聖女の姉は滞在する
なれない柔らかな布団で目が覚める。
王宮の側仕え用の部屋に運ばれた寝具よりもひときわ柔らかい布団は、うつぶせに寝ると窒息しそうだ。体には硬い布団のほうがあっている身としては、ここまで柔らかい布団で寝るくらいなら土足で上がる部屋様式でさえなければ床で寝たいくらいだった。
体を起こし、ぼさぼさになっている紙を手櫛で整える。シャンプーも少し合わなかったようだが、油で手入れすれば何とかなるくらいのレベルだろう。
クリス様の私邸のなかで、自由に使っていいと言われたこの客間にあるベッドは、王宮でのアリスのベッドよりも広く、誰かと二人で寝たとしても十分な広さだろう。
この別邸にきて3日すでに経った。
帰りをできるだけ引き延ばすといっても流石に当日帰るつもりだったのだが、もう客間を使う準備は済んでるからお客さんとして休みなよと言われ、初日は半ば強引に部屋に押し込まれたのだ。
「許可もないのに、とって食べたりしないから。」
クリス様は何度か楽しそうにそういった。
そこまで帰りたがるように見えたのだろうか。見えたのかもしれない。
幾ばくかの使用人がいて、決して二人きりというわけではないが、それでも落ち着かない状況であることは間違いない。
翌日、布団が柔らかすぎて合わないから帰りたいというと、
「僕の部屋の寝台は硬めだから、来るかい?」
とのたまわれた。
さらにその翌日そろそろ帰ろうと思うというと、アリスは外遊に再出発したとのことで帰ってもいないよと言われた。
もともと王宮が居心地がいいか悪いかわかるほど居たわけでもなく、ここの居心地が悪いと思っていたわけではない。
少し年配のメイドさんたちがお客さんをわざわざクリス様が連れてくることなんてないことだ、人が泊まっていくことなんてまずないからゆっくりしていってくださいねーというようなことをかわるがわる話していってくれるので、じゃああえて帰らなくてもいいかという気持ちにはなりつつある。
大歓迎というわけではないが、包み込むように受け入れてもらえるのは存外に心地いいものだと思う。
彼が呼んでくれた治療魔法の指導教師に魔法を見てもらう時間はもっぱら自主学習と、購入した医学書を読みふけっていた。
人を自分の屋敷に招いているものの、家主は仕事をこなしているらしく朝と夜の食事時以外はほとんど顔を合わせていない。
自分の身支度だけ整えて、朝食が準備されているであろう階下に降りる。
おつきのメイドさんは辞退させてもらった。そんな身分でもないし、そう扱われたこともないのだからいるとかえって気が休まらない。
食事は座ったらすぐに始められるであろう準備が整えられていたが、食事相手はいない。
「クリス様は今日はいらっしゃらないんでしょうか?」
グラスに水を注いでくれるメイドさんに話しかけると、えーどうでしょう、今確認に言ってもらってるのでお待ちくださいとあいまいな返事が返ってきた。
気にもせず席について運ばれてきたスープを飲もうとするとクリス様が部屋に入ってきた。
食べ始めていなくてよかった。
スプーンに手を伸ばしかけていたのを引っ込め、立ち上がりワンピースの裾を持ち上げて挨拶をする。
側仕えの時のワンピースは裾を持ち上げるほどの長さはなかったのだが、ここで用意されている着替えは装飾こそ地味なほうではあるのだろうがドレスと言って差し支えのない長さだった。
なぜドレスの着替えが準備されているのか、というのは気にならなくもなかったが、袖を通すよう勧められたものは見るからに新品だったので敢えては聞かないことにした。標準体型より少し背は高めだが幸いにもサイズは丁度だった。
彼の身長はこの世界ではおそらく並の男性かほんの少し高め程度かと思うので、ヒールをはくと数センチしか身長の差がなくなってしまう。
もっとも、普段休日平日共に医療用のシューズしか履いていないし、側仕えの時の靴は動きやすさ優先のローファーのような靴しか履いていない私にはヒールは過ぎた代物だったようだ。ピンヒールでもないのに、すでに何度か足をひねってそのまま歩いているのを見つかり、少し踵が高いだけの靴になった。
「おはようございます。」
「お辞儀の仕方が様になって来たね。」
「恐縮です。」
武道をしていたので姿勢はいい方だ。ただ、習っていた武道はお辞儀をするときも相手から目線を外さないように礼をするという方法だったため、麗しさや敬愛という雰囲気には程遠く、ここ数日は その都度注意を受けていた。
彼も前に座って食事を始める。
あまり毎食のたびにいつ帰るか、というのを聞くのも招いてもらってるのに帰りたがっているようで礼を欠くような気がして聞きにくい。
別にそこまで帰りたいという気持ちももうない。
「そうだ、妹さんは明日いったん帰ってくるそうだ。向こうに合わせて明日帰るかい?」
口を開いて言葉を発しようとしたのとほぼ同時に向こうが教えてくれた。
「…あ、はい。そうします。」
「ずっとここにいるのも飽きる頃だろう。」
「本を読んでますので、そうでもないですね。」
本の虫というほどではないが、じっとしているのが苦手なたちではないし、どちらかというとなれないところで外に出てあれこれする方が面倒に感じるので忌憚なく答えた。
「こちらにいたいなら、一生いてもらっても僕は全く構わないよ。」
にやりと笑って言う。
「クリス様の側仕えとしてですか?」
わざとつっけんどんにそう返した。
「なるほど。君が社交が嫌だというなら、そういう体で囲っておくのも悪くはないかもしれないね。考えておくよ。」
うまく返せなくて私は黙り込む。
なんというか、キスをしてから、明らかに彼の態度は変わったのだ。いや態度はそこまで変わっていないが、発言の内容はより積極的になった。
いや今までも今も紳士的な態度に包んでソフトな上から目線はあったのだけども。それに何というか、自信のようなものが伴ったのだ。
原因は言うまでもない。
私の気持ちなんて、筒抜けなのだろう。
もちろん言われる私の気持ちも以前とは変化しているわけで。
そういったことを言われるたびに喉の奥がむずむずする。
「ところで今日は休みにしているんだが、このあたりでよければ少し出かけようかと思うんだ。君もどうだろう。甘いものが美味しい店があるんだ。」
「いいですね。」
アリスのほうが甘いものは好きだけれど、私も決して嫌いなわけではない。
美味しかったら何かアリスにも買っていこうか。
「今度は気に入ってもらえそうな提案ができたようでほっとしているよ。」
スープを飲みながら笑顔を見せる。
この館に来た当初から、おそらく殿下に私の機嫌を取るように言われていたからだと思うが、色々と提案をされては断っていた。
初日は宝飾店と服の仕立て屋が来ていたが早急にお帰り頂いた。
宝飾品に興味がないわけではないが、高価なものを身に着けたいという感覚は私には乏しいし、数日前の盗賊の件を思い出すと外に気軽に出られる身分の人間としては、下手に宝飾品はつけないほうがいいような気がしたのだ。
この世界にどれだけいるかわからないのに余分な服を仕立てるのだってもったいないし、着るものなんで清潔で他人に不快感さえ与えなければなんだっていい。
そしてそもそもクローゼットには、何日滞在する前提の準備なのだろうかと思うほど新しい女性ものの服が入っている。これ以上は私の中のラインでは明らかに過剰なぜいたくだ。
出来ればシャツとズボンなど動きやすい服は欲しいといってみたが、こちらの世界では女性の仕事着は別として平服はスカートしか普及していないそうだった。ズボンのほうが動きやすいとは言っても周囲から奇異な目で見られたいわけではないので、今着ているものや側仕えとして与えられた服として十分だったので商品を取り出して説明する前にお帰り頂いた。
一連のやり取りをメイドから聞いたクリス様が、僕の予備でよければ貸せるよ、といってくれたので借りてみたが、なんとなく背徳感があり切るのはためらわれる状態でクローゼットにそのまま置いてある。
昨日は化粧品と香水を主に取り扱う商人が来た。香水は治療師として働いていく上ではないほうが望ましいため、元々全くつけていない。化粧品も流行りの香り付きがどうこうといっていたので、不要だといってみないでお帰り頂いた。
少しくらい興味があるふりをするのがマナーかとも思うのだが、今後も毎回機嫌を取ろうとされても困るためあまりに興味がないことには帰ってもらうことにしたのだ。
それらに比べれば、甘いものを食べに行く提案というのは十分に魅力的な提案である。
「そうですか。何時ごろ出られますか?」
午後なら本を読む段取りを整えておかなくては。
私の食いつきがよかったことに彼が喜んでいるのが得意げな表情になったことからわかる。
「僕は1日空けてあるから何時でも…ああ、何だ?」
彼の側近が近くに来て、何か言いたそうな視線を送っていたようだ。
「先ほどブルーベル侯爵家から、ミシェル様がこちらに向かっているとのお知らせがありました。」
「ええ?いや、呼んでないけど…。」
クリス様は明らかに困惑した顔をする。
「忙しければ追い返してもらって構わないと侯爵より言づけられています。なんでも、聖女様の姉君にお会いしたいといっていらしてきているそうです。」
聖女様のことは機密事項にしているのではなかったのだろうか。あちこちで知られているような気がしているのだが。
「そうか。…そんなこと言われても彼女を無下に追い返すわけにもいかないだろう。」
「それは侯爵様も織り込み済みでの発言かと。」
「そりゃあそうだろうね。…どうする?」
なんと令嬢とやらが用事があるのは私のほうらしい。
「何のご用事なのかは気になるのですが、聖女のことはまだ機密事項とおっしゃっていたように思いますが、それはここ数日で変わったということでしょうか。」
「いいや。機密事項だ。ああ、彼女が来たら応接室に通しておいてくれ。朝一番でもう向かっているという知らせが来ているのなら、あの令嬢のことだ、昼前には間違いなくつくだろう。ーさて。」
クリス様は食べかけのパンを皿に戻して目線をこちらに向け言葉をつづける。
「ミシェル・ブルーベル侯爵令嬢が君に会いに来ているとのことだけど、どうする?」
「今無下にできないって言ったばっかりじゃないですか。クリス様が無下にできない相手なのに私に拒否権があるわけないでしょう。」
会ったことはないが、名前はこの世界に来てから何度か聞いたことがある。
アリスが来る前に、仮の聖女として王宮に勤めていた女性のはずだ。
年は私とアリスの間くらいだっただろうか。
アリスを除けば国で一番魔力が多く、見事な銀髪をしていると。
国では唯一の未来を予知する魔法が使えるため、国を挙げて保護していると。
そしてクリス様からもアレク殿下にもその真意は確認できていないが、
次期皇太子妃と言われていた女性だと。
「ああ、そういえば彼女についての説明ができていないね。彼女は、君をこちらに呼ぶ魔法を使った張本人だ。過去類を持たない魔力量とスキルから、妹君が呼ばれる前に聖女として扱われていたこともある。そして、僕とアレクの婚約者にあたる。」
「ちょっと待ってください。」
情報過多だった。
とりあえず数ある貴族の一人というよりは、重要な人物であることは間違いなさそうだ。




