故郷の香り
フィンランドフィンランド言ってますが、わたし一回も行ったことないです。その辺をご了承ください。でも北欧大好き!! いつか行きたいです。
朝早くにメールが来た。
曰く『動きやすい服で、7時に玄関前ね』らしい。いつもの彼にしては簡潔なメールで、少々目を丸くした。
たまたまマナーモードにして寝てなかったのが幸いだったと思う。……いつもだったら絶対に気付かなかった。
夏休みの七時とか、絶対に寝てた。寝ぼけ眼で『分かった』とだけ返信して、のそりと起き上がる。現在午前五時だ。
多分今寝たら絶対に起きられない。起きられない自信がある。
そう思ってベッドから緩慢な動きで身を起こし、支度をし始めた。元々服装に拘る人間ではないので、こういうときの決断は早いほうだ。
動きやすい服という指定もあったことだし、歩いたり走ったりするんだろうか。そう思いつつ、動きやすさだけが追求されたシャツを着て、膝丈のボトムスを穿く。
靴は……スニーカーとか?
「今日は、何の日だっけ」
この前、一年分の十四日にある記念日を手帳にメモしたのだ。忘れないように。
それを思い出して、手帳のページを捲る。すぐ傍にある携帯にもあるが、手帳にはさらに詳しくメモってあるのだ。
「えーっと。八月十四日は……」
目的のページを出して、目を滑らせればピンク色のペンで書かれた文字が目に入る。
『グリーンデー』だった。何でも恋人同士で森林浴に行く日だとか。この暑い中、森林浴? いや、この暑さだからあえて?
もやもやしながらベッドの上に座って時計を見る。
朝ご飯食べに下へ行こうかなぁと一瞬思ったが、この時間では母親がやっと起き出す頃だろう。そんなところに鉢合わせしようものなら、絶対にからかわれる。
空腹を抱えてじっと待っていた。じんわりと汗が滲むが、それはこれからどうやって下へ降りて説明しようか迷っているからだ。
夏休み中怠惰な生活を送っているわたしが、七時前に下りるとかどう考えてもおかしいだろう。怪しまれるに違いない。
お父さんに一体なんて言い訳すればいいのやら。(お父さんには未だに何も言っていないのだ。お母さんには一応言ってあるけど)
この前ニコが来たときは、お父さん丁度残業だったし。
「どうしよう。何て言うの」
父と娘という関係は、意外に複雑だと思う。
少なくともうちはそんなに仲が悪いわけじゃないから、余計こじれる。彼氏ができましたとか、改めて言うものなの? 報告して当然のことなの??
お父さん、何か言うんだろうか。怒ったりするのかな。
――とりあえず、こっそり出るように試みる。鞄に最低限必要なものを用意して、もう明るくなり始めた外を見た。
今日も暑そう。こんな日に森林浴って、一体どこへ連れて行く気なんだろう。
「完全に、ニコのペースにはまってる気がする」
ちゃりと首元で音がして、お風呂のとき以外はずっとかけているペンダントを見た。
そういえば、この問題だって解決していない。何から何まで全てニコのペースで進んでいる気がする。
それが不快でなければ、悔しくもない。
何だかそれがひどく自然な気がしてきてしまい、つくづく甘えてばかりだなと思う。しっかりしなくちゃいけないんだけど、だけど。
その方法が分からずに、呆然とするしかない。
「そろそろ下りようっと」
髪をといて、服装を確認して時間を見ると、六時半だった。
朝ごはんを食べないともたないので、どうしても下に降りないといけないのだ。お父さん、今日休みじゃないから下にいるんだろうなぁ。
トントンと音を立てて階段を下り、それからそっとキッチンを覗いた。幸い、お父さんはまだ起きていないみたい。
お母さんが朝ごはんとお弁当を作ってるだけ。
あ、お弁当どうするんだろう。
「あら、ことちゃん。これから起こそうと思ってたのよー。ニコくんのメール見た?」
はい?
一瞬止まって、お母さんの言葉を反芻する。何度思い返してみても、このお人は『メール見た?』と聞いた。
ニコの、メールは今朝着たはずだ。なのにどうして、お母さんが知ってるの?!
「あらあら、お母さんが何故知ってるのかって顔をしてるわね。それは、ニコくんとお母さんがメル友だからよ。
やだっ、言っちゃった。娘の彼氏とメル友なんて!」
もしもし?? 大丈夫ですか、お母さん。
「あのね、ニコくんがね。夕方までには必ず送って来ますからって。わざわざお許しを求めるメールが来たの。
本当に几帳面で素敵な彼氏ねぇ。お母さん羨ましいわ。大丈夫よ、お父さんは今日朝早くって、先に出たの。遅くなっても、お母さんが説明してあげるから安心して行って来てね。
あとはー。あぁ、お弁当ね。ハイ」
ワケが分からないうちにお母さんは勝手に話を進めてしまった。
ついでにお父さんという一番の危機が先に出てしまったという話だ。助かった。お弁当まで用意してくれるなんて。
本来それって、わたしの役割のはずだけど。そう思いつつ、バスケットに入れられたお弁当を見る。リュックを背負っているので、バスケットは持てる。
「いいわねぇ。青春ねー。羨ましい」
いってらっしゃい、なんてことを背中で聞いて、六時四十五分には家を出ていた。
にっこり笑われて、何故か帽子を渡された。やっぱり、森林浴って知ってるんだ。玄関出て、息を吐く。
まだ彼は来ていないらしい、よかった。
「そのうち、心臓止まっちゃうかも、しれない」
「それは困るよね。心臓止まっちゃうって」
ひゃっと色気のない悲鳴が漏れて、体全体が少し浮き上がるくらい驚いた。
飛び上がったというには大げさすぎるが、気分的にはそうだった。心臓が、喉から零れちゃうんじゃないかって思った。
心臓が口から飛び出て、どこか行っちゃったらどうしてくれるんだろう。そう思いつつ、後ろを振り向いた。
「ニコ」
「おはよう、コトハ。朝早くのメール、返してくれてありがとう。今日はそんな君に、とっておきの景色をプレゼントします」
どういうことだろうと思った瞬間に抱き上げられて、そしてすぐ下ろされた。
びっくりしたまま固まっていると、ニコがこちらを向いてからちょいちょいと手招きした。
「ようこそ、ソリの中へ。ボクの相棒であるトナカイ、ルドルフもよろしくね」
あ、赤いお鼻のトナカイさん?
「僕と一緒で、まだ新入りなんだけど一番有名だよね」
ニコが背を撫でると返事をするように鼻を鳴らす。
いつの間にかわたしはソリの中へ入っていて、先程までは見えなかったトナカイが見えていた。多分、ずっとここへいたんだろうけど、わたしには見えなかった。
まるで魔法か何かのようで、ドキドキしてしまう。一体どんな力を使ったら、こんなことができるんだろう。
「さて、今日は特別。ボクの故郷を案内するよ」
へ? と首を傾げると、ニコはその笑顔を崩すことなく『国境越えます』とあっさり宣言した。
すみません、わたしはいままで国から出たことがないのですが。ついでに言えばパスポートも持ってないんですけど。
もっと言えば、わたし油断してて薄着もいいところなんですけどね!!
「にっ。ちょっ、まっ!」
「いいから、いいから。サンタさんの力を信じてて。よし、ルドルフ。よろしくね」
その言葉を理解したように、トナカイさんは地を蹴った。
それと同時に立っていた場所がふわりと浮き上がり、見る間に自分の体が浮くのが分かる。ぐらっと体が揺れると、すかさず腰を掬われた。
見上げればニコはいつもどおりの笑みを浮かべていて、どこか憎たらしくなった。こんなにびっくりしてるのに、ニコのペースに載せられっぱなしで。
「こ、故郷って。フィンランド?」
「正解。森の国で有名でしょ? 何せ69%が森なんだから」
隣でニコが笑った。
そうか、本当にフィンランドの人なんだ。故郷か。わたしにしてみれば、それは遠く外国の話なのに、彼にとっては自分が生まれ育った国なのか。
何だか疎外感とでもいうのだろうか、一人だけ置いてけぼりにされた気がした。
一人ぼっちで、どこか知らない土地に放り出されるような、そんな感覚。怖いのか、不安なのか。
彼がいつもより遠く見えただけで、途端にわたしの中に黒いものが広がる。縋ろうと手を伸ばせば、危なげもなく繋がれた。
「不安?」
「だって」
だって、の後に続く言葉が見つからなかった。
行ったこともない国だから?
ニコが知らない人になりそうだから?
このソリがどういう仕組みで動いているのか、浮いているのかも分からないから?
「でもね、僕が日本を綺麗だと思うように、コトハにも僕の故郷をキレイだって思ってほしいんだ。
僕が日本のことを大好きなように、コトハにもそう思ってほしい。思ってほしいから、知ってほしい。それだけだよ」
握っていた手の甲を、彼は優しく撫でてくれる。
それはいつもどおりの仕草で、多分彼はどこへ行っても変わらないのだろうと思う。要はわたしの感じ方次第なのだ。
わたしが彼との距離を遠いと思えば遠いし、近いと思えば近い。
多分彼は動いていない。ううん、わたしとの距離は常に同じなんだ。だけど、わたしが勝手に遠いと思おうとしているだけ。
それは、多分自分に自信がなかったり、不安だったり。理由はたくさんあるけど。
……彼を、信じていないのだろうか。わたしは、ニコのことを心底信じ切れていないのだろうか。そんなこと、今まで考えたことなかったのに。
どれほど黙っていただろう。すごく長い間、黙っていたような気がする。やっと口から出てきたのは、たったの一言だった。
「うん」
信じたい、のに。信じていると、思っていたのに。
人を好きになったり、大切にしたりするのは、そこまで簡単じゃないらしい。恋なんて、今までしたこともなかったから知らなかったけど。
自分が思っていたよりずっと、心は簡単に動く。わたしの心は、ずっとずっと弱くて、脆くて、簡単に揺れる。
風が強くなって、わたしの髪を揺らした。多分、わたしの心ってこういう感じなんだろう。
「見てみたい、ニコの住んでるところ」
髪を押さえて、どんどん見えなくなる景色を見つつ、呟いた。
森林浴とか、何かもうどうでもよくなって、ニコの手を握り返した。彼を知りたいと思うし、自分自身のことももっと知らなくちゃいけないと思う。
知らないから、不安になっちゃったりするんだろうし。うん、真剣なんだから、ちゃんとニコのことが好きなんだから。
「よし、森林浴へ出発」
風の温度が低くなる。
ひゃっとするほどのその変化に、思わず肩を上げた。湿った空気は瞬く間にその性質を変え、わたしの髪の毛をうねらせる。
ばたばたとはためくその髪に煽られて、わたしは目を瞑った。寒いというより涼しくて、ほんの少しだけ上着を持って来ればよかったかもしれないなんて思い始める。
でも特別涼しいだけ、ということもなく、夏の気配もほんのりとしていた。
「着くよ」
彼がぎゅっとわたしの手を握る。それと同時にソリが高度を落とした。
みるみる見えなかった景色が見えてきて、あっという間にソリが地面に着く。……早すぎませんかね、ニコ。
「ルドルフがすっごく頑張ってくれましたー」
わたしが伺うようにニコの方へ向くと、ニコはトナカイの背中を撫でつつ笑った。
そしてひょいっとソリから降りて、こちらに手を差し出す。両手を、だ。その意図が分からず、首を傾げつつ両手を彼に預けると、首を横に振られた。
「もっと近づいて」
「え?」「いいから」
両手を繋いだまま、彼に近づけばするりと繋いでいた手は離されて、脇を持たれた。
そのまま持ち上げられ、あっという間にソリの外へ引っ張り出される。さくっと土を踏んだ気がした。
「ようこそ、僕の故郷へ」
そう言われて、改めて辺りを見回す。誰もいない、静かな山の中だった。
山っていうか、森か。
「静かだね」
「デートは邪魔されたくないからね」
わたしからお弁当の入ったバスケットを取り、彼はわたしの手を取って歩き出す。
リュックに入れていた帽子を被り、彼が歩くスピードにあわせて歩いた。そよっと風が吹いてわたしの髪を攫う。
頬に当たる風は確かに夏の熱を孕んでいるはずなのに不快ではなく、森独特の匂いを運んできた。
頭の中が冷えて、感覚が鋭くなる気がする。風に揺らされているのはわたしの髪だけではなく、森の木々も同じらしい。
葉が音を立てて揺れていた。その音を聞くと、先程までの憂いも悩みも全てが消えていく気がした。今、すごく落ち着いているのが分かる。
「なかなかいいもんでしょ」
「何か、すごく気持ちいい」
多分、手を入れられた森林浴に適した森なんだろう。
人が歩きやすいように道があった。だけど人工的という雰囲気はなく、あくまで獣道の延長線のような感じ。
背の高い木々は名前も知らない。だけど風のさざめきや、鳥の声に自分が今森の中にいて、その一部になっているという錯覚さえ覚えてしまった。
「綺麗なところだね」
「好きになってくれた?」
心配そうな彼の顔に、首を傾げて笑う。
どうしてそんな、不安そうな顔をするんだろう。
「好きだよ。だってニコが育ってきたところでしょ? ニコが、キレイだって思う土地でしょう?
わたしに見せたいって、そう思ってくれたんだよ。嫌いになんて」
きっとなれるわけがない。
多分、そのくらい溺れてる。国そのものが好きだというより、ニコ自身が好きなんだ。
それはもう、仕方がない。諦めよう。好きなんだから。うだうだ考えてたって、それが変わるなんてことありえないんだから。
そう思って、ニコを見つめた。
「ねぇ、ニコ」
「うん?」
「わたし、単純かも」
彼の言葉一つで、彼の動作一つで、こんなにも彼を好きだと自覚させられる。
それは悔しくて、時々不安になるくらいだけど、それでもそれに満足してしまうほどで。
「ニコのことが、好きだなぁ」
風がざわりと強く吹いて、思わず目を瞑った。
そして目を開けた瞬間、ニコの顔が近くて驚く。一歩下がろうとすればすかさず手を掴まれて、引き寄せられる。
彼が持っていたはずのバスケットは下におかれていて、逃げ腰になった腰を強く引き寄せられた。落ち着いていたはずの心拍数は、途端に落ち着きをなくして数を増やす。
「そういう可愛いこと言わないの」
責めるようなニコの声。それとは別に、嬉しそうな顔。
その違いに戸惑えば、腰に回された手の力が強まった。
「ねぇ、知ってた? ここね、太陽が出てる時間長いんだ。もっと北に行けば、それこそ一日中太陽が出ててもおかしくないんだよ?」
「……それで?」
「夕方って、どれくらいのことを言うんだろうね」
彼の言いたいことが分からない。それはわたしが鈍感だからなんだろうか。それともニコが難しいことを言い過ぎているからだろうか。
「どういうこと?」
「コトハを、ギリギリまで捕まえておきたいってこと」
違うな、とニコが呟く。
それから顔が近づいて、耳元でそっと声を落とされた。
「できれば帰したくないってことだよ。それこそ、日が落ちるまでずっと」
森林浴は心が落ち着くという。リラックスできて、気分転換にはうってつけだとか。
それなのに、すごく綺麗な森にいて静かな木々の合間を歩いているわたしは、心が落ち着きもしないし、リラックスもできていない。
ひた走る心臓を宥め透かそうと息を吸うのに、全くもっていうことを聞いてはくれなかった。
「ニっ、ニコ」
「なんてね。帰さなかったら、次から信用されないもん。それだけは嫌だよ。だから我慢してあげる。
だけど、あんまり可愛いこと言ってると、それも分からないからね」
ちゅっと軽い音がして、額にニコの唇が当たった。
もう森林浴関係ないんじゃないかな、と思ったのはここだけの秘密だ。いつもやられっぱなしなのは癪に障って、半ば自暴自棄に彼の額を引き寄せた。
わたしだって、やればできるんだということを証明したくて。伝わるだろうかと、頭のどこかで思いながら。
初? の攻めことはさんです。ことはさんだって、やればできる子なんです。小悪魔的な。