【2-9】ご挨拶
すっかりお馴染みになりつつある店内に、私とワッタは足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」
私たちを担当してくれる給仕係は、長髪を奇麗にまとめた細身の男性——ポトモだ。制服の美しい着こなし、普段の荒っぽい性格からはかけ離れたしなやかな所作に、思わずドキッとしてしまう。
「ノカ、昨夜はすまなかったな」
私が座る椅子を引いてくれながら、ポトモがそう呟く。
「全然気にしてません。私の方こそ取り乱してしまって……」
「いよいよ作戦開始だ。着実にいこう」
耳元に聞こえるポトモの声は、いつもよりも優しい——ようにも感じた。
向かい側に座るワッタには、私たちの会話は聞こえていないようだ。完全に“夫モード”に入っているのか、どっしりと腰を下ろしてメニューを眺めている。
「では、こちらのケーキを2ついただこうか」
ワッタは非日常を楽しむように、いつもより少し低い声で注文を言い渡した。
「(チッ)……かしこまりました」
まぁ、小さく舌打ちが聞こえたような気もしたけど……ポトモの方もなんとか堪えて、任務に徹してくれているようだ。失礼しました、と小さく言うと、調理場の方へ消えて行った。
「ノカ、なんだか楽しいですね……!」
私だけに聞こえるように言いながら、ワッタは付け髭の下でクスクスと笑う。この人、真面目に見えて、意外とこういう無邪気なところもあるんだよな。
***
しばらくして運ばれてきたのは、例の疑惑があるケーキだった。
ぽってりした形と、鼻から抜ける優しい甘み——仮に偽装があったとしても、十分くらい美味しいと感じた。やっぱり私、なかなかのバカ舌かもしれない。
「君、すこしいいかね?」
食後、役がすっかり板についてきたワッタがポトモを呼んでこう告げた。
「実に美味しいケーキだったよ。ぜひ、責任者の方に挨拶がしたくてね。申し訳ないが、こちらへ呼んできていただけないかな?」
「ええ。かしこまりました」
いよいよ勝負の時だ。
私たち2人はできるだけヤマニさんと料理長を引き留めて、その間にダークリに卵を調べてもらう……という流れになっていた。緊張で、手のひらに汗がにじんでいた。
***
「失礼いたします、オーナー代理のヤマニと申します。こちらは、わたくしどもの料理長です」
「これはこれは。実に素晴らしいケーキでした!」
少し待っていると、ヤマニさんと料理長が席の方までやって来てくれた。
私たちは席を立ち、握手を交わしながらケーキへの賛辞を述べる。ヤマニさんは、感激して今にも泣き出しそうな表情になっていた。
「いやぁ、お褒めいただき光栄です。失礼ですが、お名前を伺っても……?」
(やっば……!)
ひとりきり挨拶を終えたあと、ヤマニさんが放った質問に、私たち2人の表情は一瞬凍り付いてしまった。
それなりに変装には力を入れたものの、肝心の名前を考えておくのを忘れていたのだ。
「あっ、ああ……私はワタ……ベルクと申しまして、こちらは妻のノカ……ノカリーヌです」
(即興のウソ、下手すぎだろ!!!)
……なんて突っ込むこともできないから、私も「よろしく……」とワッタに乗っかるしかなかった。
「ほぅ……珍しいお名前ですな?」
ヤマニさんと料理長は、訝しげな表情で私たちの顔を覗き込む。
「では、私は仕事が残っているので……これで」
料理長が、会話を切り上げて調理場へ戻ろうとしていた。にこやかな表情を保ってはいるが、目の奥は笑っていないのがわかった。不必要に会話を長引かされて、いい加減イライラしているのだろう。
(ダークリ、はやくっ……!)
ちらり、と調理場の方に目をやる。調査が済めば、ダークリがこちらに合図を送ってくれるはずなんだけど……思ったより時間がかかっているのだろうか?
***
「これはマズいな……」
ダークリは、倉庫へ続く扉の前で焦っていた。
ヤマニと料理長が呼び出され、その隙に倉庫の前までたどり着いた——ところまでは、完璧だった。しかしそこには、予想外の事態が待ち受けていた。
倉庫の扉に、昨日まではなかったはずの“鍵”が取り付けられていたのだ。
「まさか、俺らの動きをオーナーに勘づかれたのか……?」
力づくで鍵を壊すわけにはいかない。かといって、他に策があるわけでもなかった。
ヤマニたちを引き留めておくにも限界があるだろうし、こんなチャンスはめったにないだろう。
今から鍵を探すか……? いや、それはあまりに無謀すぎる……。
「……こんなところで何をしている?」
全力で思考を巡らせるダークリは、背後から近づく足音に気付くことができなかった。
名前を呼ばれ、恐る恐る振り返る——
そこに立っていたのは、予想もしない人物だった。