第1話「朝の浄化儀式」
午前六時。蒼を起こしたのは音ではなく、光だった。
天井のリズムライトが深い青から白へ変わっていく。蒼は瞼を持ち上げた。アウレリア連邦推奨の起床時刻。眠気が残っていても、光は戻らない。
ベッドサイドには銀色の円盤――個人用浄化装置PX-7が置かれている。側面のボタンに指を触れると、微小な針が皮膚を刺し、血液サンプルを採取した。痛みはほとんどない。
「認証完了。使用者:蒼、記録官三等。情報耐性レベルS」
機械的な女性の声。同時に装置が低い唸りを上げ、やがて一定の周波数に落ち着く。青白い光が円錐状に広がり、蒼の体を包む。温度はないが、皮膚の表面がわずかに痺れる。
三十分。それが前線基地で一日を始めるための最低条件だった。大断絶以前、人は顔を洗い、歯を磨けばよかった。今は情報的な清潔さの維持が、それに追加される。
『室内汚染レベル1.8。個人蓄積量0.3――夜間の夢による増加。推奨行動:通常業務可能』
1.8は前線基地としては悪くない数値だ。基地の防護設備が外部の汚染の大半を遮っている。それでも完全ではない。戦場の記憶は現実をすり抜け、夢に忍び込んでくる。
装置を止めると、部屋は本来の薄暗さに戻った。四畳半、必要最低限の家具だけの部屋。壁には唯一、笑顔の少女の写真が立てかけてある。妹のヒカリ、六歳下。情報汚染レベル0.9以下の「緑域」で暮らしている。赴任前、最後に家族で撮った一枚だ。
デスクの電子記録板を手に取ると、浄化装置と連動しているのか、端末は自動で起動した。
『記録官用端末RD-7743。最終同期:昨日23時45分。新着メッセージ1件』
蒼は同期状況を開いた。
端末が壊れても、送信済みの記録は残る。
『同期良好。最終バックアップ:本日3時00分。
次回:本日9時00分』
問題ない。予定表を開く。
朝食、記録室勤務、河境地域の警戒任務、データ整理、エリナ・ヴォロンスカヤ少佐への定期報告。今日もドローンの映像を見て、ヴォルガ軍の動きを記録する。
新着メッセージの差出人はヒカリだった。
『お兄ちゃん、お元気? こっちは相変わらず平和だよ。今日は学校で情報浄化の歴史を習った。大断絶前の人はこんなことしなくてよかったんだって。想像できないよね。 お母さんが浄化剤の小包を用意してるけど、軍の規則で送れないかもって言ってた。 とにかく、今日も安全にね。記録ばっかりしてないで、たまには休んで。』
添付には家族四人の落書き。父、母、ヒカリ、そして軍服ではなく普通の服を着た蒼が並んで笑っている。大断絶前の、平和な家族写真のように。
指先が震えた。画面の中の自分は、普通の服を着ている。蒼は胸元を見下ろした。これから着る軍服は、椅子の背に掛かっていた。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「俺が記録する。誰が、どこで、どう死んだのか。記録さえ残れば――」
言葉はそこで途切れた。
蒼は家族の落書きを閉じ、送信済みの記録が並ぶ画面へ戻した。
制服に着替え、左胸の紋章――巻かれたスクロールとペン――の皺を伸ばす。もう一度写真を見た。
「ヒカリ、今日も安全に過ごせ」
ドア横のパネルが外の汚染レベルを示している。
『廊下1.9。基地外部(推定)2.4』
取手はひんやりしていた。深呼吸を一つ。
記録官としての一日が始まる。




