聖女の姉は再会する
治療院の表から入ろうとすると、数日前に見た顔があった。
「ハンス先生。」
「ああ…えっと…」
向こうは顔を見てもこちらを思い出せないようだ。アリスがあれだけ強大な魔法を使って印象に残っているのもあるだろうし、私は顔立ち自体も特徴がなく、正直よくある顔、と言われるので無理もないだろう。
ただ、曲がりなりにもスカウトしたのだから覚えててほしいとも思うが、患者を相手にする職業柄、一日に会う人間の数が多すぎるのだろう。
「先日見学させていただいたものの、姉のほうです。」
「ああそうだ。思い出した、すまない。人の顔を覚えるのはそこまで苦手じゃないはずなんだが…。」
顔を覚えていないことについては無理もない程度の感想だったが、顔を覚えるのが苦手じゃ無いのに覚えていない事実はわざわざ言わなくていいだろうと心の中で文句を言う。
「大丈夫ですよ。今日はお休みですか?」
「いや、当直明けだ。」
この世界でも当直という概念はあるらしい。
「っていっても、本来の当番のやつが魔力が切れて呼び出されてからだから、途中からだけどな。もう治療魔法を習得したのかい?」
「いえ、まだ全く習得できるめどは立ってないです。」
「まあそうだろうな。この世界に生まれた魔力のある子供で、就学してから魔力の基礎を習得するのに平均2-3年、治療魔法自体の習得には1年くらいはかかるんじゃないかな。
魔力の基礎は言語を理解できてる分もう少し早くできるかもしれないが、治療魔法は知識を得たうえでそれくらいかかるもんだから、まあ気長にやりなよ。雇用の約束はたぶん年単位で有効だから。」
聖女様の身内だったらもしかしてそれより早いかもしれないけどな、と付け加える。
私も聖女というバフがかかりまくった設定の妹と同じ遺伝子を持っているのだから、多少なりとも才能があるのではないかと期待していたのだが、今既にアリスが魔力を使うことができていることを考えると少なくとも恵まれたレベルの才能はなさそうだ。
しかもアリスは「なんとなく使えた」と言っていたので、いまだに魔力の何たるかすら理解できていない私は地道に努力をするしかないんだろうと思っている。
「ハンス先生。魔法の習得にはとりあえず時間がかかるのは承知の上なのですが、ひとまず元の世界と今の世界の病気に対する考え方や原則の治療方針を確認したいのですが、そういった本はありませんか?」
「魔力の習得で教えられそうなことはあるか?」
いい人だ。当直明けなんて早く帰りたいだろうに。
「元の魔力量が少ないので、本日の練習ですでに魔力切れなんです。」
「そうか。ああ、本はあるぞ。でもまだ君は部外者になるから、読むには手続きが必要だな。本の種類が何でもよければ普段俺がかいに言っている本屋を案内することもできるが。」
「当直明けにお手間ではないですか。」
「帰り道だ。」
「ではお願いします。」
しゃべりながらすでに歩き出している。
一歩下がって後ろをついていくことにした。
「お伺いしたいことがあるのですが、いいでしょうか。」
「ああ。」
「悪性腫瘍は、治療魔法では治らないのでしょうか。」
悪性腫瘍、という言い方であっているかはわからないが、10年に一度の医学書が輸入されていると仮定すれば、何ら問題ないはずだ。
「…治らないな。進行を多少遅らせることはできるようだが。悪性腫瘍の位置が限られていて外科治療が可能なら、病気を取って再発しないよう祈るしかないな。」
アリスの魔法のかけ方が、とかいう問題ではないのだろう。
「外科治療は、治療師がするんでしょうか。」
「人でもいるし魔力の消費も多いから、普通はしないけどな。できる人間もほとんどいないといっていいし、大概の治療師は聞いたことがあるくらいになるだろう。俺も体表のものを何度が見てやったことがある程度だ。ちなみにそもそも、この国で悪性腫瘍は理解がなくても治療師としてやっていくにはまったく困らないから、概念をきちんと理解してるやつは少ないと思ったほうがいい。そういうのもあって、悪性腫瘍は体表のものでない限り、見つかった時には体中に散らばっていることが圧倒的に多い。」
検診が普及しているわけでもなければ、確かに初期の癌を見つけるのは困難だろう。
診断魔法で流れの滞りなどで悪いところがあればみつけられそうなものだが、そもそも魔法で診断治療できる人間までのアクセスへの簡便さが元の世界とは全く異なるのだろう。
いわゆる風邪程度の症状であれば貴族であってもお抱えの治療師を雇っているわけでない限りは自己診断で流通している薬を服用するのが基本らしい。
まあもっとも、日本での受診へのハードルの低さは世界で類を見ないレベルだから不思議はない。受診すると収入に応じて治療費がかかるそうだから、風や花粉症で病院にはいかないのだろう。
「治せない状態で見つかった場合はどうするのが一般的ですか。」
「患者の年齢や背景、本人や家族の意向を総合して決めることになる。大体は治療魔法を定期的にかけて体の調子を整えて、回復が追いつかなくなったと判断した段階で除痛だけの治療に切り替えだな。回復が追いつかなくても回復魔法を希望しても、結局結果としては殆ど同じだが。」
回復しても自活できなくなったら寿命、ということだろうか。
確かに、治療魔法が使える世界においては、回復させても生活できなくなるレベルが寿命というのはある意味判断に適しているのかもしれない。
育つ世界が違えば死生観も倫理観も全く異なる可能性だってあることを考えれば、近しいものを感じるくらいである。
「悪性腫瘍は自分の細胞のいわゆるコピーミスや修復ミスから生まれるものだろう。
これは俺の想像だが、そこから異常な細胞の増殖を繰り返し、物理的に圧迫したり栄養を他から奪い取ったりする。元が自分の細胞だから、異常を治すというのが標的になっている治療魔法では追い付かないんじゃないかと思っている。
一方で悪性腫瘍になる前の段階、コピーミスの段階では治療魔法が聞いている可能性があるんじゃないかと思っている。実際お抱えの治療師を雇っている貴族は悪性腫瘍になりにくいという統計もあるぞ。公表はしてないけどな。」
異常な細胞の増幅自体は自分の体とみなしているということか。
自分の異常増殖だから、けがや細菌と違って治したり除去したりすることができないということだろう。彼の想像と言っているものの、そう聞くとしっくりきた。
「なるほど。ちなみにこの世界では膠原病などはどうなっているんですか。自分を治せない、という意味では膠原病も治せない疾患になるかと思いますが。」
「膠原病とこちらの国ではきちんと診断できる方法がないから、おそらくそうだろうと俺が仮定している患者のことでいいか。自己抗体が発生して、体に炎症を起こすのがその病態だ。治療魔法では自己抗体は消すことはできなくて定期的に治療が必要になるが、異常な炎症というのは抑えることができるから対症療法としても治療はできていると考えている。」
免疫抑制薬などを使う元の世界の治療と同じということか。確かに治せなくても見つかって治療できるのであればあまり問題になることはないのかもしれない。
もっとも魔法である分副作用がない分ずいぶん使い勝手は良さそうだ。
「悪性腫瘍も、進行を遅らせることができるということは、発生率は低いということでしょうか。何か他の病気でかかったとしても、全身に治療魔法をかければ見てない大きさの悪性腫瘍が隠れていても進行を止めるのと同じ効果があるのではないでしょうか。」
相対的に他の理由での死亡率が上がるはずだ。
「それは元の世界の罹患率を知らないから何とも言えないな。ただ、全身に治療魔法をかける患者は少ないし、あれをやると1日治療できる人数が俺なら数人、あんたの魔力なら数日分かけて一人で終わってしまうだろう。
あんたの妹の魔力の量は、聖女というだけあって全く別物だと思ったほうがいい。治療魔法をかけて全身の状態を整えてっていうのは、あくまで患者の数が少ないから成り立ってる治療法だ。
治療魔法はどこに使うか絞ってやるもんだから、知らない悪性腫瘍の進行を止められてるかっていうと、少なくとも統計に影響が出るレベルではないと思うぞ。」
ほらここだ、と指さした先には軒先にも、中にもたくさん本がつまった棚のある建物があった。
話している間についたらしい。
「ありがとうございます…どの本がいいか、おすすめはありますか。」
ここまで面倒を見てもらっておきながらさらに迷惑をかけるのも気が引けるが、この世界ではハンス先生はかなり勤勉なほうなのだろう。確実な相手に聞くほうが良い。
「いくつか見てやろう。ただ、俺は愛妻家なんだ。自宅近くで若い女性と二人でいるのは噂が立つと困るんだが…。」
護衛で少し離れてついてきている兵士のほうを見て、手招きする。
「女性が二人ならいいでしょうか。」
「ああ…そうか、あんたの護衛だったんだな。さっきからもう少し近くにいてもらえばよかったな。」
ハンス先生は頭を掻きながら店の中に入っていく。




