国家艦隊を置き去りにする
鋼鉄の巨獣たちが、喘いでいた。
遥か上空、高度三万フィート。
大気の層が薄れ、空の色が赤紫からどす黒い虚無へと移り変わる境界線で、各国の威信を懸けて建造された『国家級宇宙船』の艦隊が、目に見えない底なし沼に足を取られたかのように停滞している。
『報告しろ! なぜ魔導エンジンの出力が上がらん!』
『だ、駄目です! 高度上昇に伴い、魔力の伝導率が数式上の予定値から15%以上乖離しています! 物理定数が……物理定数が、この空域だけ書き換わっているようです!』
金箔で彩られた豪華絢爛なブリッジで、エリート魔術師たちが血相を変えて叫んでいる。
彼らの計算は完璧だった。昨日までの、法則が安定していた世界ならば。
だが、崩壊を始めた宇宙にとって、人間が数千年にわたって積み上げた『定数』など、賞味期限の切れた古い地図に過ぎない。
彼らがマニュアル通りに魔力を注げば注ぐほど、バグを起こした空間は異常な摩擦熱を帯び、美しき船体を焼き切ろうと牙を剥く。
その停滞する巨獣たちの横を、一隻の『ガラクタ』が音もなく通り抜けた。
『……何だ、あれは。救命ポッドのなり損ないか?』
エリートたちの窓外を、信じられない速度で上昇していく物体があった。
それは宇宙船と呼ぶのも憚られる、無骨な金属の塊だった。
装甲板は規格の異なる廃材を無理やり溶接した継ぎ接ぎで、表面には防腐処理すらされていない。
剥き出しの魔導配線が血管のようにのたうち、姿勢制御用のスラスターは工事用の高圧噴射機を転用したかのような歪な形状をしている。
だが、その醜悪な外装は、複雑な演算に基づいた「干渉打ち消し」の幾何学模様を形成していた。
『おい、死ぬ気か……! あの速度でこの狂った空域に突っ込めば、分解されるぞ!』
エリートたちの嘲笑と戦慄を置き去りにし、その『箱舟』の内部――シンの操縦席は、濃密な静寂と、奇妙な生活感に包まれていた。
船内は、わずか十畳ほどのワンルームマンションをそのまま宇宙へ放り出したかのような空間だった。
前方には、二つのバケットシートが並んでいる。左側はシンが座る「指令官席」、右側はカタリナが拘束される「動力処理席」だ。
二人の手元には、地上のジャンクパーツを組み合わせたモニターが壁一面に埋め込まれ、絶え間なく世界を観測している。
その座席のすぐ後ろには、極小の居住スペースが広がっていた。
二段に積み上げられた寝台、錆びたシンク、そして壁の隙間に押し込まれた保存食のストック。
そのさらに奥からは、淡いエメラルド色の光が漏れている。魔力を用いた水耕栽培ユニットだ。
そこでは、宇宙での持続的な生存を支えるための藻類や野菜が、静かに酸素と栄養を生成している。
土の匂いとオゾンの臭いが混ざり合ったその空間は、冷徹な機械の中にある、たった一箇所の「生命のゆりかご」だった。
「……シン、身体が, 熱い……。魔力が逆流してる……」
動力席で、カタリナが呻いていた。
彼女の全身からは、黄金色の魔力が奔流となって溢れ出し、船体中に張り巡らされた粗末な伝導ケーブルを焼き焦がしている。
カタリナの肌を透過する魔力回路が、臨界点を超えたフィラメントのように白熱し、汗が蒸発して白い煙を上げていた。
「耐えろ。お前の魔力が逆流しているんじゃない。空間の側が、お前の出力を受け入れられずに拒絶反応を起こしているだけだ」
シンは平然と、流れるような手付きで端末を叩く。
彼の視界には、もはや空の色も、敵の船影も映っていない。そこにあるのは、刻一刻と変質し続ける物理定数の羅列だけだ。
「聖教会の船が止まった理由は単純だ。彼らは『魔力は一定の法則で流れる』という信仰を捨てられなかった。……だが、私は違う。流れる方向が変わったなら、パイプの向きをその都度、動的に書き換えればいい」
シンは手を伸ばし、カタリナの首筋に深く繋がれた魔導端子を、強引に数ミリ押し込んだ。
接続部から火花が散り、カタリナの身体が大きく跳ねる。
「あ……がっ……!」
「カタリナ、今からお前の右腕の魔力回路を、全開で『虚数』のベクトルへ振り切る。……剣を振るつもりで、ありったけの出力を叩き込め。狙うのは敵じゃない。この世界の『間違った物理法則』そのものだ」
シンの思考が、冷徹な論理の塊となってカタリナの意識へ流れ込む。
エリート魔術師なら一瞬で脳が焼き付いて発狂するような、混沌とした数式の嵐。
だが、絶望によって感性が摩耗しきった彼女にとって、その冷酷な論理だけが、崩壊する世界の中で唯一の、確かな『命綱』だった。
「――っ、やってやるわよ、この、狂人……!」
カタリナが叫び、その魔力が一点に収束する。
かつて魔王を討つために磨き上げられた、純粋な破壊の意志。それが今、シンのロジックというレンズを通り、宇宙船の推進力へと変換された。
――爆発。
物理的な燃焼ではない。船体前方の「空間」が、彼女の魔力によって強制的に上書きされ、紙を裂くように押し退けられたのだ。
瞬間、ガラクタの箱舟は「落下」した。
上へ向かって、自由落下を超える異常な加速で。
『なっ……加速した!? あの速度で安定を保っているだと!?』
背後でみるみるうちに豆粒のように小さくなっていく国家級の船。
エリートたちが積み上げた数千億円の予算と、数万人の英知を、金貨1枚で買われた聖騎士の「生体出力」が、嘲笑うかのように抜き去っていく。
「シン……高度、十万を突破……。空が、黒くなっていくわ……」
カタリナが、限界を超えた負荷に意識を朦朧とさせながら、覗き窓の外を見つめた。
濁った赤紫色の空が消え、その先にある真の虚無――深宇宙の黒が、顔を覗かせる。
船内では、水耕栽培の植物たちが加速度に揺れ、土の香りが強く立ち込めていた。
「ああ。ここまではただの『助走』だ」
シンは、焦げ臭い煙を上げる端末を無造作に床へ放り投げ、新しい予備の端末を起動した。
その瞳は、もはや地上にも、追い抜いた敗北者たちにも向けられていない。
「重力という、古臭い束縛はこれで終わりだ。……さて、カタリナ。ここから先は『確率』すらも我々の敵になるぞ。……休む暇はない。宇宙の果てを確定させるまで、お前は私の『不滅のエンジン』でいてもらわなくてはな」
大気圏を突破し、慣性が死んだ無重力の世界へ。
狭いワンルームに濃縮された、二人の、そして世界で最も「合理的」な脱出劇は、今、本番の宇宙へと突入した。




