訪問
それからしばらくの間、何事もなく過ぎて行った。
維月も宮の庭の中を歩き回ることはあっても、宮の外にまで維心の留守に目を盗んで出掛けて行くことはなかった。維心もほっとして、毎日を穏やかに過ごしていた。
そんな中、維心が維月と共に居間で座っていると、洪が転がるようにして入って来て膝を付いた。
「王!お、お客様が参っておりまする…」
維心は怪訝な顔をした。
「して、なぜにそれほどに慌てておるのだ。そんなに大変な客であるのか?」
洪は頭を下げて言った。
「…王、維明様でございます。」洪は、慌てて何と言ったらいいのか分からないらしい。「千数百年、一切屋敷を出て来られなかった維明様が、なぜに…なぜに今、ここへ…。」
維心は、立ち上がった。
「参る。」と、維月を見た。「主は奥に居よ。」
維月は反論しようとしたが、思い直して頷くと、奥の間へ入って行った。維心はそれを見届けて、謁見の間へと急いだ。洪が足を絡ませながらついて来る。
なぜに今、ここへ。叔父上の気は、感じない。ここまで来ようと思ったら、それなりに気を補充しなければ無理であったはず。なのに、全く感じないのはどういうことだ。
維心が謁見の間へ入って行くと、維明が軽く、頭を下げた。
「…維心。」
維心は、玉座に座って、訝しげに維明を見た。気を遮断する膜を着ている…だから、気を感じなかったのか。しかし、我はあれを教えたことはない…。
維心の視線に気付いた維明は、フッと笑った。
「…十六夜が、これを教えてくれた。」と、膜を指した。「皆に気を知られとうないなら、気を完全に補充してからこの膜を纏えと。さすれば、体がつらいことはないだろうと。これほどに体が軽かったのかと思うたわ。」
臣下達は、維心にそっくりの維明をじっと見ている。知らぬ者のほうが多いのだ。一切出て来なかったこの叔父は、洪達重臣しかその存在を知らなかった。そして、その洪達ですら、実際に会ったことはなかったのだ。
「叔父上。」維心は言った。「して、我に何用か?ここまで来られるとは、重大なことでも起こったのか。」
維明は首を振った。
「…ただ、話をしに参っただけよ。体が軽くなったのでな。」
維心は、立ち上がった。
「では、庭へでも参ろうぞ。」と、膜を指した。「そのようなもの、被らずでも良い。我は一向に気にせぬゆえ。」
維明は少し眉を上げたが、膜を消した。途端に、維心と同じ、強大な気が抑えられた状態で回りを圧倒した。二人共にそれを発しているので、謁見の間の壁がびりびりと小刻みに震えた。維明は苦笑した。
「…やはり外が良いの。」
維心は頷いて、維明と共に庭へと出て行った。
臣下達が呆然とそれを見送った。あれが王の叔父上…世にあれほどの気が、まさかまだ存在したとは…。
維心について、穏やかに歩いて来る維明は、懐かしげに宮を見回した。この長い時を、一歩もここに踏み入らぬまま過ごしたのだ。維明は言った。
「なんと、何も変わらぬかと思うたのに…花が増えたの。昔はここまで色彩豊かではなかった。」と、奥を覗いた。「なんと、花畑まで。」
維心は頷いた。
「…妃が、好むので。」維心は言いにくそうに言った。「あれの良いようにと庭師に申し付けておるのだ。なので、野の草花まで軍神達が持って帰る始末。ゆえに奥は花畑になっておるのだ。」
維明は、それを聞いて改めて回りを見た。
「…そうか…花をの。」
維心は、維明に向き合った。
「叔父上、維月に会いに参ったのか?」
維明は、眉を上げた。いきなりだったからだ。そしてため息をついて、頷いた。
「…主には分かるよの。しかし、我は維月をどうこう思っておらぬ。ただ、顔を見たいと思うた…だが、あれがそうそう宮を出て参ることは無かろうと思うての。そうしたら、ここへ来ておった。なので覚悟を決めて入って参ったのだ。」
維心は、維明から視線を反らした。
「…会わせる訳には行かぬ。分かるであろう?我にとり、あれは唯一の妃。叔父上に譲る訳には行かぬのだ。」
維明は頷いた。
「そうよの。分かっておるよ。ただ、顔を見たかった。それだけよ。」と、踵を返した。「では、我は去ぬ。この庭を懐かしく見させてもろうたぞ。ではの。」
維明は、そのまま出て行った。会わせろと無理強いするわけでもなく、ただ、穏やかに去って行く維明に、維心は呼び止めようとして、何も言えずにそれを見送った。いつもそう…何も己の望みは叶えず、こちらの気持ちばかりを考える。昔から、少しも変わらぬ…。
維心はなぜか、あれほどにそっくりであるにも関わらず、維明に勝てない気がしてならなかった。
数週間が経った頃、洪が居間へ、他の臣下達数人とやって来て頭を下げた。維心は維月と並んで座っていたが、言った。
「何用ぞ。皆揃って。」
洪が、口を開いた。
「我ら、王にお願いがあって参りました。」洪は、頭を下げたまま言った。「是非とも、お聞きいただきたく。」
維心は頷いた。
「申せ。」
洪は、顔を上げた。
「維明様のことでございまする。」洪は、思い切ったように言った。「我ら、王の叔父君があれほどに強い気をお持ちでいらっしゃるとは知り申さなんだ。将維様と維明様、そして王がこの宮に居られれば、我が宮はさらに強固な守りの中に置くことが出来ようと、維明様を宮へお迎えしては思うておりまする。」
維心は、眉を寄せた。
「…叔父上は、静かな暮らしを望んでおる。なので、誰にも会わずに西の隠れ屋敷にこの千数百年篭って出てこなんだのだ。」
洪は頷いた。
「はい。分かっておりまする。おそらく、王と王座を争うことを避けようとされてあのようにされて参ったのでございましょう。しかし、王は王であり、それが違えることはありませぬ。ですので、こちらで重臣の一人として仕えて頂ければと願っておるのでございます。」
維心は黙った。確かにこのようなことは臣下達が決めるもの。だが、叔父上はこの話を受けることはあるまい。そのつもりなら、もっと前にそうしているだろうからだ。しかし…宮に来れば、維月の顔を見る機会もあるだろう。それを考えると、もしかしたらここへ来ることを決めるかもしれない。維月と過ごすために…。
「…我は、今更落ち着いておる宮をどうこう考えておらぬ。叔父上の生き方の邪魔をするつもりもないゆえに。ここで仕えずとも、何かあれば必ず叔父上は助けてくださるであろう。なので、我はその願いを聞くことは出来ぬ。」
臣下達は、顔を見合わせた。しかし、王の言うことは絶対だ。仕方なく、洪達は頭を下げ、出て行った。
維心は、険しい顔をしていた。維月が維心の腕をそっと触った。
「維心様…。」
維心は、維月を見た。
「…いや、機嫌を悪くしたのではないぞ。あれらがああ言って来ることは、分かっておったからの。だから叔父上も、あのような所で、気を抑えてまで身を隠しておってくれたのだ。我が統治しにくいであろうと申してな。なので、あれらが言いに行ったからと言って、それを叔父上が受けるとは思えぬ。しかし、我の命であったなら、叔父上は受けざるを得ないであろう。洪達が先に我に言いに参ったのも、そういう後ろ盾が欲しかったためよ。我は何も言わぬ。叔父上から願い出て参るのなら別であるがな。」
維月は頷いた。
「はい。私も、政務などに引き込みたくない心持ちでありますので…何しろ、穏やかにお暮しであられますから。十六夜が、最近よく維明様と話すのだそうですわ。十六夜は、ああいう穏やかな神が好きなのです。あちらのご様子も、十六夜から聞いておりました。」
維心は驚いた。では、あれからずっと十六夜は叔父上と話しておったと申すか。
「…そうか。十六夜は、叔父上を気に入ったのであるな。」
維月は微笑んで頷いた。
「はい。よく話しておるそうですわ。実体化せずに、月からでございますけれど。夜に維明様が月を見上げて、そして話すのだそうです。本当に自分というものを押し付けない神だと言っておりました。私も僅かな間でございましたが、お話して和んだものでございます。きっと、十六夜もそんな心持ちなのでしょうね。」
維心は、黙って頷いた。そう、叔父上はいつもそうなのだ。我だって、嫌いだと思ったことは一度もない…。
「…複雑な心持ちよ。」維心は、維月を抱き締めた。「どうしたら良いのか、わからぬの…。」
「維心様?」
維月は不思議そうに維心を見上げる。
維心は、じっとそのまま維月を抱き締めていた。