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第一章 空にきた春

 九月下旬。

 清秀大学付属せいしゅうだいがくふぞく清秀高等学校せいしゅうこうとうがっこうの、あちらこちらに植えられている金木犀が、良い香りを辺りに漂わせていた。

 時折風に乗って、金木犀の匂いが届く校舎は、まだ新しい。

 文化祭を終えて数日経った校内は、どこかアンニュイな雰囲気を漂わせていた。

 制服が夏服から冬服への移行期間に入ったが、まだまだ暑さが残るこの時期に、濃緑色のブレザーを着ている生徒は少ない。

 登校してまっすぐ席に着いた高橋空(たかはしそら)は、制服のシャツの袖を肘までまくっている。それくらいでちょうどいい気温だった。

 周りから可愛い可愛いと評される顔は、今、真剣な表情をつくり、手に持つ携帯電話に向けられていた。

 先日。空は両親から青い携帯電話をプレゼントされた。それまで、携帯電話を持っていなかったのだ。持っていない事で、不自由さを感じたことがないため、両親に携帯電話を買ってほしいとお願いしたこともなかった。

 そんな空の手元になぜ、携帯電話があるのかといえば、空の発した一言が原因らしい。


 ある日。帰りが遅くなった空は、母から『遅くなるなら連絡をしなさい』と言われ『最近は公衆電話がなくて簡単に連絡出来ない』というような返事をしたのである。

 日常のちょっとした会話で、空自身はそんなことを言った憶えなどなかったのだが。母はずっと気にかけていたらしい。

 父と相談の上、家族全員が携帯電話を持つことになったのだ。

 

 そして今。空は、携帯電話の使い方を勉強中である。

 勉強といっても、ただ単に、この機能は何だろうとか、あっちこっちを開いては、閉じ、ということを繰り返しているだけである。空は説明書を読むより実践で覚えるタイプだ。

「なんや、またやってんの? ほんま、お気に入りやなぁ」

 どことなく苦笑を滲ませた声が、空の耳に届いた。

 いつの間にか空の傍らに、同じクラスの生徒が立っていた。紫藤海(しどうかい)という名の彼は、空と同じ一年二組の生徒であるとともに、血のつながった三つ子の兄弟の一人でもある。顔立ちは余り似ていない。似ているのは、茶色味がかった髪と目の色くらいのものだ。

「だってさぁ。メニュー見てると、とにかく色々あるんだよ。もう、わっけ分かんなくてさぁ」

 空は、携帯から海に視線を移した。海は秀麗ともいえる顔立ちに、爽やかな笑みを浮かべる。空の前のあいていた席に移動して、座った。

「でも、メールとか電話の仕方は覚えたんやろ? とりあえず、それでええやん」

「まあな。でも、こんだけいっぱい機能ついてるのに、使いこなせないのって悔しいじゃん」

 空は唇を尖らせる。電話の仕方やメールの送り方など、基本的な携帯電話の使い方を教えてくれたのは海だ。それ以外の機能については、海曰く『機種が違うからよう分からん』のだそうだ。

 海は肩をすくめた。

「ホンマに顔に似合わず、負けず嫌いというか、なんというか」

「顔に似合わずって、どういう意味だよ」

 空が、凄んだ。凄んだところで、可愛らしい顔立ちのせいで迫力はないのだが。海は空を宥めるようにまあまあと、両手を胸の前に上げた。

 空は、自分の顔立ちにコンプレックスを持っており、可愛いと言われるのがすこぶる嫌いなのだ。

「言葉通りの意味だろう」

 冷たいともとれる声音が、近くから聞こえてきた。空と海は声のした方へ顔を向ける。

 空の座る席の横に、黒ぶち眼鏡をかけた、一人の少年が立っていた。まるで絵本から抜け出してきた、王子様のような容貌の持ち主だ。黒ぶち眼鏡さえなければ、よりその顔立ちの秀麗さは際立って見えただろう。名は春名光(はるなこう)。密かにファンクラブがあると噂されるこの人物は、空たちと血のつながった兄弟であり、同じクラスの生徒でもある。空たちとよく似た茶色味がかった髪と目をしている。


 ちなみにクラスの連中には、三人が血のつながった兄弟であることは伏せている。三人が三人とも、別々の家に養子として迎えられていることもあり、あれやこれや詮索されるのも面倒だからだ。

 そもそも、空は去年まで兄弟がいることすら知らなかったのだ。二人は弟と言うよりも、仲の良い友人のような感覚だ。

 かといって、普通の友人と同じかと言えば違う。空にとって、彼らは特別な存在なのだ。


「言葉通りって何だよ」

 空が眦を上げて、光を見る。彼は空に眼鏡の奥から、冷たい視線を返した。

「言葉通りは言葉通りだ。そんなことより、何でわざわざ僕の席に座って、携帯いじってるんだ」

 そう。今、空が座っているのは、自分の席ではなく、光の席なのだ。

「いやぁ。だってさぁ。俺の席、窓際じゃん。あそこでケータイ開くと画面見にくいんだよな。その点、この席は太陽の光が直線当たらなくて、画面見やすいからさぁ」

 空は、あははと、笑ってごまかしながら席を立った。眼鏡の奥から届く視線が、痛かったからだ。

 入れ替わりに、自分の席についた光は、傍らに立つ空を冷ややかな目で見上げる。

「まったく。おもちゃを与えられて喜ぶ幼児みたいだな。授業中にケータイ触ってたら没収されるぞ」

「いちいち言わなくても、分かってるっつーの。っていうか、その言い方がムカツク」

 言葉を紡いでいる最中に、自分が馬鹿にされたことに気付いた空であった。腰に手を当てて、頬を膨らませる。光は眼光鋭く見下ろしてくる空の視線を、平然と受け止めた。

「まあ、まあ、まあ。その辺で。ほら、もうすぐチャイム鳴るで」

 海の予告どおり、予礼のチャイムが校舎に響き渡った。あと五分で、朝礼が始まるのである。

 



 放課後。空は、光と海を待っていた。一緒に帰るためだ。光は担任に呼ばれて、職員室に行っており、海は掃除当番だ。

 教室の掃除が始まったため、教室で待っていることもできず、校舎を出たのはいいが、することがない。

 空はうろうろと彷徨、疲れて、校舎脇の通路にあるベンチに座った。携帯電話をズボンのポケットから取り出す。携帯電話を触ることで、暇を潰すことにしたのである。

「にしても、太陽の下って画面見にくいんだよなー」

 空はそんな独り言を呟きつつ、携帯電話の上部に手をあて、画面の上に影を作った。

 先ほどよりは、画面が見やすくなったような気がする。ほんの気休め程度だが。

 そろそろ、掃除も終わる頃だし、一度教室へ戻ろうか。

 そう考えていた時、空の鼻腔に甘い匂いが届いた。

「たーかーはーしー」

 空は斜め右後方から名を呼ばれたように思い、そちらに首をめぐらす。甘い匂いが少しだけ濃くなった気がした。

 校舎の一階の窓から、一人の女子生徒が身を乗り出し、こちらに手を振っている。

 同じクラスの大木紗江(おおきさえ)だ。最近、席替えをして、席が近くなったことから、よく話をするようになった。長身で、明るくさばさばとした性格の彼女とは、気が合っている。

 甘い匂いは、どうやら彼女の立つ窓の向こうから、漂ってきているらしい。

 大木は空に向かって大きな身振りで、こっちへ来いと促してくる。

 空はベンチから立ちあがると、携帯電話をポケットにしまい、彼女が身を乗り出す窓の前に立った。

「なんだよ。大木」

 彼女は、空に目線を近づけるように窓枠に手をかけ、腰を曲げた。

「良い物あげよっか」

 大木は溌剌とした顔に、どこか楽しげな表情を浮かべている。

「良い物って?」

 小首を傾げた空を見て、大木は軽く息を飲んだ。

 心の中で『高橋、可愛い!』と叫んでいたのだが、口には出さなかった。賢明な判断であろう。空が、可愛いと言われる事を毛嫌いしているのを、大木も知っていたのだ。

 彼女は少しの間、空の顔に見入っていた。

 男にしておくのがもったいないだの、ころころとよく変わる表情が子犬みたいなどと、言われているのも頷ける程、可愛らしく整った顔をしている。女の子からみると、少し嫉妬したくなる程だ。

「高橋って、女に生まれていればウホウホだったのにねぇ」

 と、つい口を滑らせたのも、仕方がないのかもしれない。

「何だよ、ウホウホって。どういう意味だよ」

 空が眉間に皺を寄せて不快をあらわしたので、大木は慌てて本来の目的に戻ることにしたようだ。

「気にしないで。それより、高橋。ほら。コレあげる」

 大木が空に差し出したのは、クッキーの乗った皿だった。美味しそうな匂いが空の鼻を刺激する。よくよく見れば、大木の居る場所は、調理実習室だった。空の視界に入ったテーブルの上に、調理器具などが置いてある。

「私、クッキング部なの。さっき作ったばっかりのクッキー。試食させてあげる」

 空のただでさえ大きな目が、さらに見開かれる。

「まじで、いいの? やっりー。超美味そう」

 大木は知らなかったのだが、空は無類の甘い物好きだ。男としてのプライドが邪魔をして『甘いものが大好きです』と、公言していない。空の中にある理想の『男らしい男像』から、はずれてしまうからだ。

 その割に、クッキーを目にして瞳をきらめかせ、嬉しそうに手を伸ばしているのだから、甘い物好きは態度にあらわれてしまっている。本人はそれを自覚していない。

 空は、遠慮なく皿に手を伸ばし、クッキーを幸せそうに頬張っている。

「うっめー。マジ美味いよ。大木天才」

 クッキーを口に放り込みながら、空は褒め言葉を連発する。

 そんな空を見る大木は、可愛い動物を愛でるような目をしていた。空は、クッキーを食べることに必死で、それに気づいていない。

「大木ちゃん。そんな所で何やってんの? 片づけ終わった?」

 不思議そうな響きを持つ声が、二人の耳に届いた。声の主が窓辺に近づいて来たので、空にもその姿が見えた。

 二年生の女子生徒だった。ネクタイが赤色なので、学年が分かる。

「あ、先輩。片づけは完了です。今、クラスの男子を発見したので、餌付けしてるんです」

 大木は言葉の後半で、空に視線を移した。二年生の女子生徒が、空に目を向ける。空は、先輩に小さく会釈した。彼女の目が大きく見開かれる。

「きゃー。可愛い男子発見! 何よ、大木ちゃん。こんな可愛い子に、餌付けするんなら私達にも言ってよ」

 二年生の女子は、大木の背中を勢いよく叩く。大木は苦笑を滲ませながら、すみませんと、謝っている。

 空は、彼女らの会話を聞きながら、眉根を寄せていた。餌付けという言葉も不可解ではあったが、それ以上に可愛いという言葉に、腹をたてたのである。相手が男なら、先輩でも怒鳴りつけただろうが、相手は女子の上に先輩なので、ぐっとこらえた。それに、まだ口の中にクッキーが残っている。

「ねぇ、ねぇ。君。ケーキ好き? そんな所で食べてないで、こっちおいでよ。二年生はケーキ作ったの。余ったやつあるから食べない?」

 二年生の女子に尋ねられて、空は可愛いと言われて腹を立てていたのも忘れ、頷いた。それはもう、嬉しそうな顔で。クッキーを咀嚼し終えた空は大きな声で答えた。

「すぐ行きます!」

 その場を全速力で駆けだす。玄関に回って、急いで靴を履き替える。驚異的な早さで、調理自習室の扉を開けた。走ったせいで、荒くなった呼吸を落ちつけようと胸に手を当てて、深呼吸する。肺が、甘い匂いを纏った空気で満たされる気がする。

 実習室の中には、十数人の女子生徒がいた。ケーキを試食中の生徒もいる。

 彼女達は、一様に、勢いよく教室の扉を開けた空を見て、嬉しそうな声を上げる。

「きゃー。本当に、可愛い男子が来た!」

「コレ食べってって、食べてってー」

「こっち来て、座ってー。いっぱいあるからね」

「大木ちゃん。こんなクラスメートいるなんて、羨まし過ぎっ」

 余程、男子生徒が来るのが珍しいのか。それとも、他の理由があるからなのか。大歓迎ぶりである。空は、女子の勢いに圧倒され、可愛いと言われたことにも、反応できなかった。促されるまま椅子に座る。周りを女子に囲まれながら、ありがたく提供されたチーズケーキとクッキーをいただいた。


「あー。美味かった。ごちそうさまでした」

 両手を合わせて、きちんと食後の挨拶をする。

 空の前には、綺麗に空になった小皿が五枚重ねられていた。チーズケーキを三つ、クッキーは二皿分をたいらげていた。

 二年生の先輩の一人が、食後に紅茶まで入れてくれる。

「高橋君、また来てね。高橋君の食べっぷり見ていたら、本当に作ったかいがあるわ」

 空に、何やかやと話しかけるクッキング部の面々。先輩や同学年の女子達が、嬉しそうな笑顔を見せている。そんな中、大木一人だけが、どことなく不服そうな顔をしていることに、空は気づかなかった。

「あら、随分とにぎやかですわね」

 ドアが開く音がしたかと思ったら、おっとりとした声が、調理実習室に響いた。

 部屋にいた全員の視線が、声の主に向かった。

 大きな目を縁取る長い睫。小さな形の良い鼻に、ふっくらとした柔らかそうな愛らしい唇。見目麗しい少女だった。彼女の動きに合わせて、黒く長い髪が揺れる。

 彼女は扉を閉めると、空を中心に出来た女子の輪に、近づいてくる。

 ネクタイの色が緑色ということから、彼女が三年生だと分かる。

「あら、男子部員が入りましたの?」

 首を傾げた彼女は、周囲に優しげな雰囲気をふりまいている。この雰囲気を擬音語にするなら『ほわんほわん』といったところだろうか。

 空は彼女に見入っていた。

 紅茶のカップを、口に運ぼうとしていた手を無意識にとめてしまう。

 胸が、早い鼓動を打ち鳴らす。

 空は、彼女に見惚れていたのである。

 顔立ち、雰囲気、全てが好みのタイプだった。

「一条先輩。遊びに来てくださったんですか」

 誰かが嬉しそうな声を上げる。

 そうか、彼女は一条という名前なのか。

 空は、上手く働かない頭に、彼女の名を刻んだ。

「彼は、大木ちゃんのクラスの高橋くんです。今日作ったお菓子を、試食してもらってたんです」

 誰かがそう説明する。

 一条と呼ばれた美少女は、空に柔らかい笑顔を向けた。

「それは、それは。どうもありがとうございます。お味はいかがでしたか? ご満足いただけました?」

 尋ねられて、空は、慌ててカップをソーサーに置き、顔を真っ赤にしながら立ち上がった。

「は、はいっ。ご満足しました」

 敬語が怪しくなっている。それだけ、動揺していたのである。周りから小さな笑いが起こるが、空の耳には届かなかった。空の全神経が一条という名の少女に集中している。

 一条が、空の焦っている様子を見て、どう感じたのかは、分からなかった。彼女は、柔和な笑顔を崩さない。

「私は、一条千鶴(いちじょうちづる)と申します。今年の夏まで、このクッキング部の部長をしておりました」

 彼女の口調や雰囲気から、育ちの良さがにじみ出ている。空が、呆然と見入っている間も、彼女は空に言葉をかけ続ける。

「皆も喜んでいるようですし。また、よろしければ、クッキング部へ試食に来て下さいね。高橋さん」

 名前を呼ばれた事が、異常なほどに嬉しくて、空は大きな声で、はいっと返事をしたのであった。


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