第3話「記録官の仕事」
防音扉が重い駆動音とともに開くと、無菌の空間が姿を現した。前線基地中枢、戦術記録室。軍中枢はクリーンルーム規格よりさらに厳格な0.8未満に汚染レベルが保たれ、耳が詰まるほどの静寂が支配している。
中央のホログラフィック・ディスプレイを囲む戦術コンソールの向こうに、一人の女性将校が直立していた。
アウレリア軍戦術AIオペレーター、エリナ・ヴォロンスカヤ少佐。灰色の軍服に一切の乱れがない。プラチナブロンドの髪は規則正しくまとめられ、薄青の瞳はホログラムの光を精密な光学レンズのように反射している。大断絶時、汚染レベル5のレッドゾーン(赤域)から生還したという経歴を持ち、その周囲には他者の干渉を拒む絶対零度の壁がある。
「記録官三等、蒼。着任しました」
敬礼すると、エリナの視線が端末から離れた。瞬き一つない。
「予定通り。よろしい」
抑揚のない声。顎でコンソールの一角を示す。
「そこがお前のステーションだ。お前の任務は、我々の戦術的決定の『結果』を中央アーカイブへ送るための目になることだ。作戦立案と損耗率の算出は戦術統制AIと私が担う。お前はドローン群のデータをログと同期させ、事象を確定させるだけでいい」
コンソールを回り込み、蒼の正面に立つ。冷気を孕んだ視線が左胸の紋章を射抜いた。
「前線には無数のノイズが溢れている。恐怖、怒り、哀れみ。それらは生存確率を下げるバグであり、判断を狂わせる不純物だ。人間の精神は情報汚染に耐えきれない」
「感情はノイズだ。消去しろ。お前はただ事実を記録しろ」
蒼の表情は動かなかった。記録板の表面を親指でなぞる。ミライの怯えた顔と、まだ消えない幻臭が残っていた。
「少佐、確認させてください」
平坦な声で切り出す。
「河境地域には、退避を完了していない民間人が残留している可能性があります。戦闘に突入した場合、彼らの動向は『戦術的ノイズ』として記録から除外すべきでしょうか」
言葉が空気に溶けた瞬間、エリナの動きが止まった。呼吸も瞬きも、筋肉の微小な収縮さえも。
蒼はその意味を知っていた。
戦術AIとナノ秒単位で同期する高度オペレーターにとって、0.3秒の停止は明確な断絶を意味する。蒼は記録板に視線を落とし、その硬直の事実だけを留めた。
エリナは一つ瞬きをして、再び氷のレンズで蒼を見た。
「……それも記録しろ。例外なくだ」
吐き捨てるように言うと、コンソールへ背を向けた。
蒼は一礼し、指定席に座った。記録板をポートに繋ぐ。
『認証確認。記録官・蒼。戦術統制システムTACTICA、同期開始』
インカムから中性的な合成音声が流れる。
『午前0730時。河境地域警戒任務の記録プロトコルを起動。前線展開中のUG-03ケルベロス部隊、全三十六機からのストリーミングデータを受信中。脅威度レベルLOWを維持』
網膜ディスプレイに、分割されたドローンの視覚・聴覚データが展開する。
河境地域は、旧時代のインフラが崩壊し、赤錆びた鉄骨が墓標のように連なる荒野だ。幾度も戦闘が繰り返され、分厚い「記憶の堆積層」が形成されている。汚染レベルの推定値は3.0から3.2。生身の人間が踏み込めば精神を破壊される領域だ。
映像は静まり返っていた。ヴォルガ軍は今朝の楔形陣形を維持したまま沈黙している。
蒼は数十の画面を並行処理しながら細部を追った。瓦礫の上で待機するケルベロスのカメラが対岸の森をパンした瞬間、右端――座標セクターC-4――の空間が、わずかに歪んだ。
熱源による陽炎ではない。赤外線にもサーモグラフィにも温度変化は記録されていない。それでも、そのピクセルだけが不自然な明滅と屈折を繰り返している。
『TACTICAより報告。該当座標に視覚的歪みを検知。ただし熱源、電磁波、音紋センサーに異常なし。大気屈折によるノイズ、または観測誤差と判定。重要度はゼロです』
蒼の指はキーボードの上で止まっていた。識別欄は空白なのに、画面の歪みは消えない。朝の焼けた駆動部を思い出す。レオは恐怖だと言った。だが、いま見えているものとの関係は、まだ記録できなかった。
蒼はマイクを切り、システムが自動生成した「観測誤差」の文字列を削除した。手動入力に切り替え、硬質なキータッチの音を響かせる。
自分の手で、この現象にタグをつける。
『時刻0812。セクターC-4にて熱源を伴わない空間の歪みを観測。システムは誤差と判定するも、情報場高濃度化に伴う【未分類現象】として手動記録を適用。推移を厳重に監視する』
Enterを押し、データを中央アーカイブへ送る。ディスプレイの奥で揺らめく陽炎は、ゆっくりと、確実に密度を増していた。




