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金貨1枚の聖騎士

空は、腐った内臓のような赤紫色に濁り、絶えず粘ついた湿り気を帯びていた。


世界の終焉――「大崩壊(エントロピーの増大)」が始まってから、この色彩は逃れようのない日常となった。


物理法則は日に日に、砂の城が崩れるように綻び、昨日の定数は今日の変数へと成り下がる。


数秒前までそこにあった重力が突如として仕事を放棄し、重厚な石畳が羽毛のように空へ舞い上がり、次の瞬間には加速した凶器となって地上へ降り注ぐ。


大衆はその異常に驚くことすらとうに止め、ただ無気力に、世界が自分を消去し忘れるのを待つだけの肉塊と化していた。


「あーあ、また一隻、お偉いさんたちの『箱舟』が行っちまったな」


冒険者ギルドの、今にも腐り落ちそうな軒先で、男が力なく吐き捨てた。


遥か上空、成層圏の向こう側へと消えていく白銀の尾。

各国の王族、富豪、そして選りすぐりのエリート魔術師たちを乗せ、天文学的な予算を投じて建造された『国家級宇宙船』だ。


彼らは崩壊する地上を、掃き溜めを見るような無関心さで見捨て、まだ「物理法則が死に絶えていない」かもしれない新天地を目指して逃げ出したのだ。


残されたのは、逃げる金も、宇宙で役に立つ「需要」もない群衆だけ。


そして、その掃き溜めのような酒場の隅、湿気にまみれて、彼女は転がっていた。


埃と安酒の酸っぱい臭いにまみれ、壁に背を預けて座り込む一人の女。


かつては『黄金の救世主』と謳われ、その一振りで地平線を埋め尽くす魔王の軍勢を焼き払った聖騎士カタリナ。


だが、今の彼女にその面影はない。美しいはずの黄金の髪は艶を失って泥を噛み、ボロ布のような服の下からは、過負荷で焼き切れた魔力回路が、皮膚を透過して醜い紫色の痣のように浮き出ている。


腰にぶら下がっているのは、もはや聖なる輝きを失い、錆びと欠けに埋もれたただの鉄屑だ。


「……何よ、あんた。施しなら他を当たりなさい」


泥にまみれた虚ろな瞳が、目の前に立った男を射抜いた。


男の名はシン。この、すべてが秩序を失った終末世界には不釣り合いなほど、その姿は幾何学的なまでに整っていた。


汚れ一つないシャツの襟元、一切の迷いなく切り揃えられた髪。

彼は、この混沌とした世界の中に一人だけ、正しい数式で切り取られた「空白」のように立っていた。


「鑑定に来た。お前の価値をな」


シンは、手元にある黒い魔導端末のレンズ越しにカタリナを見下ろした。


端末のディスプレイには、彼女の肉体を構成する情報の奔流――筋肉の収縮率、魔力の伝導性、そして精神の摩耗度が、無機質な波形となって表示されていく。


「価値なんて、ないわよ。……魔王を倒したって、空の色は戻らなかった。私は世界を救えなかった欠陥品よ。

エリートの魔術師たちはみんな、計算機を抱えて宇宙へ行ったわ。

私みたいな、ただ破壊の出力だけに特化した個体に、もう居場所なんてないの」


自嘲気味に笑うカタリナの唇は乾燥し、ひび割れた先から血が滲んでいる。


それは残酷な事実だった。

今の市場において『聖騎士』という職業は、維持コストばかりが高い旧時代の遺物と同義だった。


崩壊しつつある物理法則の前では、剣による暴力など計算の誤差に過ぎない。

各国が死に物狂いで奪い合っているのは、船を1秒でも長く浮かせるためのエンジニアや、資源を生成できる高位魔術師。


食うだけで何も生み出さない「かつての英雄」に割く食料も、酸素も、この絶望的な世界には存在しないのだ。


「ああ、その通りだ。お前は今、この地上で最も『需要と供給』のバランスが崩れた不良在庫だよ、カタリナ」


シンは、感情の起伏を一切排した声で言い放った。


「維持コストは、一般市民の数十倍。そのうえ、提供できる成果は古い神話の模倣に過ぎない。

お前の市場価値は、今この瞬間、限りなくゼロに近い」


「……分かってるわよ。だから、放っておいてって言ってるでしょ」


「だが、それはあくまで『この世界という腐った市場』での評価だ」


シンは、懐からたった一枚の硬貨を取り出した。

周囲の濁った赤紫色を弾き返すような、冷たい輝きを放つ古びた金貨。


「金貨1枚。それが、今の私が出せるお前の全額査定だ」


カタリナは呆れたように、喉の奥で乾いた笑い声を上げた。


「……一ヶ月は食い繋げる金額ね。私の人生すべてを買い叩く値段としては、最高に人をバカにしてるわ」


「いや、違う。これは『購入代金』ではなく、『資産の組み換え費用』だ」


シンは金貨を空中に弾いた。


放り投げられた金貨が、重力のバグによって、不自然なほどゆっくりと……まるで空気中の粘性を楽しむように、優雅に回転しながら落ちてくる。


「金貨1枚で、お前の人生という名の『残存稼働時間』をすべて買い取る。

……お前は救世主としては無能だが、私の『エンジン』としては、世界で唯一の、代えの利かない最高級パーツだ」


シンの瞳の奥に、論理と狂気が結晶化したような異様な光が宿る。


カタリナはその視線に、かつて魔王と対峙した時以上のプレッシャーを感じて身を竦めた。


それは捕食者の視線ではない。

職人が、最適な工具を選定する際の、冷酷なまでの信頼だ。


「いいか。お前のその膨大な魔力出力は、剣を光らせるためではなく、因果律の壁をぶち抜くためにある。

……私と一緒に来い。お前の価値をゼロだと言い捨てたこの世界を、金貨1枚分で買い叩いて、宇宙の果てを定義しに行くぞ」


カタリナは、呆然と目の前の男を見つめた。


狂っている。だが、国家のエリートたちが絶望の叫びを上げて逃げ出したこの世界で、この男だけは、まるで複雑なパズルを解くように、終わる世界を「利用」しようとしていた。


「……もし、断ったら?」


「お前はここで、誰にも観測されることなく、物理法則の塵になって消えるだけだ。

……だが、私に買われるなら、お前は『宇宙の全質量と等価値』になれる」


ゆっくりと落ちてきた金貨を、シンが掌で音もなく受け止める。

彼はそれを、祈りを知らぬ支配者のように、カタリナの目の前に差し出した。


「契約か、破棄か。選べ。……私の時間は、お前が思っているよりずっと高いんだ」


カタリナは、その金貨を見つめた。


もはや守るべき世界も、称えてくれる民衆も、信じるべき神もいない。

ただ、この傲慢な男の瞳の中にだけ、自分という「モノ」がまだ壊れずに動くことを期待されている。


その冷酷な実利が、彼女には救いのように思えた。


「……好きに、しなさいよ。どうせ、もう死んだも同然の命なんだから」


カタリナが泥に汚れた指で金貨を受け取った瞬間、シンの口角が鋭く、残酷に吊り上がった。


「契約成立だ。……ようこそ、マイ・エンジン。さあ、まずはこの腐った重力圏を、ロジカルに脱出するとしようか」


こうして、世界で最も安く、そして最も巨大な旅が始まった。


金貨1枚で買い叩かれた聖騎士と、世界を支配しようとする男。


二人の乗った、今にも分解しそうなボロ船が、神に見捨てられた空を切り裂き、宇宙の深淵へとその産声を上げた。


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