が両手でしっかりと包み込むと、彼は安心したように目を閉じた。
その夜も、セディが悪夢にうなされることはなかった。