第十章 ミステリー会開幕
何もかも、あの人のせいだ。
母が死んだのも、自分がこんなことになってしまったのも。
あの人は仕事人間だった。今も昔も変わらず。
振り向いて欲しいと思うことは間違いだったのだろうか。
どんなにいい子を演じても、見向きもしてくれなった。
なら、こちらを振り向かせればいい。
そんな戯言に耳を傾けた自分が愚かだったのか。
いや、そんなはずはない。
素行の悪い連中とつるんでも、あの人は反応を見せなかった。
どんなに悪さをしても、あの人は無関心を通した。
他にどうすればよかったのだろう。
少しでも愛情を示してくれていれば、こんなことにはならなかったのに。
愛情を向けなかった、あの人が悪い。
そう、何もかも。
何もかも、父のせいだ。
一条慎太郎氏が現れたのは、六時ちょうどだった。彼の乗った車椅子を押しているのは千鶴だ。老人は藤沢の手を借りて、上座にある椅子に移った。千鶴は意地悪な美女の前に座る。欲を言えば、自分の隣に座って欲しかった。せっかく光の席があいているのに。
茂山によって、ミステリー会参加者が紹介された後。一条老人が声を張り上げた。
「よくぞ、この辺鄙な所まで足を運んでくださった。老いぼれの道楽に付きあってくださり、礼を言う」
一条老人が挨拶している中、茂山と藤沢によって手際よく各テーブルに前菜が並べられていく。
「まずは、我が家のシェフが腕によりをかけた美味しい料理を皆でいただこう」
一条氏の言葉で夕食が始まった。
老人とは思えない食べっぷりを見せて、一番に食事を終えた一条氏は、早々に部屋を辞した。今度は千鶴が残り、茂山が車椅子を押して行く。
ミステリー会参加者は、食後も指示が出るまで、食堂を出ないように言われていた。勝手に出たらその時点で参加資格が剥奪される。
そのため、今は待ちの状態にある。
空は、食後にだされたお茶を一口飲んだあと、腕時計に目を落とす。
七時十分だ。千鶴は、相変わらず私市の隣の席に座っていた。私市が羨ましくて仕方がない。
手持無沙汰なので、こっそりと携帯電話で光の様子を窺おうと思ったのだが、できなかった。どうやらここは、電波の届かない場所のようだ。
「光の奴、夕飯どうするつもりなんやろ」
海が、空の横の席を軽く身を乗り出すようにして見ながら呟いた。どうやら、海も同じことを考えていたらしい。
空達の前の席に座る男性二人が、海の声に反応を示した。彼らは茂山の言葉を借りれば、一般参加枠の方達ということだ。この会の主催者である一条慎太郎は、呆れたことに、新聞広告に小さくミステリー会参加募集を出したのだという。それを見て応募し、選ばれたのが空達の前に座る二人ということらしい。
空の前に座るのは、飲食店を経営しているという倉橋夢路という男。がっちりとした体格で、眉毛が太い。年は聞かなかったが、秀香と同年代だろう。
海の正面に座るのは、瀬戸修次と名乗った大学生だ。身なりは随分派手で、彼が食堂に入って来た時、海はこっそり全身ブランド男と名づけた。空が分かるのは、男がつけているネックレスが男性に人気の、高級ブランド品だということだけだ。
「結局来なかったね。君達のお友達と倉橋さんのお隣さん」
全身ブランド男は空の横のあいた席を見やった。瀬戸の言うとおり、倉橋の隣の席も、空の隣席と同様空席だった。
「そうですね。せっかく美味しい料理がでたのに、食べられなくて残念ですよね」
海が相槌を打つ。敬語の時、関西弁でなくなるのはいつものことなので、空はもう驚かなくなった。
瀬戸が何故か妙に嬉しそうな顔で、「美味かった、美味かったよなぁ料理」と、何度も頷いている。その横で、倉橋は極太眉を寄せて、唸った。
「うーん。藤沢さんに聞いてみるか? 何で俺の隣の男は来ないんですかってな」
瀬戸も倉橋も性格は社交的なようで、空も海も今の所、和やかに会話交わしている。
空は、扉の方に目をやった。そこには、藤沢が一人立っていた。茂山は食後のお茶を給仕したあと、すぐにまた部屋を出ていた。
一条氏も茂山達主催者側も、光が来ない理由については伝えたが、その前の席が空席であることについては触れなかった。
気にはなるが、空は空席よりも、光の事が気がかりだった。光は喘息の発作を起こすことがあるので心配なのだ。食事を済ませてすぐに様子を見に行こうと思っていたのに、当てがはずれてしまった。部屋で倒れていたらどうしようと、変な考えが頭に浮かび、気が気ではない。
「なぁ、海。俺やっぱり……」
光の様子を見に行ってもらうように頼んでくる。と、口にしようとしたが、出来なかった。
別の声が割って入ったからだ。
その声は、天井から降ってくるように聞こえた。
『やあ、諸君。一条家ミステリー会へようこそ。私のことはマスターとでも呼んでくれたまえ』
食堂に朗々と響き渡る声。
空は海と驚いた顔を見合わせた。
「爺さんノリノリじゃん。こんなのまで仕込んでたのかよ」
との発言は、海の前の席からだ。だが、空と海は爺さんの乗り具合など、どうでもよかった。
「なあ海、今の声」
皆まで言わず、小声で尋ねると、海は頷いた。
「ああ、光の声やと思う」
二人には分かる。自称マスターの声は、二人の弟の声にそっくりだった。
一体どういうことなのだろう。いつの間にか主催側に回っていたということなのか。
心配して損した。それならそれで、一言くらい言っておけよ。と、空が恨みがましく思うのも仕方がないだろう。
囁き交わしていた少年二人の前で、退屈なのか、眠いのか、瀬戸が大きなあくびをして、目を閉じた。
空は、瀬戸を見やり、この人も大概のんきだな。と、いう感想を抱く。そこで再び、声が降ってきた。
『さっそくだが、諸君。事件はもう動きだしている。ここには居ない誰かが、加害者であり、被害者であり、謎を解く鍵を持っている。まずは、腕試しだ。各々、事件の真相を探れ。健闘を祈る』
ブツッという音と共に、音声が途切れた。部屋のどこかにスピーカーでもあるのだろうか。
「なぁ。ここに居ないって、光の奴自分の事言ってんのか?」
空が海に尋ねると、海は胸の前で腕を組んで、うーんと一つ唸った。
その時。
辺りが暗くなった。
突然の闇に支配され、いくつかの悲鳴や驚きの声が上がる。それに混じって奇妙な音が聞こえた気がしたが、考えるよりも先に、別の大きな音が間近で響いた。
テーブルの上に何かが落ちてきたのだろうか。食器がぶつかる激しい音も同時に聞こえた。
「落ち着いてください。皆さん落ち着いて」
祐一が声を張り上げているのが聞こえる。
「早く電気をつけなさいよ!」
金切り声をあげているのは、秀香だろう。
暗闇に目が慣れる前に、唐突に部屋に明かりが戻った。
一瞬目を細めた空の耳に、悲鳴が聞こえた。悲鳴に呼応するかのように、息を飲む音も複数耳に届く。
悲鳴の上がった方へ顔を向け、悲鳴の主を見る前にテーブルの上に目が釘付けになる。
いくつかのティーカップを倒し、あるいは下敷きにして。何かがテーブルの上に横たわっていた。
「光?」
空の呟きは、傍らにいた海にだけ聞こえた。