猫のおかあさん
「おかあさん、おかあさん」
また、鳴きだした。隣の家の飼い猫の鳴き声だ。猫が言葉を話すわけないのに、そう聞こえるキッカケになったのは、5歳の娘の真理の言葉だった。
”隣の家の猫、おかあさん、おかあさんって泣いてるよ。”
隣家の斎藤さんは留守らしく、車もない。9月だったけど少し暑い日暑い日の事。私は猫は嫌いじゃないけど、人によっては、この鳴き声はクレームがくるだろう。
しばらくして、鳴き声が止んだ。窓から見ると隣家の車が戻ってきてる。”おかあさん、帰ってきたんだ。よかったね”という真理の言葉に、”そうね、安心したのね”とは答えた
けれど、実際は、猫はお腹でも空いていて、ご飯の催促をしてたのだろう。鳴き止んだのは満腹になったから。真理は、気持ちの優しい子だ。一人、いや一猫で留守番する猫を、可哀想に思ったのだろう。
「おかあさん、おかあさん」
また、隣の猫の声だ。でも、斎藤さんの奥さんは外で庭仕事している。猫はなぜ鳴いてるんだろう。
私は草むしりがてら、庭にいる奥さんに声をかけた。
「こんにちは、いい陽気で気持ちがいいですね。」
「ええ、本当に。ところで真理ちゃんは、あっと、まだ幼稚園ですね」
「3時にはバスで帰って来ると思いますが・・」
ウチでは”隣の斎藤さんの奥さん”じゃなく”猫のおかあさん”と呼んでる。うっかり本人の前で言わないようにしないとね。その猫は、ベランダの窓の処で、チョコンと座っていた。ジっとこちらを見て、事さら大きな声で鳴いた。窓は網戸だけだったので、近所中に響く声だった。
「ごめんなさいね。うちの猫の声、うるさいでしょ?うちのボッチっていうんだけど、ストーカーみたいに私にまとわりつくのよ。ちょっと離れると寂しいらしくて、ああやって鳴くの。駄目よって、言い聞かせてもね・・猫はいう事をきかないものだし。」
その寂しがりやのボッチは、黒白の猫だ。背中から足にかけて黒く、足先が靴下をはいたように白い。顔はいわゆる”ハチワレ猫”っていうそうで、前髪を真ん中でわけたような黒白の模様になってる。かなり大きい猫のようだ。顔は四角くてボス猫風。
私がボッチをジっとみてるので、”猫のおかあさん”は、あわてて言い訳した。
「あの子、今は7kgもあるおデブちゃんなんですけど、子猫の時は、手のひらに乗るくらい小さかったんですよ。拾った時は風邪をひいてて、目ヤニで目が開いてなかったし、栄養不良で獣医さんに行ったり、猫用のミルクを用意したりと、実の子より手がかかりました。最初はチビって呼んでたんですけどね。ちょっと大きくなりすぎたんで、最近、改名しました。」
7kgの大猫が、チビちゃん呼ばれる光景を思うと、笑えた。
それから”猫のおかあさん”は、ボッチが大きくなるまでの苦労話を私にし始めた。奇妙に子供の育児話と通じるところがあって、おかしかった。私より30も年上だけれど、ママ友と話してる気分だ。話題は猫の話しから子供の話し、ちょっと相談事にものってくれた。
その日から私はたまに隣の斎藤さんの処へ青邪魔する機会が増えた。長居はしないけれど、気軽な世間話が楽しい。(幼稚園のママ友とはちょっと緊張する時がある)。私が行くと、猫のボッチは、大きな体でのそのそと近づき、頭を摺り寄せる。いい子だねと頭をなでると、気が済むらしく、また斎藤さんの奥さんの膝の上に戻る。家の中でベッタリだ。そんなボッチを見て、私は、食事の用意をしてる時に限って、真理が私にまとわりついて困っていた頃の事を思い浮かべた。
ある日、そのボッチの鳴き声がおかしかった。「おかあさん」って声に、「アオ~ン」と長々と鳴く声が混じってる。どうしたんだろう、留守かしら?でも奥さんの車はあるみたいだから、すぐ戻ってくるわよね。
ただ、私はちょっと不安になった。どうしたんだろう。窓は閉まっていたので、いつもより声は小さいはずなのに、放っておけない。ちょうど、真理が泣いてる時のような、理屈抜きの気持ちだ。
私は念のため、隣に行った。玄関は鍵はかかってないのに、チャイムに応答はなかった。私は恐る恐る庭からベランダを覗いてみると”猫のおかあさん”こと隣家の奥さんは、受話器を持ったまま、崩れるようにして壁にもたれかかってる。その横でボッチが鳴いていて、そして私のほうを見ては、また鳴いた。
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「で、救急車を呼んだってわけか」
帰って来た主人に今日の出来事を話した。
あのあと、私は玄関から入り、何度か奥さんに声をかけたが、うなるだけで返事がなかった。で、あわてて救急車を呼んで、病院までつきそった。後でご主人に話しを聞くと、 狭心症の発作だったそうで、”いや、奥さんが見つけて下さったおかげで、大事にはいたりませんでした”
お礼の品と一緒に、ご主人は奥さんの病状を説明してくれた。
とりあえず、助かってよかった。落ち着いたら真理をつれてお見舞い行こう。でも、奥さんが退院してくるまで、ボッチは「おかあさん」と鳴き続けるかもしれない。ベランダにボッチがいたら、時々”大丈夫だから”って、慰めてやろうかな。
水曜日深夜(木曜日午前1時ごろ)に、投稿します。