2-4 三日目 揺れる運命の馬車
三連休で、読んでくださる方も多い気がします。
ページビューの数がすごいことに……! ありがとうございます。
三日目。馬車は、果樹園が広がる一帯に差し掛かった。枝に丸い花芽が出始めたところで、花が咲くのはもう少し先のようだ。
お互いに慣れてきて、馬車の中は打ち解けた雰囲気になっている。
ジークムントも、かなり気安い口調に変わっていた。
「私が帝国に戻ったら、まず、『頭のおかしな皇子』ではなく、精霊が見えていただけだと周知しようと思うんだ」
そんな評判があったなら……立太子されないのも、納得である。
「そうすると、姉を担ぎたい派閥との争いが始まる。
私の婚約者になったら危険な目に遭うかもしれないが、これはこちらのアルビアンス王国でも変わらないんじゃないかな?
その条件が同じなら、あの国王の下にいて、あの王太子と人生を共にするよりは、よっぽどマシだと思う」
物騒なことを言ってから、「どう?」と誘うように上目遣いをしてきた。
コーデリアは少し眉をひそめた。言いたいことはわかるが……消去法で人生を決めたくはない。
「イスカリーヌ国に行く予定だと聞いたけど……現状を考えると、賛成しかねる。
自分たちが動いていないのに、王国から突然独立できたわけだ。それ自体は歓迎するとしても、どんな思惑があるのかと疑心暗鬼になる人も、きっといる。
君たちは遠い血縁関係だから今まで気にかけて動いていたけれど、それが逆にイスカリーヌの政権を狙っていると疑いを招くかもしれない」
ジークムントは持論を展開する。
「揉めごとの火種があるわけだから、安全とは思えないだろう。
……つまり、君たちは帝国に来る方がいいんじゃないかな。強くお勧めするよ!」
コーデリアは、ほんの少し首を傾け、唇の端を上げる。
「なんだか、商人に品物を紹介されている気分だわ」
するとジークムントはニヤリと笑った。
「そう! 私を売り込んでいるんですよ? お買い上げになりませんか」
その台詞の直後、彼はふいに視線を窓の外に逸らした。耳のあたりが、ほんのり赤い。
おどけた言い方に、コーデリアがくすくす笑い出した。
クラリッサの目には、二人のかけあいが楽しそうに映った。
若い頃は、お茶会でこういう不器用なやり取りをよく目にした気がする。
夜会での華やかな駆け引きや艶めかしい囁きではなく――さりとて、感情をまっすぐ伝えられるわけでもない。
遠回しで、不器用な――そんな初々しい振る舞い。
コーデリアは、これまで貴族の令嬢の勤めだと、政略に基づく婚約を心ならずも受け入れていた。そして、その束縛から解放されたばかり。
女の子らしく恋に胸を高鳴らせたいと思っているようだ。
それを叶えてやれば話は早いのに、この皇子ときたら、まるで商談のような口ぶり……朴念仁というのかしら。
じれったく感じるが、その若さが微笑ましくもあった。
ふふっと、クラリッサが小さく笑った。
「……お買い上げ、考えてみてもいいかもしれませんわね。ただし、お試し期間は必要だと思いませんか?」
ジークムントが驚いたように瞬きをする。
クラリッサはそれを見て、これはからかい甲斐があると微笑ましくなった。
うららかな陽ざしの中、昼食の時に引き馬を替えたので、馬車はかなりの早さで進んでいた。
川にかかる橋に差しかかった、その瞬間――前方に何かが飛び出した。
御者が手綱を引き、後輪用のブレーキをかけ、けたたましい摩擦音がはぜた。
馬車の後方に座っていたコーデリアはジークムントにぶつかる前に抱き留められたが、クラリッサは侍女と衝突してしまう。
「構えろ!」
ジークムントの護衛が鋭く叫ぶのが聞こえた。金属がぶつかる音、馬のいななき、何かを切り裂く音やうめき声が混然一体となって混乱を引き起こす。
岩陰や小さな家屋の影から、次々と後続の敵が飛び出してきているようだ。
ジークムントはふらつく女性たちを立たせ、座面を持ち上げた。
「ここに隠れられる。急いで!」
命じられるまま、コーデリアとクラリッサは、それぞれ暗い空間に身を滑り込ませる。
残った侍女を見て、ジークムントは短く息を吐く。
「……すまないが、隠れる場所はない」
侍女は覚悟を決めて、うなずいた。
床に転がっているピクニックセットを侍女の手に押し付けた。
「扉を開けられたら、この中身を敵に投げて、ひるませろ」
「こ、こんな高級品、投げられません!」
「お前が死んだら、次はお二方だぞ!」
低く鋭い声に、侍女は息をのむ。震える手でカップやソーサーを握りしめ、うなずいた。
ジークムントは口元だけで笑う。
「慣れないナイフを振り回すより効果があるぞ。
敵が中に入り込んだら――この書類を床にばらまいていい。足を取られて時間が稼げる」
そして扉の取っ手に手をかけると、最後に短く告げた。
「俺が出たら、すぐに内鍵をかけろ」
言われたとおりに鍵をかけ、体を低くして外から見られないようにする。
ぶつかり合う激しい音も怒号も、もはや聞き取れない音の塊として恐怖をかき立てた。
窮屈な空間で、埃が鼻腔を刺激する。
身じろぎも出来ず、緊張で息が浅くなる。
卒業パーティーで、冴えない格好の自分に手を差し伸べてくれたジークフリートの姿が脳裏に浮かんだ。
あの時、手袋越しに伝わった温もりが、どれほど心強かったことか。
その温もりを失いたくない――そう願い、コーデリアは川の精霊に呼びかけた。どうか、彼らを守って。
橋の下の川が応えてくれたような、手応えがあった。
だが、ホッとする間もなく、馬車が大きく揺れた。
間近で「おらあぁぁ!」という怒鳴り声が響き、続いてドシュッと嫌な音。断末魔の叫びが耳を打つ。
やがて剣戟が止み、張りつめていた空気がゆっくり緩んでいくように感じた。
馬車の中でカタンと蓋が外れる音がし、その直後、ぱさりと布がこすれる気配――母が先に隠れ場所から出たのだろう。
次に、コーデリアの頭上の板が外され、一気に光が差し込んだ。
狭い空間から這い出ると、すぐに侍女がささっと髪の乱れを整えてくれる。
彼女の震える手を握り、コーデリアは感謝した。
馬車の扉がノックされ、鍵を開けると、少し乱れた様子のジークムントが入ってきた。
彼の顔には安堵の色が浮かんでいて、コーデリアは胸が熱くなった。
ジークムントは二人の無事を確かめると、次に震える侍女の方に優しく目を向けた。
「恐怖に負けず、しっかりと役目を果たしてくれた。素晴らしい侍女だ」
その言葉に、侍女の表情が少し和らぎ、クラリッサは誇らしげにうなずいた。
「先ほど、敵の足元が急にぬかるんだようなのだが……」
ジークムントが不思議そうに言うと、コーデリアが微笑んで答えた。
「精霊様にお願いをしましたの」
ジークムントはしばらく考え込んだあと、ゆっくりと頷いて「そうですか」と言った。
そのあと、侍従が濡れたリネンを三人分手に持ってきた。
女性たちは顔や手を拭いながら、馬車の中で待つように促され、静かに座り直す。
一方、護衛たちは近くの集落へ連絡を取り、倒れた敵の遺体の処理を任せることにした。
そうしてジークムントの馬車は、再び動き出す。
「すみません、襲撃者は帝国の者でした。帰国のルートを変えたのがバレたようです。
そういえば、私自身も襲撃者が来る立場でした。
この国にいる間は大丈夫かと思っていたのですが……」
ジークムントは肩をすくめて、おどけるように続けた。
「まあ、俺といることでこのように襲われることもあるけれど、常に警戒しているから備えは万全とも言えるんです。手慣れたものだったでしょう?」
その言葉に呆れて、なぜだかクスリと笑ってしまった。
ダンブリッジ家は頭脳で活躍してきた家系だ。正直、荒事に対してここまでの備えはない。
「この手腕は、今の我が家に必要だわ」と、コーデリアは心の中で呟く。
それに、この機能を持った馬車を帝国で購入できるのなら、王都で活動する父たちにもぜひ使ってもらいたい。
「座席の下に隠れる場所があるなんてすごいですわぁ。
隠れたまま領地まで行ってみようかしら。秘密基地みたいで、お兄様たちに自慢できそうよ」
「いや、先ほどは馬車が止まっていたからよかったけれど……走っていると衝撃がすごくて、普通は無理だ。痣だらけになるよ」
「体験談ですか?」
「……黙秘する」
クラリッサは、なんとも色気のない会話だと思いながら、聞いていた。
たとえば「大丈夫か」と優しく囁くだけで、今のコーデリアなら簡単に心が揺れてしまいそうなのに。
先ほどの頼もしい姿の余韻を残したまま口説いたりせず、おどけて見せたりして――どこか残念な殿方ですこと。
でも、どこか憎めない魅力がある……とも思うのだった。
予定より遅くなったが、日が暮れる前にダンブリッジ公爵領に入ることができた。
領内の馴染みの宿で、ようやく一息つく。
郷土料理の、肉や野菜がぎっしり詰まったパイを口にした瞬間、コーデリアの目から涙がこぼれた。
明日にはカントリーハウスで、料理長が同じパイを焼いて待っていてくれるだろう。
――無事に帰ってこられた! それは、安堵の涙だった。
そんな彼女の涙を、ジークムントは不器用にハンカチでそっと拭ってくれた。
これで、馬車の旅は一段落かな。
そろそろイスカリーヌ国の話をしましょうかねぇ。
また登場人物が増える……申し訳ない。