第二章 恋ってやつは……
掃除を終えた海と、用事を終えた光は、一年二組の教室にいた。二人以外に、教室に残っている生徒はもういない。光の席の前に座っていた海が、黒板の上にかけてある時計に目をやった。
「おっそいなぁ。空。どこ行ってんねやろ。鞄あるから、先帰ったんちゃうやろうし」
教室で待っているから、一緒に帰ろう。と、言いだしたのは空だ。その張本人が、中々姿を現さないのである。海はかれこれ十五分、空を待っていた。先に来ていた光は、さらに待ち時間が長い。
光は黒ぶち眼鏡を、人差し指で押さえた。以前は縁なしの眼鏡をかけていたが、紛失してからというもの、予備だという黒ぶち眼鏡をかけている。秀麗な顔立ちに黒ぶち眼鏡という組み合わせは、野暮ったく見えそうなものだが、これはこれで似合ってしまうのだから、顔が綺麗な奴は得だと海は思うのだった。
「いや、空なら鞄を忘れて帰ったということもあり得るんじゃないか」
冷たい口調だ。だが、それはいつもの事なので、海は特に気に留めなかった。
「さすがにそれはないやろっ」
苦笑しつつ、ツッコミを入れる。光は表情一つ変えずに、淡々と提案した。
「じゃあ、海。メールで呼び出せば?」
「そうやなっ。その手があったわ。あいつケータイ持ってたんやった。……って、何で俺やねん。思いついたんやったら、自分でメールせぇや」
光は、ノリツッコミをしたつもりの海から、視線を外した。
「面倒臭い」
完結な答えだった。
「面倒臭いことを人にやらせんのかい」
「ああ」
さらに短い肯定が返ってきて、海はがっくりと肩を落とす。
まあ、そうやんな、おまえはそういう奴や。と、海は、心の中で少しだけ悪態をつきながらも、携帯電話をズボンのポケットから取り出した。元来の面倒見の良さを、こういうときにも発揮してしまう。
海が、新規メールの画面を開いた時だった。
教室の前のドアを開ける音が、二人の耳に届く。
視線を向けると、二人の待っていた人物がいた。
「なんやあれ? どうしたんや?」
「変な物でも食べたんじゃないか?」
海と光が、空を見て口々にそう言ったのには訳がある。
教室に入って来た空は、心ここにあらずといった感じなのだ。今も、二人の座る席に向かいながら、大きな音を立てて、机にぶつかった。
しまりなく緩んだ顔。どこか遠くを見つめているような視線。
明らかにおかしい。
光と海は顔を見合わせた。
海は立ち上がって、二人のもとまでたどり着いた空の両肩を掴んで、強く揺さぶった。
「空、そーらー。おいっ。大丈夫か? 聞こえてんのかー?」
空は、海の声に驚いたように目を瞬いた。
「海? あれ? 俺いつの間に教室に」
辺りを忙しなく見回す空に、光が呆れた声を投げた。
「空。おまえの頭も、ついにそこまできたか」
光はよく、空を馬鹿呼ばわりしている。そのたびに、空は彼に噛みつくのだが、今回は違った。光の悪態をあっさりと聞き流したのである。
「光、海。俺さぁ」
またもや遠くを見つめるような目つきで、空は続けた。
「恋しちゃった」
照れたように笑う空を、二人は目と口を大きく開いて見やった。再度、顔を見合わせて、異口同音に声を発した。
「はあ?」
かなり大きかったが、空には聞こえていないようだ。辺りがピンク色にでも染まりそうな程、ウキウキとしてみえる。漫画の世界なら、周りにハートマークが飛んでいることだろう。
「も、もっかい言って」
海は空の顔の前で人差し指を一本立てた。
空は、とろんとした目を向けてくる。頬が上気し、さらに照れた笑みが深くなる。
「だ、か、ら。俺、恋しちゃったんだよ」
空の言葉に、海と光はまたしても顔を見合わせたのだった。
学校をあとにした三人は、光の部屋に集まっていた。小さなテーブルを囲むようにして座っている。お手伝いさんが出してくれたオレンジジュースを飲みながら、空は恋をしたいきさつを二人に話して聞かせていた。
「もうさ、なんていうの? 一目見た瞬間、世の中にこんな可愛い人がいるのかっ! ていう衝撃が走ったんだよ」
「つまり、一目惚れか」
光が、いつもの無表情で応じた。まったくもって興味がなさそうだ。
対照的に、海は空の話に興味津々である。
「一条千鶴先輩かぁ。なんか聞いたことあんねんなぁ」
海が顎を摘まみながら、考えている。
「何、何? 知ってることがあったら教えろよ」
勢い込んで、空は海の肩を掴んで揺さぶった。
「分かった、分ーかったって。そんな揺さぶられたら、口から違うもんがでてくるわっ」
海が空の手を払い除ける。空はごめんと素直に謝った。
海はしばらく考えるポーズをしてから、あっと声をあげて、手を打ち鳴らした。
「思い出した。あれやろ。めっちゃお金持ちのお嬢さんやろ? 一条グループっていうとこの、会長の孫とかいう話やった気ぃする。喋り方も、仕草も、お嬢様の中のお嬢様って感じで、密かに男子に人気やとか」
「えー、マジかよ。競争率高そう。あと、何? 一条グループ? 聞いたことねぇけど」
空が、首をかしげている。光は溜息をこぼした。
「一条グループっていったら、ホテル経営に、不動産業、飲食店、スーパー、あと、タクシーとかもあったかな。とにかくいろんな分野に手をだしている大きなグループだよ。去年二百周年記念パティーがあったな、確か」
光が、海の説明を補足する。光も、養子とはいえ、春名グループという大グループのトップに名を連ねる一族の一員である。
「そんなでっかいグループの、会長のお孫さんか」
空は見るからに肩を落とした。顔を俯けて、大きく息を吐き出す。
先ほどまでの、浮かれようが嘘のようだ。
「お嬢様なんだ。そうだよな。物腰柔らかな感じで、楚々とした人だったもんな。口調もすっげぇ、丁寧だったし。俺とじゃつりあわねぇよな」
元気の無い声で言い終え、大きく溜息をつく。ちなみに空は、商店街の中にある小さな本屋の主人に引き取られた身である。
海は、空に向けていた視線を光に移した。光はその視線に気づいたのか、海を見返して肩をすくめる。処置無し、とでも言いたいのだろう。
海は項垂れてしまった空の肩を軽く叩く。空が顔を上げる。海は拳を握りしめて力説した。
「何を情けない顔しとんねん。おまえ男やろ。身分差がなんじゃい。つりあいがどうとか、関係あるかっ。おまえの気持ちはそんなもんか。文句言う奴は蹴散らしたれっ! 愛があれば、なんでもできる!」
最後の方は、どこかで聞いたようなフレーズだ。
空の茶色い瞳に、輝きが戻りはじめる。
「そうだよな。海の言うとおりだ。とりあえず、アタックしなきゃ何も始まらねぇよな」
「おうっ。その通りや! それでこそ男や! 男の中の男っちゅうもんや! おっしゃ。空の気持ちが定まったところで『一条さんにアタック大作戦』の作戦計画を練ろうや」
光の口元が微かに歪んだ。何だその作戦、とでも思ったのだろう。言いだした海はもちろん、空もすっかり乗り気になっている。
「光、書く物くれ」
「しっかり考えたってや、参謀長官」
光の肩を掴んで、海が爽やかに笑う。
「っていうか、参謀長官ってなんだ」
紙とペンを用意してやった光は、聞き捨てならずと二人を睨む。
「だって、俺達の中で一番頭良いの、光じゃん」
「そうそう。そやから、おまえも参加せぇよ」
有無を言わせぬ口調で迫る二人に、光は珍しく心底嫌そうな顔を見せた。
光は、空と海が家に帰るのを玄関まで見送り、部屋に戻った。テーブルの上に、一枚の紙が置かれていることに気づき、手に取ってみる。
『一条さんにアタック大作戦!
作戦その一
朝の登校時間を早め、一条さんを待ち伏せ。さりげなく、挨拶を交わして仲良くなる。
作戦そのニ
クッキング部に顔を出して、さりげなく一条さんの情報をゲットする。
作戦その三
一条さんを見かけたら、必ず声をかける。
作戦その四
一条さんの好みの男性をリサーチし、それに近づけるよう努力する。
作戦その五
一条さんが困っていたら助ける。
作戦その六
ケータイ番号、メルアドをゲットする。
作戦その七。
メール攻撃。(押してダメなら引いて見な)
作戦その八
告白。(乙女が喜ぶ様な演出をする)』
どうやら、空が忘れて帰ったようである。
光は息を吐いた。異様に盛り上がって、ああでもないこうでもないと騒いでいたくせに、内容はコレか。と、読んで呆れたのである。
光はほとんど、話しあいに参加しなかった。何か言えと散々言われたが、光は興味が持てなかったのだ。
「でも、これ、ストーカーじみてるよな」
作戦その七のメール攻撃。カッコで閉じられた文章は、海の字だ。押してダメなら引いてみなって、アドバイスのつもりだろうか。
作戦その八のカッコの中の文字も、海が書いている。乙女が喜ぶような演出って、具体的にどういうものを考えているのだろう。ふと、疑問に思ったが、光は二人に聞こうとは思わなかった。
そんなことを聞いた日には、絶対に、この馬鹿げた作戦に強制参加させられるに決まっている。それだけは阻止しようと心に誓う光であった。




