17:聖都市、再び。
「すごい……」
ただでさえ寒いというのに、あたりには冷気が満ちていた。ぶるりと震えたアイビーの肩は、隣に立つトクスに支えられている。二人は揃って息をのみ、眼前にそびえる氷の壁を見上げていた。
聖堂を丸ごと囲うようにして二人を待ち構えていた氷壁はシャガが作り上げたものか。軍は武器を手に聖堂を包囲しているが、トクスの指示で中には突入していない。相手は複数の能力を持つ〈幻操師〉であり、殺人犯とはいえ仮にも王位継承権を持つ王子だ。いずれ捕らわれて何らかの判決が下るにしても、誤って命を奪ったのでは大問題になる。しかも裏切られた怒りで見境なく攻撃してくる可能性もある。無暗に刺激してしまえば甚大な被害が出かねなかった。
「大丈夫?」
横目で見やったトクスの顔には緊張が浮かんでいる。彼はゆっくりと息を吐きながら右手で氷に触れ、アイビーに向かって小さくうなずいた。
「行きます」
トクスの手のひらから炎が生まれる。しゅう、と蒸気を立てて氷は瞬く間に解けていき、足元に水たまりを作っていく。そこに映し出された空の色は先ほどとは一変し、今にも雪が降りだしそうな曇天だ。
「やあやあ、遅かったじゃないか」徐々に向こう側の景色が明らかになっていく。それを待っていたかのように蛮声が響いた。「待ちくたびれてしまったよ、来ないんじゃないかってね。迎えに行こうかとも思ったんだけど入れ違いになると、ほら、面倒くさいだろう?」
聖堂の手前で待ち構えていたのは、言うまでもなくシャガだ。彼の周囲には何人もの軍人が倒れている。
聖都市に着いた際、数名の軍人が挑発に乗って突入してしまったと聞かされた。どうやらただ叩きのめされただけで命は奪われていないらしく、呻き声が数カ所から聞こえた。
入って来い、と言うようにシャガは指を曲げる。その隣では、ヘデラが何かを訴えるような目をこちらに向けていた。
背後で構える軍人たちの緊張をひしひしと感じながら、アイビーとトクスは揃って氷壁の内へと足を踏み入れる。二人が軍人たちに気を向けているのを察したのか、シャガはふふんと鼻で笑った。
「ああ、そこで寝転んでる奴らかい? 大丈夫! 命までは奪ってない!」
シャガは足元で倒れている軍人の頭を踏みつけた。その冷酷さにカッと頭に血が上ったが、走り出す前にトクスに肩を掴まれる。二人はシャガとヘデラに向かい合うようにして立ち止まり、アイビーは大きく息を吸った。
「これも、あなたの力なの」
言いながら氷壁を見遣る。シャガは「ああ、そうだよ」と得意げに笑った。
「邪魔されちゃ困るからね、誰も入って来れないようにしてみたのさ」
「……そんなに力を使って。もう限界なんじゃないのか」
トクスは右腕を露出させ、いつでも炎を出せるように警戒している。
「俺たちを追いかけてこなかったんじゃない、出来なかったんだろ。だからここで待つことにした。違うか」
「ごちゃごちゃうるさいよ、邪魔者め」
それまで笑みを浮かべていたシャガの顔に恨みが満ちる。大きく舌打ちをした彼は、「でも仕方ないから」とトクスに手を差し出した。
「ぼくは炎を使いたくない。だからお前に頼るしかない。これが最後だトクス」
ぼくの手を取れ。今なら許してやろう。
慈しみさえ感じるような眼差しだったが、底知れない恐ろしさを覚えたアイビーの全身が震えた。だがトクスに怯むことはなく、指示に従う様子はない。
「ほら、早く。ヒュドラの檻だって殺しに行かなきゃいけないんだ。駄々をこねている暇はないぞ」
互いが睨みあい、緊迫した時間が流れる。焦れたようにシャガは何度も手を揺らし、トクスは拒否の姿勢を崩さない。
「ぼくはいつまでも待ってやれるほどのんびり屋じゃ、」
「その前に」怯んでばかりもいられない。アイビーはシャガを遮り、一歩踏み出した。「聞かなきゃいけないことがあるの」
「聞く? ぼくに?」
「あなたじゃないわ」
用があるのは、あなたの隣。アイビーはシャガから目を移し、無言を貫いたまま彼に寄り添っていたヘデラを正視した。
いつシャガに動きを止められるか分からないが、ひとまずまだ動ける。なら今のうちだ。
「ヘデラ、あなたの――」
「あなたの力……フェニックスの不死は、一度しか使えないんじゃない?」
きん、と凍てついた音がする。シャガが氷の穴を塞いだらしかった。
アイビーとヘデラは無言で見つめ合う。もう一歩近づくと、「何を馬鹿な」と嘲る声が耳に届いた。
「一度しか使えない? それがどうしたっていうんだ、まだ使っていないんだから問題ないだろう?」
「少し黙っていて」
アイビーは再びシャガを冷やかに睨みつける。シャガの顔から余裕が完全に消え去った。
「答えて、ヘデラ」
「そうね」沈黙を貫いていたヘデラがゆっくり、そして深くうなずいた。「気付いたのね、あなたたち」
彼女が何を指して言っているのか、しっかりと分かる。ああ、と返したのはトクスだった。
「君の過去を……生家を知った」
「いつかは気付かれると思っていたもの」
そう言って彼女が浮かべた笑みは、あまりにも儚い。
「だけど、まだ分からないことがあるわ」
学術都市で仮説を立てた後も、アイビーとトクスはここへ向かいながら様々なことを話し合った。それでも、どうしても答えが出なかった点がいくつもある。
「五年前にあなたは死んだんでしょう。魂だって抜けたって聞いてる。なのに、あなたはそうして生きてる。どういうことなの?」それに、とアイビーは彼女との距離を詰め、目を細めた。「あなたは、あたしの何なの……?」
自分と同じ緋色の瞳を見つめ、ずっと燻っていたことを問う。が、彼女は無言のまま微笑み続けるだけだ。
まるで「もう分かっているくせに」と言わんばかりに。
痺れを切らし、答えを促そうと口を開いた時だった。
「うっ――――!」
まるで脳内に刃物を差し込まれているかのような痛みが全身に奔った。背を丸めて痛みを耐えるが、一向に治まる気配はない。目の前がぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、天と地が反転する錯覚に陥る。膝をつきかける間際、
「アイビー!」
鋭く名前を呼ばれ、アイビーは我に返った。反応するより先に肩を掴んで後ろに引き下げられ、同時に頬を冷たい痛みが掠めていく。そのまま転倒しかけたが、厚い胸板に受け止められた。正面を見据えると、先ほどまで自分が立っていた場所に氷の柱が出来上がっていた。
「うるさいから氷漬けにしようと思ったのに」残念そうに企みを呟いたシャガは、醜く歪んだ笑みを浮かべながら近づいてくる。「そうすれば溶かすときに、一緒に体も燃えてくれるかも知れなかったのに」
「兄さん……!」
アイビーを立ち上がらせ、トクスが右腕に炎をまとう。シャガを威嚇しているのだろう。だが、彼は「あはは」と嗤笑するだけだ。
その瞬間、ぷつん、と自分の中で何かが千切れる感覚がした。
ぱしん。
乾いた音が響き渡った直後、かしゃん、と何かが地面に落ちる音が続く。
「いい加減にしなさいよ」
アイビーが、シャガの頬を叩いたのだ。
まだ頭は痛むが、それに構っている余裕はない。自分が何をされたのか分かっていない様子のシャガは目を丸くしたまま固まり、叩かれた弾みに仮面が外れたことにも気が付いていないようだった。
「あなたは、ヘデラを愛しているんでしょう」アイビーは憤懣をぶつけるようにシャガの襟元を引っ掴んだ。「あなたがやろうとしていることはただの独りよがりだわ」
その結果、彼女がどうなるか知りもしないで。
未だにシャガは呆然としたままだ。自分が何を言われているのかも理解できていないらしい。アイビーは大きく息を吸い込み、目いっぱい声を張り上げた。
「あなたのその行動は、彼女を本当に殺してしまうかも知れなかったのよ!」
びし、と。
シャガの爛れた顔に、まるで亀裂がはしったかのようだった。
「ぼくが、殺す? 彼女を?」
あり得ない、とシャガは笑い飛ばす。だが、同意を求めるようにヘデラを見た瞬間、彼は目を見開いた。
ヘデラが、沈痛な面持ちで首肯したのだ。
「そんな馬鹿な!」アイビーが手を放すと、彼はよろよろと後ずさっていく。その視線はヘデラに注がれていた。「独りよがりだなんて。だって彼女は、死んでしまっていて、生きてるけど、でも魂は、別人で、だから燃やすしかなくて」
教えてくれ、ヘデラ。醜い火傷に包まれた顔は、今にも泣きそうだった。
「ぼくは、何か、間違っているのか?」
シャガの問いに対し、ヘデラが口を開いた時だった。
オォォォォォォォオォォォォォォォン。
嘆きか、それとも怒りか。それらが混じり合ったようなくぐもった声が天高く轟く。何が起こったのかとアイビーがトクスに目を合わせた瞬間、地面が突き上げられるようにして大きく揺れ、咆哮に地鳴りが混じった。
揺れは次第に激しくなっていき、鐘楼の鐘がけたたましい音を奏でる。ばき、と破壊音が鳴ったかと思うと、聖堂の外壁に大きなひびが伝っていた。初めは一か所だったものが徐々に増えていき、やがて数えきれないほどになる。
「!」
聖堂が崩壊する、と察するのに時間はかからなかった。アイビーはトクスと共に走り出そうとしたが、遠くへ行こうにも四方は氷に遮られている。逃げようがない。
そうだ、トクス。あなたなら炎で溶かせるわよね。そう聞きたかったが、彼は「兄さんとヘデラが!」と叫んだ。二人は逃げていないのか。なぜ、と聞くより先に、シャガの狂気的な笑い声が聞こえてきた。
哄笑からは、理性が欠け落ちている。
ばきん、と聖堂の屋根が爆発したように崩壊し、瓦礫が高く舞った。それでもシャガは聖堂を見上げて笑いつづけ、ヘデラも逃げようとせず、彼の隣で佇んでいる。
「すみません、溶かせるだけの時間がない!」
じゃあどうするの、と問う間もなく、体を強く抱きしめられた。突然の事に何も言えないまま「伏せます!」と声を荒げたトクスと共に地面に倒れ込む。直後、アイビーを庇うように上になったトクスの背にバラバラと聖堂の外壁が降り注いだ。
反射的に目を閉じたアイビーだったが、耳を劈くような雄叫びに瞠目した。
今のは、まさか。
「あはははははははははははっ! やっと、やっとだ! やっと檻が死んだんだ!」
獰猛な声に負けず劣らず、シャガが絶叫する。
瓦礫はもう降ってこない。起き上がろうとしたアイビーの頬に、ぽたりと何かが落ちる。ぎょっとしてトクスを見ると、彼の頬に血が流れていた。瓦礫の一部が頭に直撃したのか。
「ちょっと、ねえ、血が」
「これくらい、大丈夫です。それよりも」
大丈夫と言いながらもトクスは時折呻く。だが、傷に構っている場合ではないというかのようにアイビーの手を引いて立ち上がり、二人は眼前に現れたそれに恐怖とも感嘆ともつかない声を上げた。
立派だった聖堂は見る影もなく崩れ落ち、代わりに九つの首が蠢いていた。
黄金の眼と鋭い牙、トカゲに似た顔には一対の角が生え、天地を揺るがす咆哮が上がる。首の後方で強靭な尾が揺れているのが見えるが、体の大部分はまだ地面に埋まったままのようだ。
間違いない。聖堂の地下で見た姿が、地上に現れていた。




