運命、とは
読者諸君は「自分の人生」について考えたことがあるだろうか?
将来の夢でもなく老後の人生でもなく――ある意味含むが――人生、道についてだ。
人生の道と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
草原にしかれた幾度もの分岐のあるあぜ道?謎の空間に浮かぶ多数の線?それとも、この先起こるすべてのことが書かれたスケジュール帳?
どれも正解だ。すべて正解。
煽っているわけではない。紛れもない事実だ。
10人いれば10通りのイメージがあるし、5億人いれば5億のイメージがある。十人十色というわけだ。そりゃあもちろん、似たイメージはあるだろう。5億人いるんだからどこかしら被っているはずだ。
私が最初に思い浮かべたイメージは、空間に浮かぶ何本もの線。ずぅーっとしたから首が取れるほどの上まで続いている長い線。その一本一本の線は途中で分岐している。その分岐した線が他の線とぶつかるのだ。
何を言っているんだ?と思われるかもしれないし、実際私もよくわからない。すべて正解だがすべてわからないのだ。
下からずっと真っ直ぐに伸びる線、これを「幹」と呼ぼう。その幹から枝分かれしている線は「枝」と呼ぼう。
幹はいわば「自分の人生」だ。人生、というより運命はこの線をたどる。枝はその選択肢だ。
私はすべての事象、動作、物がこれに沿って働いていると思っている。
例えば「コップを持つ」といった動作もだ。コップを持つか、否か。それ以外にも考えうる選択肢はいくらでもあるわけだが、自分はその中の一つを選択し、コップを持つ(コップを持つと決めても細かな「選択肢」はいくらでもあるがここでは省略させてもらう)。
◇◇◇
世間ではよく「将来は自分で決めろ」だとか「自分の人生好きにしろ」と言われている。
ここでは例として「大学に進むか就職するか、それとも他か」という事象で話す。
選択肢をいくつかピックアップすると「大学」「就職」「専門」が挙げられる。
さて、ここに3つの「枝」がある。
去年、高校3年生だったAさんはこの3つの枝から「大学」という選択肢をとった。
受験は合格。晴れて大学デビューをし、サークルにも入った。好きな人もできて、絶賛おつきあい中と、まさにリア充な生活をしているAさん。
さて、ここで思い出してほしい。Aさんは「大学」をとった。しかし枝は確かあと2本あった。
そう、「就職」と「専門」という枝。そして私は、これらの枝が「ある」と明言している。
リア充生活真っ最中のAさんの「幹」は「大学」という枝に分かれた。
では、「就職」と「専門」の枝。果たしてどこに行ってしまったのか。
◇◇◇
私の考えでは、元から「ない」を答えにしたい。
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は?が読者の感想だろう。
いやお前、さっき枝はあるって言ってるじゃねーか!と。
あるにはある。あるのは「候補としての、架空の、虚の枝」
どういうこっちゃと思うだろう。
先程私は、人生の線とそこから枝分かれする選択肢の線、そして、選択肢という枝に沿って伸びる「幹」があるといった。枝が複数あり、その中から一つ選び人生が進むとも。
その枝。それは、選択された枝が既に一本道であるということ。
過去に「ある」と思っていた選択肢はない。選んだ選択肢こそが選択肢ではなく幹である。
言うなれば「決定事項」なのだ。Aさんがあると思っていた選択肢は架空であり、Aさんは大学に進むという決定事項をそのまま進んだ。
◇◇◇
正直、哲学というか、心理学というか、学問とつけていいのかわからない。
私、筆者はよくなにかに失敗したり、評価が芳しくなかったりすることが多い。そんなとき、よくこれで「運命ゆえ仕方なし」と思っている。
逃げているだけだが、少なくとも筆者はこれでうまく人生を見つめ直すことができている。
最後に
人生悲観的になりすぎても疲れる。そんなときこの文章をおもいだしてほしい。運命だと割り切るのが一番楽だ。少しぐらい逃げたっていいじゃないか。
これは運命だから変えられないと悲観的になるのもよくない。あくまでこれは筆者の一説だし、それこそ運命に勝ってみてはどうだろうか。新しい人生が見えるかもしれない。
どうも、作者です。
まあ、心の隅にでもとどめておいてくれれば幸いです。
感想をくれれば幸いです。
もちろん反論?とかもお気軽にどうぞ。