3:ある男の決意
高く伸びた雑草をかき分けながら、女は裸足のまま森を駆けていた。頬から流れた血が、着慣れた服を徐々に染め上げていく。どれだけ走り回っただろう。冬だというのに、全身にじっとりと汗をかいていた。足の裏からは残雪の冷たさが伝わってくる。
「いいねえ、追いかけるのは好きなんだよ」
頭上から声が降り注ぐ。ゾッとして振り仰ぐと、大木の枝に足を引っかけてぶら下がる仮面の男の姿があった。
「意外かな。昔から足は速いんだ。追いかけっこじゃ常に一番だった」
まあそんなことはどうでもいい、と男は眼前にひらりと舞い降りてくる。真意を図りかねる気味の悪い笑みに、女の奥歯がかちかちと音を立てた。
「ど、どうして……確かに氷漬けにしたのに……!」
「あの程度じゃぼくを止められないよ。なぜかって? ぼくには明確な目的があるからね、氷程度に阻まれるわけにはいかないのさ。ぼくを止めるなら、そうだね、殺してでも止めるべきだった」
男の眼が一瞬だけ黄金色に輝く。女は逃げようともがいた。しかし、まるで固まってしまったかのように足が動かない。足だけではない。腕も顔も、全身が動かない。悲鳴を上げる事すら叶わなかった。
「氷結させる力かあ、一応貰っておいて損は無いよね」値踏みするような眼差しは、あまりにも冷えている。「どんなものにも役に立つ使い道と言うものはあるんだし安心していいよ、それじゃ」
さようなら。
男の手が女の額を鋭く叩く。その途端、女はぐるりと白目をむき、地面に倒れ込んだ。男はびくびくと痙攣している体を抱きかかえると、満足そうにうなずいた。
「……!」
がさりと木陰から音がし、別の男が現れる。「遅かった」と悔やむように呟いた彼の顔には後悔が滲んでいた。
衣服は仮面の男と揃いだが、色だけは対になるように漆黒だ。
「やあ、遅かったねトクス」仮面の男は女を抱きかかえたまま、トクスと呼んだ男を見遣る。「ぼくを止めるつもりだった? だけど残念。今度もぼくの方が早かった」
勝ち誇ったように鼻を鳴らし、仮面の男は大口を開けた。綺麗に揃った白い歯が女の肌に突き立てられる。トクスは見ていられないとばかりに目を背け、唇を引き結んだ。
ずるずると何かを吸い上げる音が聞こえてくる。何度聞いても慣れそうにないし、また駄目だったとより悔恨が深まるばかりだ。
いつもそうだ。男はトクスが現れるのを待ってから、見せつけるようにして遺体に歯を立てる。
「もう止めてくれ。どれだけの人を殺せば満足するんだ」
切実な問いに返事はない。
「こんな事をして、彼女が喜ぶと思うのか? 今の姿を見て、彼女が褒めてくれるとは、俺にはとても思えな、」
「うるさいな」
どしゃりと女の体を地面に投げ捨て、仮面の男は苛立ちを隠そうともせずトクスを睨みつける。あまりの気迫に身を引きかけたが、ここで屈するわけにはいかなかった。
「力が欲しいのなら俺から奪えばいいだろう! だから、」
「お前の力を奪ったって、何の意味もない」
はは、とどこか乾いた笑いと共に、仮面の男が力強く地面を踏みつけた。その直後、トクスの体は背後にそびえていた巨木に押し付けられていた。ハッとして周囲を見ると、先ほどまで何の変哲も無かった辺り一帯が、分厚い氷に覆われている。トクスの体を捕えているのもそれだ。
「お前の力は無意味だ。だから仕方なく、こうして他の奴らから奪ってるんだろう? そうだよ、つまり人が死ぬのはお前のせいなんだよ」
「それは……!」
「違うとでも? だけど事実だ、受け入れろ」
何を言っても無駄だと感じ、トクスは口をつぐむ。仮面の男は満足げに一つうなずき、「ああ、さっきの答えだけど」と手を打った。
「彼女が喜ぶか、褒めてくれるか? さあね、ぼくには分からない。だからそれを確かめる為に、ぼくは――そうだ、そういえばさっきの町に、いた」
「は? 誰が」
「彼女が」
「……は?」
「こうしちゃいられない。迎えに行くって行ったし、早く行かなきゃ。きっとぼくのことを待ってる!」
男は意気揚々と歩き出す。引き止めようにも、トクスの体は氷漬けにされたままだ。
――行かせてはならない。
トクスは右腕に力を込めた。数秒後、じゅう、と音を立てて氷が溶けていく。やがて彼の体は解放された。
慌てて男のあとを追い、腕を掴んで引き止めようとする。
しかし、
「なっ……!」
トクスが腕を掴む寸前、男の姿がかき消えた。かと思うと、頭上から「今度はどっちが勝つかな」と笑い声が振ってくる。まさか、と見上げると、何もない空中に立った男が、腕を組みながらこちらを見下ろしていた。
「お前はぼくを止めるつもりなんだろう? やれるものならやってみろ」
どうせ次も、お前の負けだ。そう言外に含んだ笑みは、かつて見た優しい笑顔とはかけ離れている。
トクスは舌打ちをしつつ袖を捲り上げ、右腕を高く突きだした。瞬間、男の顔にわずかに怯えが混じった。
「さっきの話を詳しく聞きたい。いた? 彼女が? そんな馬鹿な。だって俺たちは、彼女が死んだのを間近で、」
「きっと生きていたんだよ、そうに違いない」
そう断言する男は狂気じみている。物怖じするなと自分を叱咤し、警戒を緩めることなくトクスは言葉を重ねた。
「彼女は死んだ、これは確かなんだ。第一、去年だって安置されている彼女の遺体を見ただろう。だから生きていたとは思えない。いくら似ていても、その女性は別人かも知れないだろう」
「それを判断するのはお前じゃない。ぼく……ぐっ」
不意に男が身を屈めて咳きこむ。もしや、とトクスは眉間に皺を寄せ、
「体力の限界なんだろう。だったら、もう」
「この程度で諦めるわけがないだろう!」
男が腕を振るうと、トクスの足元にどすりと何かが刺さった。鋭くとがった氷の塊だ。また何か繰り出すつもりかと咄嗟に距離を取って離れた瞬間、男は身をひるがえす。
このまま行かせれば無為な人殺しをするに違いない。何としても、今度こそは止めなければ。トクスの決意に呼応したように、彼の右腕は炎に包まれた。
男の背に向かって炎を鞭のように伸ばす。だが、届く間際に男はまたしても消えた。慌てて周囲を見回すが、どこにもその姿はない。
「くそっ……!」
こうなれば、男より先に「彼女」によく似ているらしい人物を探し出し、保護する手に切り替えるしかない。トクスが腕を振ると、まとっていた炎も消えた。
幸い男の体力はそれほど残っていないようだ。となれば、いくら「彼女」に執着していようと、少しでも体を休める可能性がある。その間に、自分の打てる手を打たなければ。
トクスは地面に転がされたままの女に目を向けた。彼女の見開き切った眼は虚空を見つめ、完全にこと切れている。
女と、そして先ほどの町で襲われたであろう人物の遺体の回収についても連絡を出さなければ。本来ならば女の体を放置していくべきではないのだが、今の自分にそんな余裕はない。最優先すべきことがある。
申し訳ない、と女のそばにしゃがみ込み、顔に手をかざす。女のまぶたを下ろしてやりながら、焦りの混じった決意を口にした。
「兄さんは、俺が必ず止めなければ……!」
太陽が昇り始めたのだろう。夜の深い藍色は、徐々に朝の橙色に浸食されていた。