聖女の姉は異世界に溶け込めない
前話のあらすじ
研修医として日々は垂らしていた私は、実家に帰ったタイミングで妹のアリスとともに異世界に召喚された。
妹が「聖女」として歓迎されるが、私はあまりお呼びではないらしい。
取り押さえられどこぞにつ入れていかれそうになった時、クリスという名のイケメンが私に声をかけてきた。
応接室らしい場所に通され、あたたかな蒸しタオルで手を温めた後座って待っていると、しばらくしてお茶菓子とお茶が運ばれてきた。
異世界物ではこういうのが美味しくなくて主人公が開拓していく、というのが大筋なのだが残念ながら運ばれてきたものは食器類の含め、どれも非常にクオリティが高いものだった。
まあもっとも、ペニシリンをアオカビから抽出できる気もしなければ、一から紙やインクを作ろうとも思えない。せいぜい発酵食品に手を出し失敗してお腹を壊すのがオチだろう。
室内を見渡す。
少なくとも現代の一般家庭では見ない、細かな細工が施された調度品ばかりだ。
いったことはないが、ベルサイユ宮殿はきっとこんな感じなのかもしれない。精一杯のイメージが中世の貴族の絵画に描かれている背景だが、あれよりは多少簡素なくらいだろうか。
誘拐、転生、タイムスリップ―
非現実的だがそもそも自宅から移動の記憶が一切なく別の場所に来ていることが現実では起こりえないことなのだ。
ひとまず思考停止しないために、自分の状況を自分に納得させる。
クッキーを頬張りながらそういえば携帯はなかったかと腰に手をやるが、自宅に帰っていたのに携行しているはずがなかった。
あったとしても通信手段として使えるとは思わないが、あとでアリスが持っていないかは聞いてみなくては。
夕食を取っていなかったので、空腹だったことに気が付く。そういえば昼食も忙しくてとれていなかった。
目の前にはたくさんのお菓子が並んでいるが、きっと全部食べるのはマナー的に良くないだろう。
とりあえず、最低限の小腹を満たすことにした。
アリスはどうしているだろうかと妹に想いを馳せる。
言葉が通じなさそうだったが、雰囲気からして少なくとも悪い扱いは受けていないだろう。
一度取り押さえられていた私が立派な客人の扱いを受けているくらいなのだから。
「待たせたね。」
本当に結構待たされてここに連れてきてくれた男性が笑顔で部屋に入ってきた。
先ほどはあまりしっかり見られなかったが、年の頃は同じくらいの美丈夫だった。
ほとんど金に近い茶髪に、やわらかなウェーブがかかっている。
「いえ、お茶とお菓子ごちそうさまです。」
こちらの世界のあいさつの常識はわからないが、とりあえず椅子から立ち上がりお辞儀をする。
座っていいと勧められるかはわからなかったのでさっさと座った。
対面にある椅子に彼も腰かけた。
「僕のことはクリスと呼んでくれ。この国の皇太子の兄だ。」
弟が皇太子ということは、妾腹なのか継承権に条件があるのか他に事情があるのか。
いずれにしても初対面で聞くことではないし、さして興味もない。
「…宜しくお願いします?」
よろしくする必要がどれだけあるかは知らないが、目の前に差し出された手を握り返す。
「あの、アリスは今どうしているんでしょうか。妹なんです。」
「さっき会ってきたよ。彼女も君のことを心配していた。彼女は国を挙げてもてなしているから、心配はいらない。」
会って来たなら合わせてほしいものだと文句を言いたくなるのをこらえる。
「妹のことを、聖女って言ってましたよね。どういうことですか。」
「この世界では時々、桁外れに魔力の高い人間が生を受ける。それが今回は君たちの世界にうまれたアリスさんで、僕らの国を助けてもらいたくて勝手ながら呼ばせてもらったんだ。」
「アリスの意思は関係なくですか。」
目の前の男の意思とは限らないが、眉を顰めざるを得ない話だ。
「呼び出しは関係なくしちゃったけどね、協力してもらえるかどうかは彼女に委ねるしかない。なのでまず、ご機嫌を取らせてもらっているんだよ。」
「勝手に呼び出しておいて、その言い草もどうかと思いますが。私は人質みたいなものってことですよね。」
「そういうつもりで一緒に召喚したわけじゃないんだけど、。現状そうとられても仕方ないよね。まあ本当に人質としてとられているように感じるかは、今後の僕らの対応でどこかで考え直してもらえればと思うよ。」
私には仕事があるんですけどーとのどまで出かかった言葉を飲み込む。
ここで言葉の応酬をしても何も生まれないし、メリットもない。
私から反論が出ないのを待って、彼はつづけた。
「早速なんだけど、まずは君に魔法をかけて、この国の言葉を話せるようにしていいかな。アリスさんが君に会ってからでないと話を聞かないといってるみたいでね。」
なるほど、大体の異世界物は言語はセットで通じるようになっているがこの世界では通用しないらしい。
確かに、アリスを連れて行ったあの青年と今目の前にいる青年の自己紹介以外の言葉はまったく理解できなかったうえどこの言語かすらわからなかったことを思い出す。
「クリス様は私たちが使っている言葉をしゃべれるということでしょうか?」
「まあ、拙いところはあるかもしれないけどね。」
では皇太子の兄というのは言葉の間違いの可能性も出てきた。
呼び名に様をつけてスルーということは偉い人であることには間違いないのだろう。
さっきアリスを連れて行った青年は皇太子と言っていたから、王族は使える言語といったところだろうか。
「じゃあ、魔法をお願いします。」
「ああ。」
そういうとクリス様は、テーブルをはさんだ向かいの椅子から私が座っているソファに腰かける。
なんだかいいにおいがするという変態じみた感想が一瞬浮かび、頭の中から必死にかき消そうとする。
魔法がある世界ということは、誰かしらに心を読まれていてもおかしくない。
「あの」
「ん?」
顔面の破壊力という言葉が頭をよぎる。
好みというのはあるだろうが、そういったものを凌駕して美しいものは美しいと人に納得させるものが世の中にはある。クリス様の顔は、まさにそういった類のものだった。
その顔が私の顔に近づいてきてー
「近いです!」
キスでもしようかといわんばかりの距離に近づいていた顔を、両手でつかんで引きはがす。
すでに私の跳ね上がった心臓の音は聞こえているかもしれない。
正直、何よりも自分の心臓の音がうるさい。
「…説明もなしに、失礼した。」
気を悪くはしなかったらしい。軽く笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「人に作用させる魔法は、できるだけ体を近づける必要があるんだよ。握手でも言葉を変換する魔法はかけられるけど、一晩は手を握っていないといけない。だからこう、額をくっつけようかと思って。」
「それは…失礼しまし…た?」
反射的に謝罪が口に出てきてしまうのは社会人の悲しい性だが、流石に頭を下げるのは思いとどまる。
いくらイケメンだからと言って、ことわりもなく先に顔を近づけてきたのは彼である。
この世界で多少の権力を持っている立場だったとしても、現時点での私から見ればただの他人でしかない。
「この国では、女性に断りなく顔を近づけるのは失礼ではないんでしょうか?」
「まあ…一般的にはそうだけど、僕はいわれたことはないかな。」
「立場をかさに着ているからかもしれませんけどね。」
思わず嫌味を言ってしまった。
「貴方は、なかなか気が強いな。」
先ほどまでしていた落ち着いた喋りをくずし、顔をくしゃっとさせて笑うと私よりも幼く見える。
なぜだかとても楽しそうだ。
「気は強い方ですし、肝も座っている方かと。」
笑顔に不覚にもときめいていまったことを悟られないようにすまし顔をする。
「では5分ほど額どうしをつけていいかな。…ちなみに、キスなら10秒くらいで済むけど。」
すまし顔は見抜かれているのかもしれない。こちらをからかうような笑みを向ける。
私が男性慣れしていないのを察しての対応だろうか。それとも世の中のイケメンとはこんなに自信満々に生きているのだろうか。
「額でお願いします。」
この世界の常識がどういった基準のものかはわからない。
この世界にどうやって来たかがわからないということはどうやって帰るのかわからない可能性だって多々あるのだ。まずは価値観や社会の仕組みを把握しないと生きていくすべはない。
前世も今世でも大した社会人経験もなければ、とびぬけた知識があるわけでもない。
強いて何か使えるものがあるとすれば、医学知識くらいだ。
それも実戦経験の少ない、初心者の知識のみである。
ーなんにしても。
まずはアリスの顔を見ないと、安心できない。
次回金曜日投稿予定です。お気に召しましたら宜しくお願いいたします。