Doll Spirit
真っ黒な外壁に、真っ黒な蔦の這うその建物は、人の立ち寄ることは無い、不思議な図書館。その異様さから付けられた名は『死の館』。人っ子一人近づかないその謎めいた図書館は、小説や漫画のネタとして、よく人間たちに取り上げられておりました。
そこで紡がれる物語は、常に残酷でいて儚くも美しい。そんな事を謳ったのは一体、どこの誰なのでしょう――。
朝の光が、緑色だった。人の闇全てを包むかのような緑。優しくて、癒しの象徴のような色。そんな、美しい日の儚い出来事。
ひっそりと佇む図書館に、たった一人、そこで暮らし、働く女がいる。その女は自分の名前をドールと名乗る。理由は特になく、自分はぬいぐるみとの相性がいいからというのは昔彼女が無理矢理作った由来である。
硬くて体の沈まない、板のようなベッドからゆっくり起き上がると、図書館の隅にある、大きくて古い重厚感のある机に座った。
そうして、小柄なドールには大きすぎる、巨人が読むには丁度いい本を適当に開き、一度目を丸くしてから、口の端に薄く笑みを浮かべた。
「早く……おいでよ」
穏やかな目をして、机の端に置かれた小さくて丸い鏡に目をやった。その瞳は一見、年相応の少女の色なのだが、じっとただ見つめていればそれはもう瞳なのかどうかも分からなかった。
少女のようでそうでないドールが、机上で糸を手繰り寄せるかのような仕草をすると、天使の声にも似たドアベルが鳴った。
一人目のお客は緑色の体。大きな目と、大きな口から覗く牙が、緑の光にあたってきらりと光る。その二つだけを見ればその巨人を怖いとは思わなかった。純粋に光っていた。
「ドール」
太くて頭にも体の芯にも響くような低い声が、館内に広がる。嫌悪感すら抱くそれはドールの背丈より遥か上からやってきた。
「いらっしゃい。よく来たわね」
この図書館は、外装以外にも変わっている所がある。形を変えるのだ。
例えば今は、三メートルもあるオーガが、館内に入ってきたので、通常二メートル程の扉は、三メートル以上にまで大きくなった。そして次に図書館自体も大きさを変え、扉はその時には元の大きさに戻ったのだ。
オーガはその巨体を図書館の奥の、肘置きの部分に怪しい目玉のついた、ふかふかのソファに体を沈めた。それと同時にドアベルが再び鳴る。
「いらっしゃい」
甘い少女の声は悪魔の囁き。ここから漸くファンタジーが始まる。ドールははしゃぐ気持ちを抑えながら迎えた。
「おいで……こっちに」
ドアの前に立ち尽くす、二つの生物。二つとも、目を持っているが、何とも美しく儚い、虚ろな目をしていた。
ドールはこの目が好きだった。『人間』が全てを失った時の顔だとか、憔悴しきった顔だとか、そういう、『人間』の感情の悲しさやら切なさがとてつもなく愛しく思えたのだ。瞳に感情がこもらなくなる程に精神を壊しているのならば、尚さら。
手招きをすると、図書館に入ってきた『人間』の男女は、それなりに不思議そうな顔をしながら、後を付いてきた。
「貴男がここ、貴女はそこ」
二人は指示されて、先ほどの机の前に置いてある、膝くらいまでの大きさの本棚に座った。
「何ですか」
酷く掠れた声で、男が問うた。その声に、これから起こる楽し過ぎるであろうことを胸の中で期待しつつ、ドールはただにやりと笑うだけで言葉は続けない。
「ここはどこ」
今にも泣き出しそうな声を出す色白の女にも、同じようにして見せた。
「山倉涼、長井奈子」
流れる水のような声で言った名前は、目の前の二人を指すものだ。
ドールがそのままそっと本に手をかざすと、二人は徐々に瞳以外も虚ろになり、口を弱々しく開いて語り始めた。
「俺と奈子は幼馴染で、仲が良くて、昔から毎日のように遊んでて……。高校生になった今でもよく二人で遊びに行きます」
涼は光のない目でちらりと奈子を見ると、頭を抱えた。
「俺は奈子が好きだ。好きなのに、この気持ちを伝えられずに何年も経った。自分の情けなさは分かってる」
感情のこもってきたその瞳を確認したドールは再度本に手をかざす。
手をだらんと下ろしたままの涼に変わって、奈子が話し始めた。
「私は涼のことを好きだなんて一回も思ったことがありません」
涙を流してそう言う奈子に、またもや感情を取り戻しそうになる涼。
ドールは嬉しそうに微笑んで本を一ページ捲ると手をかざす。
「山倉涼」
凛と響いた声にまた涼は力を失った。
「好きじゃない好きじゃない好きじゃない……好きじゃないの!」
奈子の目からこぼれ落ちる涙は、何を意味しているのか。真実を知っているドールにとっては可笑しくて仕方が無い。
「好きじゃない! だから好きじゃないって言ってるのに……!」
二人の体がドールによって呪われているのは一目瞭然だった。
特に涼なんかは白目がない。目からは珠のような血を、休むこと無く流し続けている。
しかしその血は溢れる度に空気に溶けて消えてなくなるのだ。沸騰して蒸発するように、溶けて消えていくのだ。
ドールは立ち上がって、涼の瞳を優しく両手で抑える。呪いを少し弱くした。
「俺はお前が好きだった……。お前のために死ねると断言できる程には好きだった。お前がここにいてくれる事が俺の幸せだったんだ。お前もそうだと思ってた」
手が、離れた。その手で今度は涼を抱きしめた。
「……お前なんか殺してやる」
中空を見つめて、呟くように出てきた言葉。
ドールが満面の笑みを浮かべた。
「私は涼の事なんて……っ私は……」
中途半端にかけられた呪いのせいで、自分の言いたいこととそうじゃない事が交互に口から出てくる。肝心なところは呪われたままで。それがもどかしいのか、無意味に首をかきむしり、傷をつける。奈子の首は、猫に襲われたかのようになった。
「貴女は、どう思うの?」
言葉をうまく紡げない奈子をわかった上で、その気持ちを声に出させようとしているのだから質が悪い。
楽しそうなドールの声は、ビー玉によく似ている。
「嫌い」
奈子から放たれた言葉は、ドールに撫でられ鳥肌の立った喉元から出ていき、それが涼の心に届くことは無かった。
涼にはもう、自我なんてものは無い。完全なる操り人形である。
「殺してやるよ」
深い声。今まで聞いてきた色恋沙汰の案件で、一番と言っていいほど美しい声に思えた。
「山倉涼、長井奈子」
内心で歓喜しながらドールが二人の名前を呼べば、二人の世界で時が止まったように動かなくなった。
「おいで。……緑の光」
奥からやってきたオーガは小首をかしげている。
「お食べ」
オーガの主食は『人間』である。このオーガは最近なかなか人間を捕る事が出来ず、腹を空かせていたので、迷うこと無くドールの差し出した涼を掴んだ。そのままオーガは、たった一口で人の一生に終止符を打った。涼の最期に感情は無かった。涼は『人間』として死ぬ事が出来なかった。
「涼! 涼!! 私の、呪われていない私の……本当の気持ちも聞いてよ……!」
泣きわめく彼女の呪いは涼の死ぬ直前にはもう解けていた。そんな彼女の叫び声もお構い無しに、腹を空かせたオーガは片手で易々と持ち上げ、飲み込む。
「ふふっ」
オーガは食事をありがとうとでも言うように、ドールに一つ、頭を下げた。
「貴方は本当に役に立つのね」
優しくオーガを撫でれば子猫のように喉を鳴らした。満足したドールは、ベッドを囲う無数のぬいぐるみを細い腕でオーガに投げつけた。
ぽすっと間抜けな音を立てて巨体に当たったぬいぐるみは、紫の光を放ってオーガの大きすぎる体を吸い込んだ。
「明日は誰が還るのかな」
まるで遠足を待つ子どものように、ドール……そう、私は言った。
目を覚ました奈子は、病院のベッドで眠っていました。片手に男の人形を持って。
「涼……ごめんね」
彼女の病は、呪いの病。彼女の病は治りません。死んだって、死ねないのだから。
「好きになってごめん……ごめん。ごめん」
山倉涼と長井奈子は、親同士の仲もよく、毎日のように共に過ごしました。なんなら自分たちの家族よりも二人でいる時間の方が長くなるくらいには。
涼が奈子を好きになったのは、偶然の話です。元から好きではあったのですが、気づくのが遅かったから。
奈子の姿を見て、気づいたのです。
もちろん、普通の奈子を見たという訳ではありません。入院をして、ベッドの中に眠っている奈子の姿を見てしまったのです。
彼女が患っていたのは不治の病で、それでいて余命宣告まで受けておりました。そのか弱い命を前に、涼は自分の気持ちに初めて気がついたのです。
涼は、後悔をしました。悔やんでも悔やみきれない後悔を。
なぜならここは常識の通じない世界。愛で病気が治るなど、ありふれた話でありました。奈子の病ももた、似たようなもので。不治の病ですから完治はせずとも、愛さえあれば死を意識するほど進行することは無かったのです。奈子は涼が好きでした。ずっと、ずっと前から。
今日こそ奈子に想いを伝えよう。そう意気込んで連れ出した矢先、二人は手足の感覚を失い、記憶も朦朧とし始めました。先程も述べましたように、ここではありふれた事なので二人は、ああ、もう死ぬのか、と恐怖の余り開き直っておりました。
そうしてたどり着いたのが『死の館』。
二人の運命は決まっていたのです。
二人は既に呪われていました。
奈子はまた、死んで目を覚ましました。手にはやっぱり男の人形。
「涼……ごめんね」
奈子と涼は同じ過ちを繰り返します。いえ、繰り返さなければなりません。
奈子は人を愛してはならない。愛した人は食われ、奈子は何度も蘇る。そして涼も愛されてはならない。涼は、何度も蘇る。
私が、いる限り。私が、楽しんでいる限り。
そこで紡がれる物語は、常に残酷でいて儚くも美しい。
ドールはいつまでも求めているのです。私たちの苦しみを。
彼女はこうして苦しい話と出会うために『死の館』にこもったと言われています。
『死の館』は、今も人気の少ないすぐそこで、二人を待ち続けているのです。
ご愛読ありがとうございました。
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