三章『友情』
イリとニシパが遠くで争っているのと時を同じくして、ワクは悪い夢を見ていました。
「この群れから出て行け」
「この群れから出て行け」
昨日まで仲間であり家族であったはずの狼達がワク一匹を取り囲み、
群れから出て行くように迫るのです。
「あわわ……」
ワクがうろたえていると、群れの真ん中からとても大きな灰色の狼が現れ、
ジリジリとワクに近寄ります。
実際の狼の何倍も大きな虚構の姿ではありますが、
その顔付きや灰色がかった毛色は間違い無くニシパそのものです。
「鹿を狩れない狼に居場所など無い。
ワク……」
ニシパは一旦言葉を切り、大きく息を吸いました。
「出て行け!」
そして、どこまでも響いて星を一周し再度響き、
永遠に消えないのではないかと思うほどの大きな声でワクを一喝しました。
「うわぁーっ!」
ワクは口から心臓が飛び出しそうなくらい酷く恐れおののき、
死に物狂いでニシパ達から逃げ去りました。
「チュッ」
「へ?……夢か、びっくりした」
ワクはネズミの鳴き声で目を覚ましました。
寝相でお腹を夜空に向け、ひっくり返っていたワクのすぐそばには、
薄い焦げ茶色の体に真っ黒な瞳、小さい体の割に長い尻尾を持つ、一匹のノネズミが居ました。
ワクを起こしたのはこのノネズミだったようです。
「チュッ」
ワクは不思議に思いました。
肉食動物の狼である自分のこれほど近くに、
どうして被捕食者であるノネズミが逃げもせずに居るのかと。
ですがワクは空腹を思い出し、疑問は立ち所に消え、すぐさまノネズミに噛み付きました。
「ヂュッ!ヂュッ!」
「あむ、あむ」
ワクがノネズミの食感を味わってみてから気付いたのですが、
ノネズミの足が変な方向に曲がっています。
どうやらこのノネズミは、足を怪我しているようでした。
「……ごっくん」
ワクはノネズミを飲み込みました。
ノネズミ一匹程度では満腹には程遠いのですが、それでもワクの胃袋は喜んでいます。
「ノネズミってこんな匂いだったっけ?久しぶりだから忘れちゃった。
まあ良いや。
それより、もうひと眠りしよっかな……」
そう言ってワクはうずくまり、再び眠りに就こうと目を閉じました。
しかし、こちらに近付いて来る足音によってワクは起き上がります。
「誰だろう?イリかな?」
ワクは狼のそれらしき足音をじっと聞いていましたが、
足音が一匹のものだけではないと知り、嫌な予感がしたワクは近くの茂みに隠れました。
ワクが耳を澄ませると、二匹の狼の会話が聞こえてきました。
「この声は、イリと……ニシパ!?」
ワクは先程見た悪夢を思い出し、ガクガクと身を震わせました。
事情は分かりませんが、自分を追い出したあのニシパがこちらに迫って来ているのです。
「待ちやがれ!」
「何日も獲物にありつけていないようだな、イリ。
それでは体力が続くまい」
「黙れ!」
「いつまで強がっていられるかな?」
ワクが身を潜めている茂みの近くに、イリより先にニシパが辿り着きました。
「ワクはどこに隠れている?」
ニシパはワクを探して、辺りの茂みを見渡します。
そこに遅れてイリが追い付きました。
ワクはイリの匂いを嗅いで安心しましたが、
イリが左目近くに負っている傷を見るなりショックを受け、思わず息を飲みます。
「イリ、ニシパと戦ってるの?」
「ニシパ!イリに何をする気だ!?」
「お前のようにワクにも復讐心を持たれたのでは、後々面倒だからな。
まだ幼く弱い内に始末してやる」
「させるか!」
イリはニシパに飛びかかりますが、走り疲れたイリの動作は鈍く、簡単に避けられてしまいました。
「そのしつこさだけは褒めてやろう。
どうしてもと言うのなら、お前から先にくたばるが良い!」
ニシパがイリの脇腹にガブリと噛み付きました。
無傷でまだまだ余裕の有るニシパと違い、イリには攻撃をかわす体力さえ残されていません。
「グアア!」
「イリ!」
ワクは思わずイリの名を呼んでしまいましたが、
ニシパに居場所がバレてしまうとまずいので、すぐに前足で自分の口を塞ぎました。
「こうして恨みを持って襲って来るくらいなら、追放などとぬるい事をせずに殺す方が賢い選択だな。
今となってはそう思うよ、イリ」
ニシパはイリから離れ、何もせずに様子を伺っています。
顔だけでなく脇腹にも傷を負ったイリは倒れ伏し、もう起き上がれそうにはありません。
ニシパに噛まれた場所から血が流れ、白い毛を赤く汚しています。
「畜生……」
「ニシパめ……」
隠れて見ていたワクは、段々ニシパが憎くなってきました。
自分を群れから追い出した張本人なので元々嫌いでしたが、
そこにイリをいたぶる悪行が重なり、ニシパへの怒りの炎は激しさを増すばかりです。
「まだ息があるようだな。
後でしっかりと始末してやろう。
だがここで私に殺されずとも、そう遠くない内に飢え死にしていただろうがな」
気付けば、ワクは無意識にキバをむいていました。
「さて、次はワクだ……」
ニシパはワクを探し、偶然にもワクが隠れている方向に背中を向けました。
隙だらけのニシパを見たワクは怒りを解き放ち、イリの仇を討つ為に茂みから飛び出しました。
「ニシパーっ!」
しかし、ニシパは素早くワクの奇襲に反応して振り向き、
小さなワクよりずっと長大な前足でワクを薙ぎ払ってしまいます。
その素早さと来たら、まるでワクの居場所をあらかじめ知っていたかのようです。
「キャンッ!」
ワクはニシパに触れる事さえ叶わず吹き飛ばされ、草原の上に倒れました。
「おやおや、そこに居たのか。
二度と私に逆らえないようにしてやる」
ニシパがワクににじり寄ると、ワクは体をガクガクと震わせながらも立ち上がりました。
「ほう。
起き上がって来るとはな。
お前、私が怖くないのか?」
ワクは小さいなりにキバをむき、目を細くしてニシパを睨み付けています。
「怖いよ」
「ではなぜ俺に刃向かう?
チビはチビらしく、惨めに逃げ回ってみたらどうだ?」
「ニシパ、お前は怖い。
けど、イリがやられてるのに僕だけ逃げるのはもっと怖いんだ!」
……ニシパとイリが現れた時、ワクはイリの匂いを嗅いで、ある事に気付いていました。
ワクが寝起きに食べたノネズミの匂いに感じた違和感の正体は、
ほんの僅かなイリの匂いだったのです。
それは、イリがノネズミを捕まえた時に匂いが付いた事を意味しています。
ノネズミが足を怪我していたのも、ワクが寝ている間にノネズミが逃げてしまわないよう、
イリが細工してくれたのでしょう。
「イリは僕を叱りはしたけど、見捨てなかった。
僕が寝てる間にノネズミを捕まえてきてくれたんだ」
ニシパは黙ったまま、ワクの主張を聞いていました。
「イリは僕に優しくしてくれたのに、僕だけ逃げたりなんて出来ない!」
ワクは今にもニシパに飛びかからんとする、攻撃の姿勢を見せています。
「言いたい事はそれで終わりか?
そもそも一匹狼同士で仲良くした所で、はぐれ者共に何が出来よう」
「うるさーいっ!」
ワクはやけっぱちとも取れる様子で、ニシパに飛びかかりました。
「フン!」
ニシパはさっきと同じようにはたき落としてやろうと、自ら身を乗り出して前足を振りかぶります。
愚かな。
ニシパはそう思いました。
しかし、ニシパが振るった前足は空を切り、ワクを迎撃できませんでした。
「なに!?」
ニシパとワクは後で知る事になるのですが、
この瞬間、傷付き倒れていたはずのイリが最後の力を振り絞って重い体を動かし、
ニシパの尻尾に噛み付いて前進を封じ計算を狂わせ、ニシパの前足を空振りさせたのです。
……迎撃を失敗したニシパの眼前に、大きく口を開けたワクのキバが迫ります。
「ギャオン!」
ニシパが情けない悲鳴を上げました。
ニシパから逃げずに最後まで諦めなかったイリとワクが、見事ニシパに勝利したのです。
ニシパはワクに噛み付かれ、眉間と鼻先の間に傷を負いました。
「どうだ!ニシパ!」
ニシパはあまり堪えていないようですが、口を閉じてキバを隠していますし、
ワクに反撃しようとすらしません。
「一匹狼同士で力を合わせるとはな。
傷こそ浅いが、リーダーである私の尊厳には致命傷だ。
ワク、私の負けだな」
「俺、忘れんなよ……」
ニシパの後ろでうずくまるイリが息も絶え絶えに言うと、
ニシパは後ろに振り向いてイリを視界に入れました。
「そうだな。
もう動けないとばかり思っていたが、尻尾を押さえ付けられてしまった。
お前の不屈の精神も大したものだ」
「へへ……」
ニシパに褒められたイリは尻尾を振って喜びを表し、
それを見たニシパは前を向き直します。
「ワク、そしてイリ。
お前達の勇気に敬意を評し、私の群れに戻る事を許可しよう。
その調子なら狩りも捗る」
「イリ、どうする?」
ワクはイリが群れに戻っても一匹狼を続けるとしても、
どちらにしても絶対イリに付いて行くつもりで尋ねました。
「戻るだぁ?へっ、御免だね」
「じゃあ、僕も群れには戻らない!」
「あぁ!?いててて……」
ワクが群れに戻らないと聞いて驚いたイリは、無理して頭を上げたせいで傷を広げてしまい、
その痛みに顔を歪めています。
「何故だ?ワク」
「もしかしたらいつか戻るかも知れないけど、今はまだイリと一緒に居たいんだ」
イリは口を僅かに開き、ポカンとした顔でワクを見つめました。
「……そうか。
もしも気が変わったら、その時はいつでも戻って来るが良い。
皆にも伝えておく。
ではイリ、ワク、さらばだ」
ニシパは無理に彼等を連れ戻そうとはせず、ワクに尻尾を向けて立ち去って行きます。
「ワク、良かったのか」
「僕はこれで良いんだ。
イリ、怪我か治ったらまた狩りの練習をしようね」
ワクはイリに近寄ると、イリの左肩に出来た傷をペロペロと舐めました。
「練習すんのはお前だろ。
へっ、仕方ねえ奴だ……」
イリは目を閉じて体の力を抜き、ワクに身を委ねました。
その後イリの傷が癒えるまでの間、ワクはイリの側を片時も離れませんでした。