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婚約直前で逃げたお兄様より弟さんが好きになりました。

作者: すじお

ミラー家の令嬢、ベアトリス・ミラーは、婚約式の前夜をひとりで迎えていた。


 相手は軍人として名を馳せる伯爵家の嫡男、エミール・ヴァンデル。

 幼い頃から両家の約束で決められていた婚約で、恋というよりは義務の色合いが強かった。

 けれど、彼が家を継ぐ真面目な人物であることは誰もが認めていたし、ベアトリスもその堅実さを頼もしく思っていた。


 ――少なくとも、昨日までは。


 「婚約は破棄する」


 式の直前、彼はそう言い残して忽然と姿を消した。

 ベアトリスは愕然とした。父や兄弟の怒り、母の涙を前に、彼女はただ耐えるしかなかった。

 心の奥にかすかにあった「愛されていないのではないか」という不安が、最悪の形で裏付けられてしまったのだから。

 ――しかし、ヴァンデル家から完全に縁が切れたわけではなかった。


「……ベアトリス様」


 廊下の陰で声をかけてきたのは、エミールの弟、ラファエル・ヴァンデルだった。

 まだ騎士見習いで、兄のような威圧感はない。けれど真剣なまなざしは、かえって胸を打った。


 「兄のことは……本当に、申し訳ありません」


 彼は深々と頭を下げた。


 「ラファエル様のせいではありません」


 そう返すのが精一杯だった。だが、彼の瞳には隠せない痛みが映っていて、ベアトリスの心を揺さぶった。

 その後も、彼はことあるごとにベアトリスを気遣った。庭で一人泣いていると、何も言わずそばにいてくれる。お茶会で周囲から好奇の目を向けられると、さりげなく隣に立って守ってくれる。

 ――不思議だった。

 本来なら憎むべき相手の家の人なのに。

 それなのに彼の存在だけは、心を温めてくれる。


ある日、ベアトリスは勇気を出して尋ねた。


 「ラファエル様……どうして、そんなに優しくしてくださるのですか?」


 彼は一瞬言葉を詰まらせ、それから顔を赤らめた。


 「……ずっと前から、僕はあなたを見ていました」


 胸が高鳴る。

 兄ではなく、弟が――私を見ていた?


 「兄に婚約者がいると分かっていても、気持ちを抑えることはできませんでした。だから、今も……こうしてしまう」


 気づけば、彼の手がベアトリスの手をそっと包み込んでいた。

 その温もりに、涙があふれそうになる。裏切ったのは兄だった。けれど――支えてくれるのは弟。


 「……ラファエル様」


 声が震えた。

 けれど、彼に向けた想いはもう、否定できないものになっていた。


 エミールに逃げられたことは、瞬く間に社交界の噂になった。


 「婚約者に捨てられた哀れな令嬢」――陰口は広がり、ベアトリスの耳にもいやでも届いた。

 ついには体を壊し、寝台から起き上がれなくなってしまう。

 重たいまぶたの向こうで、使用人が誰かを案内する声がした。


 「……ベアトリス様」


 低く落ち着いた声が、耳に届く。

 ラファエルだった。

 彼は寝台のそばに椅子を引き寄せ、ベアトリスの顔をのぞき込む。その瞳には、痛ましさと優しさが入り混じっていた。


 「無理をしてはいけません」

 彼はそっと布団の端を持ち上げ、肩口まで丁寧にかけ直す。その仕草は驚くほど穏やかで、彼が騎士の訓練を積む青年であることを忘れてしまいそうだった。


 「皆、心ないことを言います。でも……僕だけは違います。あなたを笑う者がいても、僕は絶対に味方でいます」


 熱を帯びた頬に、布のやさしい感触が重なる。

 涙がこぼれそうになるのを、ベアトリスは必死にこらえた。


 「……どうして、そこまで」


 震える声で問えば、ラファエルは少し俯き、言葉を探すように沈黙した。

 やがて彼は、はっきりと答えた。


 「僕は……ベアトリス様に生きていてほしいのです。笑っていてほしい。そのために僕は、どんな剣も振るうし、どんな噂からも守ります」


 心臓が、熱にうなされているせいではなく早鐘を打った。

 彼の言葉は決して華やかではない。けれど、誠実さと温もりに満ちていて、胸の奥に静かに沁みこんでいく。

 ベアトリスは、弱った声で囁いた。


 「……ありがとう、ラファエル様」


 その夜、彼の気配に包まれて眠りについた夢は、不思議とやさしいものだった。



 ベアトリスが病から回復してからしばらく、彼女とラファエルは自然と共に過ごす時間を増やしていった。

 だが、社交界に広まった噂は消えない。


 「婚約者に逃げられた令嬢」

 「よりにもよって、その弟にすがるなんて」


 そうした声は、ラファエルの家――ヴァンデル家の中でも囁かれていた。

 ある夜、ベアトリスはラファエルと共に、ヴァンデル家の屋敷に呼ばれた。

 広間に並ぶ親族の視線は冷ややかだった。


 「エミールを裏切り者にした張本人が、よくもここに顔を出せたものだ」

 「家の名誉を傷つけられたのに、まだ関わろうというのか」


 言葉の一つ一つが、刃のように突き刺さる。

 ベアトリスは唇を噛みしめ、背筋を正した。泣きたくなるほど悔しかったが、ここで引けばすべて終わってしまう。


 そんな中、ラファエルが一歩前に進んだ。


 「どうか誤解なさらないでいただきたい。兄が式から逃げ出したのは、ベアトリス様のせいではありません。彼女は被害者なのです」


 「ラファエル!」



 誰かが叱責するように声を上げる。

 だが彼は怯まなかった。


 「僕はこの方を守りたい。笑われても、蔑まれても構いません。剣を学び続け、必ず一人前の騎士になり、家を背負う覚悟を持ちます。その上で……彼女を、僕の婚約者として迎えたいのです!」


 堂々とした宣言に、広間はざわめいた。

 冷たい視線が交錯する中、ただ一人、ベアトリスはその背中を見つめた。

 ――彼は本当に、私のためにここまで言ってくれる。

 胸の奥が熱くなり、気づけば涙が頬を伝っていた。

 しばしの沈黙の後、ヴァンデル家の当主――二人の父が口を開いた。


 「愚か者だ。だが……誠実さは、武門の家にとって何よりの宝だ」


 低く響く声に、広間のざわめきが鎮まる。


 「いいだろう。お前が真に家を支える力をつけた時、その婚約を認めよう」


 その瞬間、ベアトリスの胸に大きな安堵が広がった。完全に受け入れられたわけではない。だが、未来へ進むための道が開かれたのだ。

 屋敷を後にする帰り道、ラファエルは彼女の手を取った。


 「……必ず、あなたを幸せにします。たとえどれほどの反対があろうと」


 その手は強く、温かかった。

 ベアトリスは静かに微笑み、彼に応える。


 「私も……あなたと共に歩みます」


 こうして二人は、逆風の中で正式に結ばれる決意を固めたのだった。


 季節は巡り、ラファエルは正式に騎士の任を与えられた。

 幾度もの戦場を経て、若き騎士の名は着実に広まり、彼を軽んじていた人々の目も変わっていった。

 そして今日――。

 ヴァンデル家の大広間は、豪奢な花々と光で飾られていた。

 かつて婚約を破棄された令嬢として冷たい視線を浴びたベアトリスが、再びこの場に立つ。

 今度は彼女を嘲る者はいなかった。

 純白のドレスに身を包み、緊張に震えるベアトリスの手を、ラファエルがそっと握る。

 騎士の礼装に身を固めた彼の横顔は、少年の頃のあどけなさを残しつつも、もう立派な大人の男のものだった。


 「……泣いているのですか?」


 彼が小声で囁く。


 「うれしくて……」


 堪えていた涙が、ついに頬を伝った。

 かつて浴びせられた中傷や嘲笑、そのすべてが、この瞬間に報われるように思えたのだ。

 人々の前で、ラファエルは声高らかに誓う。

 「ベアトリス・ミラー。僕はあなたを生涯の伴侶とし、剣にかけてお守りします」

 その言葉に、場内から大きな拍手と歓声がわき起こる。

 かつて彼らを反対した親族でさえ、今は誠実な若き騎士を認めざるを得なかった。

 ベアトリスは震える声で応える。

 「私も……ラファエル様と共に歩みます。どのような未来が待っていようとも」

 そのとき、二人の視線が重なった。

 互いに微笑み合い、かつての苦しみを乗り越えたことを確かめ合う。

 盛大な鐘の音が広間に響き渡る。

 それは、二人の新たな人生の始まりを告げる音だった。

 ――逃げた兄の影に怯える日々はもう終わり。

 今ここに、彼と彼女の真実の愛が誕生したのである。


 結婚式から数か月。

 ヴァンデル家の離れにある新居では、やわらかな陽が窓から差し込み、心地よい午後の時間が流れていた。

 ベアトリスは庭に咲いた花々を抱え、小さな花瓶に生けていた。

 その後ろから近づいてきたラファエルが、そっと彼女の肩に手を置く。


 「今日もきれいですね」

 「お花のことですか?」


 振り返って笑えば、彼は少し照れたように首を横に振った。


 「……あなたのことです」


 突然の直球に、ベアトリスは思わず顔を赤らめる。

 結婚してからも、ラファエルは変わらず誠実で、そして少し不器用に愛情を伝えてくれる。

 その真っ直ぐさに、幾度となく救われてきた。


 「以前の私は、笑うことさえできませんでした。でも、今は違います」


 ベアトリスは胸に手をあてて、静かに言った。


 「ラファエル様がいてくださるから……私は、ようやく本当の自分でいられるのです」


 彼はその言葉に目を細め、優しく彼女を抱きしめる。

 「これからも、ずっと。どんなことがあっても、僕はあなたの隣にいます」


 ベアトリスは彼の胸に顔を埋め、幸せを噛みしめる。

 ――あの日、兄に逃げられた苦しみも、冷たい視線にさらされた日々も。

 すべては、この人と出会い、結ばれるための道だったのだと思えた。

 窓の外では、新緑の木々が風に揺れている。

 それは、未来へと続く希望の証のようにきらめいていた。

 こうして二人は、過去を超え、真実の愛を紡いでいった。

 ――幸福な物語の続きを、自らの手で描きながら。




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