風が止んだ日
いつも、誰かの言葉を聞いてからじゃないと動けない少年がいた。名前は湊。
「それ、やっていいのかな」
「間違ってないかな」
「誰かがOKって言ったらやる」
学校でも、家でも、湊はいつも“正しそうな人”の顔をうかがっていた。答えを持っていそうな人の影に隠れて、生きていた。
ある日、美術の時間に、先生が言った。
「今日は自由に絵を描いてください。テーマは“自分”です」
クラスの誰もが筆を走らせる中、湊は動けなかった。
“自分って、なんだ?”
色を塗ろうとすると、頭の中で声がした。
(青は寒そうじゃない?)
(変な絵って思われるよ)
(もっとちゃんと描いたほうがいい)
湊は筆を置いた。白紙のまま時間が過ぎた。
放課後、帰り道の公園で、ふと風が止んだ。
葉っぱが一枚、彼の足元に落ちた。小さくて、まるくて、虫に食べられてギザギザになっていた。
でも、きれいだった。
“これ、好きかも”と思った。誰かに聞かなくても、そう感じた。
その瞬間、自分の中の小さな「好き」が芽吹いた。
湊は葉っぱを拾って、ポケットに入れた。
翌朝、誰に言われるでもなく、彼はその葉っぱを画用紙に貼った。周りに小さな木や風、鳥の絵を描いた。決してうまくはなかったけれど、胸が少しあたたかかった。
後日、先生がその絵を見て言った。
「湊くんらしい、素敵な絵だね」
不思議だった。誰にも聞かずに描いたのに、“自分らしい”と言われた。
その日から、湊は少しずつ、自分の「好き」や「やりたい」に耳を傾けるようになった。
誰かの正解の中に閉じこもるのではなく、自分の中の小さな声を、大切にするようになった。
風が止んだ日、湊は初めて、風のない静けさの中で、自分の足で一歩を踏み出したのだった。