宇宙の全質量と等価値になった君へ
静寂が、すべてを飲み込んでいた。
窓の外には「黒」すらない。光も、闇も、時間も、距離も。
そこにあるのは、記述されることを拒絶された完全なる「真の無」。
船体は、もはや形を保っていない。
天文学的回数の『なかったことにした事実』と『時空を超えた摩擦』に耐え抜いた外装はすべて剥げ落ち、今やシンとカタリナが座る数メートルの床板だけが、二人の「認識」という細い糸によって、かろうじてこの世に繋ぎ止められている。
「……ね、え」
カタリナの声は、ひび割れたガラスのように脆かった。
黄金だった髪は色を失い、全身の魔導回路は焼き切れ、彼女はシンの足元で力なく横たわっている。
「……なに、も、……ない、よ?」
シンは答えず、計器すら消え去った虚空を見つめていた。
その指先には、かつて地上のゴミ溜めで弾いた、あの「金貨」が握られている。
「勘違いするな、カタリナ。ここには最初から『無』すら存在しなかった」
シンは冷徹に、しかしその口角をわずかに上げて笑った。
「私がここへ来て、『ここは無である』と確定させるまではな」
シンは膝をつき、カタリナの震える手を握りしめた。
それは愛の告白などではない。
二人の「観測(視点)」を強制的に同期させ、現実の確定精度を極限まで引き上げるための、非情にして唯一の手段。
「いいか。この宇宙というシステムは、誰にも見られていない場所から、徐々に崩壊を起こしていた。末端の定義が曖昧になれば、中心もいずれ溶け出す」
シンの瞳が、カタリナの瞳を射抜く。
「……だから、私がここを『終点』だと定義し、ボルトを締めにきたんだ。お前という、世界で最も頑丈な『基準点』を連れてな」
シンは立ち上がり、金貨を「無」に向かって弾いた。
チリン――。
音のない世界で、確かにその音が響いた。
放り投げられた金貨が、虚空の真っ只中でピタリと止まる。
落下も、浮遊もせず。
ただ「そこに点が存在すること」を、シンの論理と、カタリナの視覚が、宇宙の摂理をねじ伏せて確定させたのだ。
刹那――弾けたように「無」の中に輪郭が生まれた。
金貨を起点として、凍りついていた因果律が爆発的に再起動を始める。
宇宙の果てが固定されたことで、逆流していたエントロピーが止まり、次元の綻びが縫い合わされていく。
遥か遠く、崩壊を待つだけだった故郷の星々に、初めて「明日」という名の概念が再構築される。
「ぁ……、あ……」
窓の外、暗黒だった虚無に、新しい認識の光が満ち溢れていく。
その光の中心で、たった一枚の金貨が、宇宙を繋ぎ止める「楔」となって、永遠に消えない輝きを放っていた。
カタリナが、シンの肩に頭を預けた。
かつて、市場価値ゼロと言われた聖騎士。
シンは、新しく生まれ変わった宇宙を満足げに眺め、傲慢に言い放った。
「お前は『宇宙の全質量と等価値』だ」
金貨1枚で買われた聖騎士と、世界を買い叩いた観測者。
床板に伸びる二つの歪な影は、どちらからともなく重なり合い、宇宙の端にたった一つの、不変の輪郭を描き出した。
――ガラクタの箱舟は、静かに、そして確かな足取りで、新しく定義された宇宙へと漕ぎ出した。
宇宙の先には、一体何があるのか。
その終わりのない問いへの、自分なりの一つの「解」を求めてこの物語を執筆しました。
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