西の屋敷
月の宮では、蒼が久しぶりに穏やかに過ごしていた。このまま何もなく過ぎ去ってくれればいいのに…もうごたごたはたくさんだ…と思っていると、傍に座っていた十六夜が、ふと月を見上げた。
「十六夜?どうしたんだ?」
蒼は訊ねた。
「…維月の気がする。」十六夜は立ち上がった。「月に戻ったんだ。ちょっとオレも戻って来る。」
十六夜が嬉々として窓辺へ向かう中、蒼は慌てて言った。
「ちょっと待て。こんな夕方に戻って来るって、まさか維心様と大ゲンカしたんじゃないだろうな。」
十六夜はフンと横を向いた。
「さあな。いいんじゃねぇか?月がオレ達のホームポジションなんだぞ、本来。戻って悪いこたぁねぇよ。じゃあな。」
十六夜は、光に戻って月へ打ち上がって行った。蒼は眉を寄せた…せっかく、いろいろごたごたしていたのが、収まったところなのに。お願いだから、ケンカだけはよしてくれ。
見上げる月には、珍しく陰陽二人の月の気配がして、なんだかホッとするような感じがした。
《維月。帰って来たのか?》
十六夜が言うと、維月は頷いたようだった。
《もう、駄目。だって、維心様ったらほんとに王様で、まあ王様なんだから仕方ないんだけど、でも、誰に会うなとか、どこへ行くなとか、理由も言わずにおかしくない?私は所有物じゃないのよ。心があるの。それに…最近気付いたんだけど、心を繋いでも維心様には隠しておくことが出来るのよね。だから、私に知られたくないことは見せてないと思う。今日もその一つを知って…それってずるいでしょ?他に何を隠してるのか、わからないじゃないの。ご自分はしょっちゅう心を繋いで私のことを探ってる癖に。もう、知らないんだから!》
十六夜は面食らった。
《おいおい…お前マジに怒ってるな。維心はかなり焦ってたろう。で、何を隠してたんでぇ。》
維月はぶすっとして言った。
《…維心様の叔父様のこと。維明様っていう維心様にそっくりのかたよ。西の森の中の、隠れた屋敷にいらっしゃるの。私、時間がなくて、少ししかお話ししていないから、また一緒に行こうと言ったのに、静かに暮らしたいと望んでいらっしゃるから駄目だって。でも、維明様はまた来るように言ってくださったのよ?で、なんだか知らないけどむきになって反対されるし…腹が立って帰って来ちゃった。》
十六夜は維心が気の毒になったが、でも維月の性格を知ってるはずなのにそんなに強く反対して、反発しない訳はないだろうに。
《なあ維月、じゃあ、オレと明日そこへ行ってみるか?オレも維心の叔父とやらに会ってみたいしな。》
維月の声は明るくなった。
《そうね!十六夜が一緒ならいいわね。あんな寂しい所にたった一人でお暮しなのかしらと思うと、いくら静かに暮らしたいと言っても、たまには話し相手も欲しいと思う…。そう思わない?》
十六夜は困った。
《…まあなあ…人の感覚ではそうだけどよ、神はどうかな。いろいろ居るんだよ、ほんとに神ってのは。だが、お前にまた来いって言ったんだろう?じゃあ大丈夫だろう。とにかく、もう怒るなよ。》
維月は頷いたようだった。
《うん。ちょっと寝ようっと。》
そのまま、すっと静かになった。十六夜は同じ体の中の命の維月が、睡眠体勢に入っているのが感じ取れた。これが本来あるべき姿。だから、たまにはいいよなあ…。
十六夜も、その命を自分の命で包むようにして、睡眠体勢に入った。
それを地上から見た蒼は、まるで二人のいびきでも聞こえて来そうだと思った…爆睡とはこういうことだ。
やっぱり二人一緒だと安心するのだろうな、と蒼も布団に入って眠った。
次の日の朝、十六夜と維月は揃って月の宮に実体化し、そして蒼と話してから、機嫌よく西へと二人で並んで手を繋ぎ、飛んで行った。維心は常に維月を抱き上げて大事そうに抱えている状態で飛ぶのにも関わらず、十六夜は維月がしんどい~と言ったら抱き上げ、そうでなければ、ああやって手を繋いで、少しぐらいゆっくりでも、スピードを合わせて仲良く並んで飛ぶ。そう言う所に関係性や心持ちが見えておもしろいなあと蒼は思っていた。
そして、十六夜と維月は、揃ってあの屋敷の前に到着した。相変わらず荘厳な雰囲気の中、そう言えば先触れも何もしていなかったと維月が困っていると、十六夜が笑った。
「今更何を言ってるんだか。昨日だっていきなり来たんだろうが。」
維月はばつが悪そうに笑った。
「まあ、そうなんだけど。昨日は知らなかったけど、今日は知ってるじゃない?だからなの。」
入口の前で二人でそうやって話していると、遠く玉砂利を踏みしめる音が聞こえて来た。
「…維月。」
十六夜がびっくりして振り返った。維心の声だと思ったからだ。
しかし、そこに居たのは、維心より少し年上な感じの龍だった。維月が慌てて頭を下げた。
「維明様。先触れもなく、申し訳ございませぬ。」
維明は笑った。
「今更であるの、維月。庭を散々見て参ったであろう。」と、十六夜を見た。「それが、噂に聞く月か。」
維月は頷いて、十六夜を見た。
「はい。陽の月の十六夜と申しまする。」
十六夜は遠慮なく言った。
「お前、ほんとに維心にそっくりだな。だが、なんだって維心は維月にお前のことを隠してたんだ?こいつらはそれで夫婦喧嘩しやがって、維月は月に帰って来るし大変なんでぇ。維心が話さないなら、お前から聞いたらいいと思ってよ。」
維月は慌てて言った。
「まあ十六夜!そんなつもりだったの?失礼よ、初対面で!」
維明は驚いたような顔をしたが、フッと笑った。
「なんとのう、聞いておった通りぞ。」と、踵を返した。「ま、何にせよ話はしようぞ。我とて責任を感じるゆえの。中へ来るがよい。」
仕草や動きまでが維心に似ている…。二人は維明に従って、屋敷の中へ入った。
屋敷の中は、板の間で、そして部屋は畳敷きで襖で仕切っているような作りだった。昔の人の屋敷のような感じだ。
家具などもほとんどなく、がらんとした屋敷内には、人の気も神の気もほとんどしなかった。
その最奥の辺りの部屋へ入った維明は、正面の一段高くなった所にある座布団に腰を下ろし、二人をその前の座布団に促した。
「そこへ。」
二人は、あまりに静かなので、ためらいながらそこへ座った。すると、昨日見た、律が茶を持って入って来た。
「…神…?」
十六夜が、不思議そうな顔で律を見た。維明が言った。
「いや、律は鹿よ。我が神格化させて、身の回りのことをさせておるのだ。ここには、神は一人も居らぬ。召使いも侍女も全てそこいらの獣。普段はその辺で草を食んだりしておるわ。」
律が頭を下げて出て行く。十六夜が、維明を見た。
「ってことは、お前はずっとここで一人か?誰にも会わず?」
維明は頷いた。
「維心には会う。王であるからの。しかしあやつも数十年に一度ぐらいしか来ぬし、お互いにあまり話さぬたちであるので、特に会話もなくての。あやつの報告を聞くのみよ。我は変わらず、ここで庭ばかりいじって生きておるしな。」
維月は表情を明るくした。
「まあ…では、あのお庭は、維明様が?」
維明は微笑んだ。
「そう、我がここへ来た千数百年前から、少しずつ作って来たものよ。木も大きくなって、今良い感じになっておるであろうが。」
十六夜は庭の方を見やった。人では無理な趣味だな。大きな盆栽みたいなものか。それにしても、千数百年も待つ気の長さってすごいな。
十六夜がそう思っていると、維月が言った。
「ええとても!奥の杉からずっと滝のほうへ抜ける道が見事で。脇道のほうへ入って行った時の沢も回りの広葉樹ととても合っていて。」
維明が頷いた。
「実は、主が来て、律が知らせに来てからずっと、どうしたものかと主の様子を見ておったのよ。我は、人にも神にも会わぬ…面倒であるからの。しかし王妃であるし、しかし一人きりであるしで、考えあぐねながらずっと追っていた。主は滝に抜ける道で何十分もじっと立って見ておったの。気に入ったのだろうなと思うておった。そのうちにまた歩き出して、脇のほうへずんずん歩いて参るので、見ておるこっちがハラハラしたわ。足を滑らせるのではないかと…三回ほど、滑って踏みとどまったのを見た。」
維月は赤くなった。転び掛けていたのを見られていたなんて。段々と道が湿気て来るから、きっと何か先にあると思って。
「…はい、きっと川か何かがあると思って…。」
「しかし王妃が沢に入ってカニを追い回すとはいかがなものか。」維明が言った。「行儀がどうのというのではないぞ。我は何度胆を冷やしたことか。草履までその辺に放り出してしもうて。水苔に足を取られて滑るのを見るたびに、心の臓を掴まれるかと思うた…一人であるというのに、後先を考えぬものよ。」と、十六夜を見た。「主、同じ月であるのに。どのような教育をしておるのか。危険なことは控えさせよ。」
十六夜は苦笑した。
「いくら言ってもきかねぇんだよ。維心も言ってなかったか?」
維明は首を振った。
「あれは、維月のことは何も言わぬ。」維明は庭のほうを遠く眺めた。「妃を迎えた後、祝いを述べて、何度様子を聞いてもいわなんだ。将維は何度か連れて来た…次の王だと言っての。」
十六夜は、維明を見た。
「…理由はわかるか?」
維明は、頷いた。
「前は分からなんだがの。今は分かっておる。」と、維月を見た。「維心の気持ちは維心に聞くが良いぞ。我から答える訳にも行かぬしな。」
維月は頷いた。もしかして、あまりにも恥ずかしすぎる妃だからかしら。龍王の妃が、これでは…。でも、神の女になり切るなんて無理なんだもの。
維月は、話題を変えようとした。
「あの、維明様は…800年もお生まれにならなかったと聞きました。」
維明は、片眉を上げた。
「…維心がそのように?」
維月は頷いた。
「はい。それ以上はお話くださいませんでしたが…。」
維明は、フッと息を付いた。そして脇息にもたれ掛かると、庭を見た。
「…そうよな。自然回りは知っておったし、そのうちに知っておる者は死して、誰にも話すことはのうなっておったの。話そうぞ、維月。」
十六夜は、維明が維月ばかりを見ていることが気になっていた。もしかして、こいつは…。
しかし、維明は穏やかな気を発している。維心が維月を愛しているような激しい気ではない。十六夜は少し警戒しながらも、維明の話に耳を傾けた。