ビター=甘い?
ビターオレンジの話題。オレンジデーとか素敵。
一ヶ月に一度の逢瀬。初めは二十四日(二十三日か)、そして二月からは十四日に。
これで四回目の逢瀬だった。『逢瀬』というと、何だか艶めいた雰囲気を感じてしまうが、何てことはなく、ただ会っているだけだった。
そう、先月までは。
「挙動不審よ?」
「そう、かな?」
クッキーを焼いているオーブンの中を覗きつつ、そわそわと時計を見やる。
まだ午後四時。母に訝しげに問われるが、何食わぬ顔をして片づけをはじめた。今日は、夜に来るんだよね。うん。
「ニコくん、次はいつ来るの?」
「さぁ。彼も忙しい人だから」
よく知りもしないが、取り合えずそんな風に嘯いてみた。
それからそっと、彼の唇が触れた右頬に触れる。とたん、体中の血が一気に巡る速さを変え、熱くなる。何でこんなことを思い出したのか。
しかも、それはおまじないであって、他に他意はないはずである。そうに決まってる。
日本人はそんなことしないから、動転しているんだ。彼に他意はない、挨拶程度のものなんだろう。
でも、何で帰り際にキス……。
あの後どれだけ呆然としていたんだろう。気付けば母が帰っていて、『あら、ニコくん帰ったのー?』なんて無邪気に問いかけてきた。
それを思い出して、床を転げまわりたくなってしまう。彼の訪れが楽しみであるような、ないような、そんな感覚だった。
少しだけ、怖かったのかもしれない。今まで考えないようにしてきたものと、向き合わなければいけない気がして。
コンコン、と小さな音が響く。鍵をかけていないので、さっと窓を開けると、そこには淡い髪色の彼がいた。
「こんばんは、コトハ」
「こんばんは、ニコ。どーぞ」
すっと体をよける。今気付いたが、一回の屋根に靴を置いてたんだ。そっか、土足じゃ駄目だもんね。
「こっちは温かいねー」
こっち、ということは彼はやはりどこか別のところから来ているらしい。
はっきり聞くのは戸惑われて、しばらく黙ってしまう。小さい頃、サンタさんの正体が知りたくて、母親に色々聞いたことを思い出す。そのとき言われたのだ。
『サンタさんはね、子供に姿見られちゃうと、もう来てくれなくなるのよ。だからね、サンタさんのことをあまり聞いていると、サンタさん嫌がって来なくなっちゃうかも』
聞いちゃ、駄目な気がする。もう、来てくれなくなるかもしれない。
それは何だか、嫌だった。
「コトハ?」
「ん? あ、クッキーね、作ったんだ」
ラッピングされた袋を一つ。それから、一緒に食べようとお皿に盛ったクッキーの山。それを見ると、彼は嬉しそうに笑った。
その顔は、やっぱりまだ若くって、とてもサンタさんには見えない。
「わぁ。好きなんだー、クッキー」
「サンタさんは好きだって、書いてあったよ」
くるっと彼がクッキーの山からこちらへと視線を移す。それからまた、嬉しそうに笑ってからわたしを見つめた。
「コトハ、調べたの?」
「う、うん。調べたよ。サンタクロースの起源、とか。色々と」
嫌がられて、しまっただろうか。やっぱり、何も調べずにいた方がよかったんだろうか。もう、来てくれなくなる?
「でっ、でもねっ」
「そっかー。コトハ、調べてくれたんだ。何か嬉しい。そうやって調べてくれるって、ちょっと照れくさいけど」
慌てて取り繕おうとしたのに、ニコは笑ったままそう答えた。それに息を一つ吐く。そっか、嫌なわけじゃないんだ。なら少し安心した。どうして、安心したのかは少し分からないけど。
「食べていい?」
「もちろん、どーぞ」
もう温かいけど、やっぱり紅茶を淹れてきた。夜はまだ冷えるし。
「あ、そういえば、ニコにもこれ」
彼に貰ったお花は、やっぱり自分には不釣合いな気がして、気が引けた。
だけど綺麗で、どうにかして保存したくて、結局少し活けた後、半分は押し花に、半分はドライフラワーにした。
と、言っても、それをするにあたって色々と調べたのは秘密だ。
特に押し花は難しくって、頭を抱えつつの作業となった。半分に茎を切るとか、花びらを外して組み直すとか……不器用なわたしには難しすぎた。
キットに頼ったのもいい思い出だ。その前に一個無残にばらばらにしてしまったが。新鮮なうちに思い立ってよかったと思う。
それから時間もかかったが、栞にしてみた。セットというのは大変便利なものだ。
差し出した栞は、白いバラが完全にではないが上手く再現されているようにも思う。小さいバラだったので、少し大きめの栞で上手く入った。
「え? あ、この前のバラ?」
「栞にしてみたの。結構大変だったんだけど、面白かったよ」
苦労はしたけど、どうしても残しておきたかったし、色んな発見ができたから苦ではなかった。
「ドライフラワーもね、どうしたらいいか分かんなかったから、いくつか方法を試したの」
自然乾燥を少し、シリカゲルでの乾燥を少し。楽しかったし、部屋にバラがあると言うのは新鮮だった。(ただし逆さまに吊ってたんだけど) 見るたびにニコを思い出して、嬉しかった。
そんなことを言っていると、いきなりぎゅっと抱きしめられる。
「ニコっ?」
「あー、もー。コトハはぁ」
ほんの少しだけ、呆れたような声。それなのに、声は弾んでいるんだから、器用なものだ。
「すっごく嬉しい。ありがとう」
綺麗だね、と栞の中のバラを見つつ言う。一体何があったんだろうか、というかそろそろ離してほしい。
「今日言おうかと思ってたけど、何か心の準備できなくなっちゃったから、やっぱり止めるよ。こういうのは、それ相当の準備をしなくちゃいけない気がしてきたから」
照れるように言ってから、やっと体を離す。わずかに上気した頬を覗きつつ、意味が分からず首を傾げた。どういう意味なんだろう。何を、言うつもりだったんだろうか。
「へ?」
「バラのね、というか色んな話」
色んな、話。
「ん。でも、これは渡しとくね。ハイ、プレゼントー」
手のひらに、小さなオレンジ色の容器を乗っけられた。
え? 何、これ。ツルツルした表面に、クリームとかが入っていそうな印象のそれ。開けて開けて、と急かされるので、仕方なく開けてみた。
「これ、何?」
「これね、ネロリのクリーム。ビターオレンジから取れたアロマ、知らない?」
知らない。ネロリって何?? ビターオレンジ? それって食べれるの??
「あー、えっと。橙色って知ってるよね? そのダイダイをね、ビターオレンジって言うの。白い花を咲かせるヤツね。で、その花から取られるアロマがネロリって言うんだって」
容器に鼻を近づけると、確かにいい匂いがする。でも、何で?
「どうして、ネロリのクリーム?」
気になって聞けば、彼はにこやかな笑顔を崩すこともなく、それもまとめて今度ね、と言った。
何だかはぐらかされた気分。それでも深く聞く気にはなれず、そっと蓋をした。何だか勿体無くて、使えないし。
「貰っていいの? この前も貰ったばっかりだし、お花」
「いいのー。僕がプレゼントしたいんだから」
だから、どうして『それ』なんだろう。だけど彼が、あまりに嬉しそうに笑うから、結局何も聞けずじまい。
しかしそれを、思ったより普通に受け入れていた。今思えば、謎だらけだった去年でさえ、ごく自然に受け入れていた。
わたしって結構、深く物事を考えないタイプの人間なのかもしれない。それってすごく、危なくない??
「次はね、そうだねぇ。黄色のバラにでもしようかなぁ。チューリップでもいいかなぁ」
「ねぇ、それって花言葉と関係がある?」
バラの話をすると言った。だから『バラ』に意味があるのかと思ってた。
だけどよくよく考えてみれば、簡単なことでそれについて話すってことは、何か言いたいことがあるからという意味で。
「さぁ、どうかなー」
「ニコ」
「あ、でも調べちゃ駄目だよ。これはね、僕の口から言わなきゃ、意味がなくなるからね」
いい子にしてたら、ちゃんと意味を教えてあげるよ。
耳元で彼は囁く。無邪気な笑顔と、サンタさんのように暖かな言動のせいで忘れがちだが、彼は間違いなく男性であって、わたしとは確実に何かが違うのだ。
甘くて、少し低めの声にびっくりして体を離すと、不思議そうに首を傾げられた。何か悔しい。
「ニコッ」
「返事はデージーでいいよ」
調べちゃいけないのに、返事の用意はさせるの?
「返事って、言いたいことって、質問だったの?」
「違うけど、そんなところ」
じゃぁね、コトハ。また来月。
「え、ちょっと」
急いで追いかけようとするのに、彼はもう窓から出ていた。追いつこうと、窓から身を乗り出せば、彼が近寄ってきて、また頬にキスを落とされる。
「なっ」
「おまじない。この前と一緒じゃないよ、今回は特別なおまじない」
そうしてもう一度、今度はわたしの手を持ち上げて、掌にキスを落とす。挨拶、は、手の甲じゃないのっ!?
「じゃあねー」
何も言えず、彼が屋根から落ちるのを見た。次の瞬間にトナカイが空を走る……なんてことはなく、でも彼の気配は静かに消えて行った。遠くへ、行ってしまう。
「ニコ」
静かに呼んでも返事は返ってこなくって、その場にへなへなと座り込んだ。なくなったのは栞が一枚と、クッキー。代わりのように置いていかれたのは、つるりとした容器と、わたしの頬の赤み。
「心臓に、悪い」
一体、何から考えればいいんだろう。花言葉でも探せばいいのか。
そんなことを思いつつも、花言葉を探す気にはなれなかった。どうしてか、彼の言葉が耳に残って、わたしの行動を妨げる。どうしたらいいというんだ。
「とりあえず、寝よう」
全てを、忘れてしまえたらいい、なんて思った。目が覚めたら、また十四日の朝で、何の躊躇いもなくクッキーを焼きたい。
だけど、そうならないということは嫌と言うほど知っていた。
「ニコの馬鹿ー」
白いバラと、黄色いバラ。そしてチューリップ。……返事はデージー。頬のキスと、掌へのキス。
「一体何」
彼の伝えたいことって、一体何なのだろう。一ヵ月後が、すごく怖い気がした。
下に待たせてあるトナカイは、普通に人には見えない仕様。この前の帰りに、酔っ払ったおじさんと鉢合わせてえらい目に会ってしまったから。
「ごめんね、待たせて。帰ろうか」
よしよし、と一頭だけ借りてきた彼に声をかけて、ソリへと乗り込む。少々季節外れなのは、仕方がない。飛行機なんかに乗っていたら、何時間かかるだろう。それは嫌だ。
「あぁー。焦っちゃったよ、どうしよう」
肩までの髪がゆらゆら揺れる、可愛い子。
一年間ずっと頭の中を占めていた、女の子。去年やっと、話す機会があった。そして祖父の言葉に騙されるように、二回目の訪問を果たした。
本当なら、それで満足するべきだったのに。無邪気に名前を聞かれたから。そして柔らかく呼ぶから。どんどん惹かれていって、気がつけば後戻りなんてできない重症に。
「おじいちゃんに、何て言おう」
好きな子ができました?
そんなのとっくにばれている。身を乗り出すようにして見た、一昨年のクリスマス。夜空に向かって叫んでいた女の子が、気になって仕方がなかった。
その次の年、彼女に会いたいと思った。
「うわぁぁー。もっと時間をかけて、僕のこと知ってもらって、それで好きになってもらえたらいいなぁ、とは思ったけどさ!!
焦りすぎ? 焦りすぎだよね。引かれてたらどうしよう」
ガタガタ、とソリの中で自己嫌悪に陥る。彼女のあのびっくりした顔。確かに、前のは挨拶程度だが、今回のはそうも言っていられない。
『掌へのキスは懇願のキス』なんて。
「ただの変態、とか思われてたらどうする? どうしよう……」
手の中にあるのは美味しいクッキーと、可愛い栞。どうしようもなく緩む頬にはっとして、慌てて表情を引き締める。
それから頭を抱えてソリの中で体を縮めた。怖いというよりも、どうしようもなく落ち込む。
花の意味も、全て伝えるのは難しい。きっと、調べられてしまうだろう。白いバラの意味も、黄色いバラの意味も、チューリップの意味も。
全部。全部、彼女に恋した事実が込められている。
「花言葉で告白とか、寒い? 寒いかな、やっぱり駄目かも。あー、来月どんな顔して会えばいいの?」
花言葉に想いを託したのは、彼女が気付けばいいと思ったから。本当は、自分の口から言いたいなんて大嘘。気付いてほしかったのだ。反対に、口で言う勇気がないのだ。
「情けない」
口で伝えなければ意味がない。自分の声で伝えなきゃいけない言葉がある。なのに、臆病な自分はどこまでも予防線を引いて、閉じこもって、嫌な予感に震える。
「でも、会わなきゃ」
会いたいんだ。どうしても。
「だって」
だって、どんなことがあったって、どんなに嫌われたって。
「好きに、なっちゃったんだもん」
だから、諦めるなんてできないんだ。今更。
初のニコ視点でしめました。ニコニコしてる彼の裏が見えたと思っていただけたら幸いです。
オレンジの花は、花嫁さんとかの象徴らしいですよ。髪とかに飾るんだってー。ネロリは高いアロマです……。わたしには手が出ないので、実際どんな匂いなのやら。
スイートオレンジよりもうちょっとフローラル系で甘い感じを想定してますけど、どうなのかは知りません。