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苦手な方はご注意ください。

創作百合短編集

相棒と別の仕方で、

作者: 今田椋朗


 ただでさえ狭い水槽に閉じこめられているのに、その二匹の小魚は水草の片隅でぴったり寄り添って虚空を見つめながら、ゆらゆらたゆたっていた。

 どこを見ているのだろう?


「ユズ、眉間に皺が寄っているよ」


 振り向くと相棒が、私の顔をまじまじと、視線の筆で落書きしていた。

 だから私はくすぐったくなって、表情筋をほどいた。

 蝶結びのように、あと残りなく解けてしまったので、小魚を見ていたさっきまで考えていたことの尻尾の毛を、探偵の心構えで探すように、心の水中を潜ったけど、息苦しいだけだった。


「なに考えてたか忘れちゃった、スイのせいだから」


 アクリルに映りこむ私は、少し口角を上げて唇をぱくぱくさせる、ちょうど小魚を食べてるみたいになる。

 

 私は最近、保留することを覚えた。

 いろんなことを、ひとふた呼吸の後に、まあいっかと泳がせておく。

 たぶん今の私は穏やかな顔ができているハズ。


「この、ずっと一緒で、ずっとじっとしてる魚のことじゃなくて?」

 相棒は、切れ長の垂れ目で、私と小魚を溶け合わせた。


「ちがう、……」


「あのときのこと?」

 相棒の二の腕が、私の肩に触れる。


「……つぎ行こう」

 はぐれないように、私は相棒の大きな手を掴んだ。

 彼女は確かめるように、私の小さな手を握り返した。




 水族館に行きたいと言い出したのは、私の相棒のスイレンだ。

 彼女と私は、幼なじみだ、ひとことで言うなら。


 彼女を『相棒』と表現するのが一番精確だと私は思う。

『腐れ縁』はネガティブすぎるし、『友人』だとなにか足りなさすぎる。


『恋人』はポジティブすぎるし……、『パートナー』は背伸びしすぎている。


 水色の関係性。

 沖縄の海は碧いけど、北海道の海は藍い。

 同じ水なハズなのに、彩度も重さもぜんぜん違う。


 私たちはセルリアンでもビリジアンでもない、気がする。

 水色。強いて言うなら。

 でも私は透き通ってなどいない。

 都会の川のように。

 でも、それも水色と呼んでいいハズだ。

 

 スイレンも、きっと水色。

 水面に浮かんで、ずっと見てるから、くわしいのだろう。


『相棒』はひとつの荷物をふたりで背負う関係だ。

 だから私はスイレンの荷物にはなりたくない。

 たとえ四肢がもげようとも。


 私の鞄の中でなくしたら困るもの。

 財布、家の鍵。……ほかには?



 静けさが薄く響き渡るのは、空調設備がベースを担当してるからだと思った。

 

 今日は空いていて、見渡すと、私たちの周囲にはカップル一組と、一つの水槽にずっと張り付いているおじいさん一人くらいしかいない。


 ほんの少しひんやりした空気が私たちの顔を包む。

 薄い長袖でちょうどいい室温だ。

 手だけが体温のやり取りで浮き上がっている。


 大水槽。

 高速バスが丸々収まるんじゃないかと思うくらいのサイズ感だ。

 せっかちだがこの館のメインディッシュを先に食べよう。

 水面近くでは小魚の群れのマーチング大会が、中層では大型魚のマイルリレーが粛々と行われている。

 私は紡錘形の影を目で追いかける。


「スイは赤身魚だと思う、鮪とかカツオとか」


「どうして?」

 相棒は、私の手をにぎにぎしながら、底のほうの鮫かなにかを冷めた目で見ている。

 その切れ長の垂れ目のようすは感情表現ではなくて、いつも通り、デフォルトでそんな感じなのだ。


「……回遊魚の精神でしょ」

 なんとなく。


「ん……あ、もしかして、ワタシが陸上でぐるぐる走ってたイメージから?」

 相棒は話しながら、私の右手の指の間に執心している。


「……ちがう、とも言い切れない、かも」


 スイレンは、退部届を出して陸上を去った。

 それなりに良い成績を残す選手だったのに。

 私と遊ぶ時間を増やすためらしい。


「ユズは、赤身魚というか青魚のイメージじゃない気がする」

 相棒は私の手を引いて、アクリルの大スクリーンを横切る。

 そのポニーテールが背びれのようにゆうらり泳ぐ。

 私のバンスクリップで、私がセットした。

 両サイドから編み込んでみたけど、これからもスイレンは自分でやらないだろう。

 

 

「水族館と映画館って、なんか似てる」

 私は呟いた。

 落ち着いた灯りとか。


「動くものを観に行くって動機も同じじゃない?」

 リュックの肩紐を調整しながら、相棒が言った。

 

「……私が言いたかったことは、っ」

 私は舌にブレーキをかけた。


「ユ~ズっ、映画も行こう」

 相棒は急にテンションを高くして、また私を引っ張り歩いた。


 妙に鋭いスイレンのことだから、もしかしたら私の中身なんて半分くらいお見通しなんじゃないかと思った。

 その反応速度は、私が予想通りの言動しかしていないことを示している。

 なんだか、くやしい。

 すっごくつまらないことだけど、それはくやしい。


 それでも、ボタンを掛け間違えたような私たちの会話は、暗号めいていて妙に心地良くもあった。


 

 シロワニという鮫は、子宮内で胎仔が共食いし、生き残った一匹が産まれてくるらしい。

 水族館ではなくて、図鑑で知ったそれは、私の水面にふるっと浮いてきた。

 水族館で得た浮力なのかもしれないけど。


 私がスイレンに対して抱く幾つもの感情は、いつか混ざり合って一色になるのだろうか。

 私は産みたいのだろうか。

 何が産まれるか、わからなくて怖い。


 女同士なので宿命的にできるわけないのに、私はスイレンとの子どもの顔を連想していた。

 私の少し吊り目がちなところと、スイレンの切れ長な眦が合わさる。

 ふたりとも鼻筋はくっきりしているのでどちらに似ても全体的に整うだろう。

 きっと美人になるだろう。

 そう思ってしまって、それが自己肯定に繋がったのが予想外で、私はくすぐったくて身震いした。

 あまりに刺激的過ぎるので、雑念をかき集めて薄めないと膝が崩れて歩けなくなって困る。


 慌てて素数とか円周率で希釈したけど、私の内側でじんじんと残響が頭をもたげた。

 つまり、冷静なコウモリになって一層解像度を高めた私の洞窟内に、愛と呼べそうなものが幾つも転がっているのを捉えてしまった。

 しかもとんでもない鉱脈なのかもしれないと思うと、もう誤魔化しのきかない自覚があと一歩まで迫っているのに、気付かないではいられなかった。



 お腹が空くタイミングが同じだったのかもしれない。

 館内のレストラン・カフェに、私たちは足を向けていた。

 二人席テーブルを陣取って、それぞれ鞄を足元のカゴに置いた。


「ユズ、また難しい顔して……」

 スイレンの大きな手が対岸から伸びてきて、私の面を揉みくちゃにする。

 遊ばれる粘土の気持ちはこんな感じだろうか。


「……崩れるから」

 

「メイクをして、触れなくなるなら、なんて窮屈なんだろう」

 すっぴんの切れ長の垂れ目の、下まぶたを少し持ち上げて、ここじゃない私を視ている。

 冷や水を心臓に掛けられた気がした。

 自分で掛けたのかもしれなかった。


 相棒は喋り続ける。

「ユズ、まつげ長いね」

 私の頬を揉む大きな手を、私は両手で引き剥がした。

 新色のマスカラを使ったことがバレている。


 相棒は喋り続ける。

「ワタシの前で、窮屈な顔をしてる」

 テーブルの上で、私の親指と人差し指の間の水かき部分を熱心に摘まんでいる、スイレンのポーカーフェイス。

 もしも私が両生類だったなら、スイレンはエラ呼吸を捨てるだろうか?


 相棒は喋り続ける。

「ユズ、全部見せてよ」


 相棒は喋り続ける。

「でも、他人の価値観と自分を混ぜないでほしい」


「……いみ、わからない」

 店員が来て、私は手を引っ込めた。


「ワタシも、わからない」

 テーブルの真ん中で、彼女の大きな手がシャコ貝のようにあくびしていた。



 私たちは、いくら海鮮丼を食べた。


 無数の命を、舌で弾けさせた。

 醤油でおめかしして、最高に輝いて、花火のように散っていった。

 白米館公演を見届けた。

 セットリストはイカの通り。

『母なる河川』

『カーネギー・トロール』

『エビデンスの欠片』


 私たちは食べ終えた。


 スイレンは口を拭きながら言った。

「ユズがくだらないこと考えてるときの顔、久しぶりに見た」

 私はギョッとした。

 二の句が継げない。 


「図星みたいだね」

 相棒は、にやにやと切れ長の垂れ目を細めている。


 もしかしてスイレンは脳内に『柚乃AI』でも備えているのだろうか。

 だとしたら私はそれをぶち壊さなければならない。

 

「スイのこと、考えてたって言ったら、どうするの……」

 ダメだ、恥ずかしくなって最後まで言えなかった。

 意表を突くには間違いない文句だったが、殴ったら自分の拳も痛めるのと同じで、激しく後悔した。

 それに、より精確にいうなら、スイレンとの子どものことだ。

 ……きっとスイレンはこういう幻想は大好きだろうと私には分かるけど、こんなことを暴露できるような破滅的な勇気の芽を刈り取る習慣がついているから、私は引っ込み思案なのだった。


「ユズ、……」

 相棒は急に真顔になった。

 スイレンがこうやって感情を乱暴に脱ぎ捨てるときは、計算処理中なのだ。昔からそう。

 それは時間をかけて煮詰めた回答が返ってくるということだから、私は喉をごくりと鳴らした。


 スイレンは私の手を取ってテーブル席から勢いよく立ち上がる。

 私は慌てて鞄を取って、相棒について行く。


 長身の相棒が大股で進むので、私はほとんど小走りになった。


 物陰に連れ込まれた。

 水族館にはそういう都合のいい場所はいっぱいある。

 スイレンは身を屈めて、私の唇を奪った。

 私の両かかとが、期待してたでしょと言いながら、少し浮き上がった。





 あのときも、ほんとうは大声で言いたかったんだよ?


 ワタシはユズの滑らかで薄い唇に注ぎ込む。

 夢見る羊のようにカールした長いまつげ。

 シンプルだけど、いつもより気合いが入ったアイメイクは、ワタシのために張り切ったのだろうかと思うと、いとおしさで破裂しそうになる。


 だけど素顔が見たい、なんて言ったら、せっかくの機嫌を損ねてしまうだろうから、やめておく。


 ユズが背伸びしたのが、ワタシの唇に伝わった。

 ワタシは嬉しくなって、あのときのことを思い出した。

 





 第三楽章のような秋霖が、ユズの部屋の真四角に染み入って、したしたと這い寄って、ワタシの腿を撫で回す。

  

 どれくらい耐えられるのかな、花って。


 団地の花壇のコスモスを気にしているけど、ふだんは彼らがどんなに咲き誇っていても何とも思わないくせに。

 ワタシは窓の外を見るつもりもなく見る。

 セピア色の雲が色を奪われていく憂鬱な最中だ。

 ユズが雑に緑色のカーテンで塞ぐ。

 穏やかなパステルグリーンはひどく場違いな気がする、今日に限って。


   穏やかな パステルセピア 憂鬱な


 その隙間を鳥が通り過ぎた、明滅の一瞬をワタシは物理の教科書のストロボ写真のように切り取る。


 五感が冴え渡っている、なぜか。

 ワタシは少し肩が濡れた制服のブレザーのボタンを一つ外す。


 天井に届く本棚、プラスチック衣装ケース幾つか、半開きの押し入れの中のくしゃくしゃの布団、丸い白いちゃぶ台の上の教科書と文庫本、隅っこに転がる学校鞄。


 ユズがワタシのブレザーのボタンの残り全部を外す。

 そしてワタシの後頭部を両手で掴んで、背伸びしてぶらさがるように体重をかける。

 

 ワタシは稲穂のように背中を曲げる。


 胡乱な目、二重まぶたを重そうにして、ユズはワタシの唇に迫っていく。

 ワタシはユズの瞳を刺す勢いで見つめるけど、ユズは焦点が合わない、合わせないつもりなのかもしれない。

 ぎゅっとまぶたを閉じてから、ユズはワタシの唇に唇を重ねる。

 ワタシは本数を数える、ユズの長いまつげ。


 つけま、まつエク、マスカラ、美容液、いろんな魔法があるらしい。

 だけど、もともと長いのってずるくない?


 ユズの体重と体温が後頭部から背骨を伝って膝に届く。

 ユズの舌先が唇のささくれを捲る。

 ワタシはユズの背中に両手を回しながら、膝を床について腰を落とす。


 ユズはちょこんとまたいでワタシの腿に座り込み、ワタシのカッターシャツの透明なボタンを手探りで外していく。

 

 鯵の開き。

 ユズはワタシの内臓を取り出す。

 そう、そこ。

 ぜいごの外し方は心得ている、ユズはワタシの二段フックを外して、躊躇いで震えながら中に侵入する。


 ユズはワタシの鼓動を聴く。

 手のひらで、吸うように。

 ワタシの胸も、ユズを吸い付ける。


 断続的な口付けがつかの間の全休符を迎える。


 ワタシたちは、ゴールテープを切ったランナーの燃えかすのように息が乱れていく。


 果たして、ユズが先か、ワタシが先か。

 分からないけど、ワタシたちのゴールはスタートと薄皮一枚だ。


 

 換気扇かどこかから、しとしと雨音が伴奏を続けている、健気にも。

 雨樋の中の流水の響きも、いやに耳につく。

 遠吠えが聞こえた、上の階の洗濯機の悲鳴だろう。


 パステルグリーンの傷口から、より厚く煙る雲が覗いている。

 無機質な団地の部屋と閉塞的な曇り空、二重の檻の中で、小鳥がさえずっても長雨にかき消されるだろう。


「……スイ」

 長いまつげを重そうに伏せて、うつむいて前髪を暖簾のように垂らして、ユズはワタシの制服のスカートの裾を摘む。


 ワタシはユズのなめらかな頬を撫でながら、訊く。

「いいけど、お母さんは?」


「……。」


 ユズの無言の小さな手は、じりじりと、遠慮がちに詰め寄っていく、ワタシのふとももの上を。


 ワタシは手を伸ばして、ユズの暖簾を捲る。

 びくっとユズは肩を震わす。

 おでこの生え際まで紅潮している。

 整った眉が緊張と弛緩を繰り返している。


 そのままセミロングヘアを両手で泳いでいって、花嫁のヴェールのように広げると、部屋中はユズの甘い香りでいっぱいになって、ユズに丸呑みされた心地になる。


 ワタシの暖簾を潜るユズの手は、どうやら本丸にたどり着いたようだ。

 スカートは外堀にはならないし、ワタシはユズの入城を心待ちにしていたのだ。


「……ん」


 ワタシはユズの首筋に鼻を埋めて、思い切り吸い上げる。

 シャンプー、ヘアオイル、柔軟剤、華やかで軽やかな甘い香りを支えるのは、ユズ本来のヒトのにおい。

 ユズのにおい。

 ふぃあゆもい感じ……、勝手に形容詞を作って、言語学者に怒られるかもしれない。


 ユズの指先のためらいとにおいの揺りかごで、ワタシの脳は微睡みの中に足を浸していく。

 部屋の外で唸る冷蔵庫のバリトンがますます遠ざかっていく。


 いつか見た夢のユズがやってきて、ワタシに囁いては消えていく。


『スイ、おぼえてる?あのときのこと』


 夢のユズはまるで妖精のように舞い踊る。

 優雅に、時に蠱惑的に。

 手を伸ばして掴もうとすると、蜃気楼のようにおぼろげに、ユズは輪郭を手放して、風景に溶け広がってしまう。

 

「ユズ、どこ?」


 ワタシは呼びかけるけど、淡いシルエットの無愛想な小さな背中が、ワタシを突き放し続ける。


 かわりに遠くからやってくる、マーラーの八番のような荘厳な気配。

 今度は巨人のユズが、神さまみたいな服の裾を引きずりながら、パルテノン神殿のような手指でワタシを捕まえる。


『スイは私の____だから』


 おおきなユズの白い手指は華奢できめ細かく、指紋さえも神秘的な歴史書に見えた。

 その白い壁がワタシを果物みたいに絞って、ワタシは呻き声を上げて別世界にワープする。

 時間旅行のトンネルの支保工に、祖父母の家の柱のように身長の歴史が刻まれていて、スナップ写真に彩られている。

 写真の小学生のユズが満面の笑みでワタシに手を振る。

 写真に飛び込んだら、ワタシも背がみるみる縮んで、ユズと大差なくなる。

 ハグをして、でもワタシはユズを写真の外に連れ出していく、手を強く握って。

 背が伸びたワタシたちは、笑顔だけはそのままで。

 ワタシは叫ぶ。


 いまのユズの 笑顔が見たい だけなんだ



「……スイ、私と、いっしょ?」


 熱い、やけどに似たシグナルが身体の中心を貫いて、ワタシの夢のもやを切り裂く。

 視界が広がり、ワタシの鼻先すぐ近くで、ユズの現実のつむじが待っている。

 いつのまにか、ワタシのブレザーとシャツは取り払われている。

 緩んだ肌着だけの上半身だが、冷えるどころかじっとり汗ばむほど火照って、火力発電所にでもなった感じで、ワタシは撒き散らしていく、蒸気を。

 

 スイ、いっしょ?ほんとに?


 ユズはようやくワタシと目線を繋げる。

 ユズの濡れた瞳は生まれたての銀河の烈しさをひた隠しにしている。

 上目遣いで、いまにもはじける寸前の水風船のごとく。

 懇願しているようにも、祈っているようにも、おそれているようにも、怒っているようにも、期待に満ちているようにも、みえた。


 恥じらってはいなかった。



 いっしょ。ずぅっと、ワタシは、ユズだけ。

 声になっているのか、もう分からない。


 ユズに。ユズが。ユズへ。ユズと。


 ユズばかり。ユズだから。

 ユズから。ユズしか。

 ユズは、ユズノ。

 

 柚乃。







 スイ、


 私を、私を。

 句読点のあとが続かない。

 何を言ってもおこがましい気がしてならない。


 脚の間が熱を引きずっている。


 私はスイレンの服から右手を取り出す。

 マニキュアをしていない指先の短い爪は、水に濡れて光沢を纏っている、窓の外の僅かな月光と街の光を吸い込んで。

 薄い闇に、死にかけのホタルのように浮かんでいる。

 心臓が宿ったように指先が震えている。


 日が暮れるのがはやい。

 緑のカーテンの隙間から、夜の光がぼんやり漂ってくる。

 スイレンと私の化合物のにおいが部屋の底に沈んでいる。


 ……スイレンは、ぜんぶ受け止めた。

 むしろ、私を吸い込んで、それから微笑んだ。


 ずぅっとわからなかった。

 自分のことも、相棒のことも。

 

 形の無い不安、理由の無い不安。

 いつ頃からか逃げ癖のついた私は目を逸らし続けて、捨てた過去の考えに押し潰されて、言い訳すら身動きが取れなくなっていた。


 だから私は、私たちは、自然発火で、交通事故のようなキスで、不器用にためしあうしかなかった。

 どんなにぎくしゃくして磨り減っても、私たちは次の日もその次の日も一緒に学校に行って、帰った。

 心の場所が分からない以上は物理的に近付くしかなかったから。

 においが落ち着くから。

 いっしょはもう当たり前で、当たり前の日常を壊せるわけがないから。



 山火事のように、とうとうスイレンに迫って、燃やした。

 最悪の焼け野原を覚悟したけど、スイレンは優しい毛布みたいに私を抱きしめた。

 

 ユズ、これからも。


 スイレンのかさついた唇が唇に接着して、私はスイレンの声を後頭部で聞いた。


 一呼吸。

 鼻と鼻が関門海峡のように近い。

 私たちの息が蒸気が、デオキシリボ核酸を編んでいく。

 毛穴を数えられるほど至近距離で、私とスイレンはじいぃっと見つめ合った。


 切れ長の目尻は少し垂れがちで、瞳は黒真珠より艶やかで、恍惚に濡れている、相棒。


「リップクリーム」

 

「ユズ?」


「だからリップ……唇、割れてるから」


「わかった」


「毎日塗って」



 スイレンの長い指たちが私の耳元から顎先まで滑っていく。

 くすぐったい、本能的な寒気と熱い幸福の温度差について行けないから、くすぐったい。


 スイレンの首筋、きれいな鎖骨、意外とほっそりした肩、あたたかい胸、肋骨の輪郭、仄かな腹筋の陰翳。

 日焼けがかなり抜けて白に近付いている肌は、冷蔵庫から出してしばらく経ったペットボトルの結露みたいに、ミクロなガラスドームがうぶ毛のひとつひとつを覆っている。

 

 私は鎖骨に沈み込むふりをして、鼻先をスイレンの脇に近付けていく。

 制汗剤が甘味と酸味を遠くに連れ去っているけど、足跡は探せる。

 私は動物みたいに、嗅覚に頼って、目を閉じる。


 深い池の底に這いつくばって水草に紛れ込んでいるようなイメージが浮かんで消える。


 私の頭を髪の流れに沿って撫でるスイレンの広い手の柔らかさ。


 私の干からびて荒涼した部分がしだいに潤って、胸の中で、水を吸った乾燥わかめのような膨張が復活の歓びを歌い上げる。

 スイレンのにおいは安心のにおい、だけどこの胸を満たす安心は切なさにも似ていた。


 切なさを吹き飛ばすように目を開けて、私の相棒を見上げる。


 スイレンは珍しい表情をしていた。

 隠しきれない照れの赤色と、まるで女神像の母性のような白色が、ちぐはぐに混ざって年相応の少女のはにかみになっていた。


「ユズ……脇はいくらワタシでも、」

 はずかしい、おかしくなりそうだ、うれしい、くすぐったいよ、ユズ。


 ぶち。

 シャツのボタンが千切れるような音が、どこからかこだました。

 私の脳神経が、筋繊維が、しがらみが、理性の最後の一本が、きっと千切れたのだ。


 どうでもいいことが、ほんとうにどうでもよくなった。


 全能感が背骨から爪の先まで染み渡って、羽でも生えたように身体が軽くなっていく。


 猫のような身軽さで、私はスイレンの唇を求めて、唇を唇で挟んで、味わう。


 湿気たアップルパイみたいに、少しザラザラで、かさつき、つやっぽくなめらかでもあり、自分のリップクリームの味も混ざって少し甘かった。






 改札口を同時に出て、ワタシはユズが定期券をしまうやいなや、手をひったくって、指を絡めた。

 強く握って、歩き進めた。


 長身のワタシが早足で歩くと、背の低いユズは早足どころではなくなるけど、わざとやっている。

 ワタシを強く意識するしかなくなるユズの足。


 小走りでは速すぎるし疲れる、早歩きでは追い付けないから、ユズはちょこちょこと忙しなく歩調を切り替える。

 古いマニュアル車のように、咳き込むように。


 生まれて数分の小鹿のようにぎこちなくおぼつかない。

 かわいい。

 ユズの反応が嬉しくて、ついイヤなことをしてしまう。

 ユズは衆目のなか手を繋ぐことをイヤがったけど、いったん繋いだら振り払うことはなかった。

 合図するみたいに握ったら、握り返してもくれた。


 ワタシの歩幅を強要するのも、ユズは黙ってついて来てくれるから、たしかめたいから。


 うつむきがちのユズの長いまつげのいとおしい曲線。

 一文字に結ばれたなめらかで果物みたいにおいしそうな薄い唇。

 さらさらのセミロングヘアが華奢な肩の上で楽しそうに踊る。


 横目でユズの顔を覗くと、やけに真剣な表情をしているのがおもしろくて、ワタシは口角を歪めてしまう。



 郵便局、コンビニ、オフィス、アパート。


 歩道を掘り返す汚れた作業服たち。

 カジュアルな若いセンター分け目の茶髪。

 白いヘッドホンと青いカーディガンの女。

 着膨れしただるまのような白髪混じりの老人。


 ユズの脈拍。



 スーパーマーケット付近の交差点。

 片側二車線道路の中央分離帯の、みかんの輪切りみたいな反射板。


 子どもが、赤信号が見えてなさそうな勢いでワタシたちの傍を駆ける。

 ワタシは咄嗟にその女の子の手を取った。


「あーちゃん、ストップ!」


 振り向くと、若い母らしき女性ともう一人の女の子が手を繋いで、駆け寄ってくる。

 

 水色のワンピースを着た五歳くらいの女の子は、繋ぐワタシの手を見て、それから見上げた。


「おねえさん、だれ?」


「信号、見てた?」

 ワタシはゆっくり言った。


「あおだった」


「……赤だったよ」

 母娘が近付いたので、ワタシは彼女を握る手をゆるめた。

 ユズの手は、はなさない。


「あの、すいません、ありがとうございます」

 彼女たちの母親は、息を切らしながら、会釈した。

 その買い物袋は八キログラムはありそうで、肩に食い込んでいる。

 ごぼうがアンテナのように飛び出ている。


「あーちゃんまえみないとあぶないよ」

 母親と手を繋ぐもう一人の女の子も、水色のワンピースを着ていて、二人は顔もよく似ていた。

 双子にしか見えなかった。


「いーちゃんと手繋いで?」

 右手で肩に食い込む買い物袋をやわらげながら、母親は言う。

 声に疲労がべったりついていた。


「いーちゃんてつめたい」

 今にも暴れ出しそうな予感が、彼女の全身を纏っている。


 青信号になり、ワタシたちは二車線を横断した。


「おねえさんはあったかい」

 ワタシの手を気に入ったあーちゃんは、そのままずんずん歩いていく。

 

 困った顔の母親にワタシは微笑んで、そのまま歩くことにした。


 ユズの手はうるさいほど波打っている。

 ユズはうつむいて、猫背でついて歩く。


 突然しりとりが始まった。

「りす」


「すべりだい」

 ワタシは言った。

 二の腕でユズの肩をノックする。

 次はユズだよ。


「……いくら」

 ユズは言った。


「らっこ」

 背後から、いーちゃんの声。


「こあら」

 母親も参加した。


「らくだ」

 あーちゃんは水色のワンピースの裾を翻しながら言った。


「団地」「ちくわ」「わに」「にら」

「らっぱ」「パリ」「リコーダー」「だんご」「ごりら」

「らいおん」



 青い車が向かってきて、すれ違い、ワタシのポニーテールを揺らす。

 ユズのセミロングも広がって、ワタシの鼻孔をくすぐる。


 歩道の少し向こう。

 街路樹で幅狭くなる部分で、ワタシたちと、藤色のセーターを着た老婆と自転車が同時に道を塞ぎそうだ。

 

 そのまま進むと衝突するので、ワタシたちは減速して、左側に寄っていく。

 あーちゃんの手を引いてワタシの少し前に並べて歩く。

 まず自転車が無表情ですれ違い、藤色の老婆が目を細めて一瞥した。


 高校の制服を着たワタシとユズ、幼い双子と若い母親。


 ワタシたち五人は、家族に見えるのだろうか?



 街路樹の葉は、赤や黄のふくよかな秋のファッションというより、焦げ付いて欠けていくタンパク質の最後のきらめきに見えた。


「仲良しやね、ええことや」


 すれ違い間際に、老婆がつぶやいた。

 ワタシたちを見上げて微笑んだ目は、笑い皺と他の皺と溶け込んで、顔ぜんぶで『笑』の漢字になっていた。

 新雪のように白い髪は、一瞬差した夕日を反射してトパーズ色に輝いた。

 藤色のセーターは、似合ってないと思った。



 赤信号。

 二車線どうしが七十度で交わっている。

 歩行者用の信号機だけど、黄色があって、車用を縦向きに使っているのかなと思う。


「なかよしだって」

 いーちゃんが言った。


 ワタシとユズとあーちゃんは振り返る。

 あーちゃんはワタシの手をはなして、いーちゃんの手を取った。

 ふたりの母親と目があって、ワタシは曖昧な笑みを唇に浮かべる。

 ユズの体温を感じながら。


「おねえさんたちは、なかよし?」


「おねえさんたちが、なかよし?」


 水色の双子が、ほとんど同時にたずねた。

 ワタシたちを見上げる四つの黒い瞳は、午後の澄んだ陽光と高い薄い雲の端切れを閉じこめているようでも、なにも映していないようにも見えた。

 ただ意味もなく虚空を仰いでいるようにも見えた。



 ワタシはユズを、ユズの顔を見るべく、首を操作する。

 顎先を肩に近付けるその角度は、ひとことでいうなら見下ろすだが、ワタシは下なんて漢字を使いたくない。

 でも身長差それ自体は、気に入ってもいる。

 ワタシの背や手腕は中学入学前にぐんと伸びた。

 ユズをすっぽり包み込むことができる自分は好きだ。

 今は手だけでがまんしているけど、いますぐにだってハグしたいんだ!


「ユズ」


 呼びかける前に、ユズはワタシをちらりと見た。

 長いまつげの曲線が、少し不安げにふるふる揺れる。

 またうつむく。

 眉の下で切り揃えられた前髪がカーテンのような影を落とす。


「仲良しさ」

 ワタシは唇を湿らせて、続ける。

「迷子にならないように、繋ぐんだよ」



 青信号。

 ワタシたちはそれぞれ歩き出す。

 ほとんどかすれた横断歩道の白は、散った花弁のように未練がましく目に焼き付いた。


 いーちゃんと手を繋いだあーちゃんは、おとなしくなった。


 住宅街、コンビニ、公園、病院、花屋、自転車屋。


 夕暮れ、しつこく色付くことはない薄い青を背景に、遠い巻雲の下腹をさっと橙に染めただけで、太陽はあっさり落ちていく。

 

「それじゃ、さよなら、ありがとうね」

 いくらか朗らかに、双子の母親は軽く背を曲げた。

 お辞儀とも、買い物袋の位置の調整とも受け取れた。

 袋から飛び出ているごぼうは素直にお辞儀していた。


「バイバイ」


「さよなら」

 水色の双子の声が重なる。

 どちらがどちらかは分からない。


「バイバイ」

 ワタシは目を細めて、言った。


「……バイバイ」

 ユズも、小さな声で言った。

 そよ風にすぐに溶け込みそうな甘い声を、ワタシは一音残らず拾い集めるように耳にする。


 

 仲良しさ。

 いいや、仲良しどころか、好きだとか愛だとか、それどころじゃないんだ!


 言葉にすると途端に陳腐になる気がするのは、例えば水の色をあらわすのに『水色』だけじゃ、青でも緑でも透明でもなく、無限の切り口を秘めた水の色を到底あらわせないのと、似ている。


 ワタシとユズの関係は、きっとどんな言葉も当てはまらないし、ワタシは当てはめない。


 無限の可能性を泳がせておく。

 言葉の枠に、窮屈に押し込められてはやらないのだ。


 その自由には一つだけ宿命的な縛りがある。


 言葉にしないと決めたなら、言葉で叫ぶことは出来なくなる。


 ワタシはユズと無限の可能性を泳ぎたいけど、同時に大声で叫びたい、叫びたかった。

 

 それとは別の仕方で、……

 ワタシには、まだわからない。



 別れて、舗装路を歩き出す。

 ワタシはなぜか振り返る。

 水色のワンピースをはためかせて、双子ふたりとも振り返って、ワタシと目が合った気がした。

 あるいは何も見ていないのかもしれなかった。


 沈みきらぬ明るい夜の予兆。

 街灯の疎らなあたたかそうな橙。

 アスファルトを突き破る雑草の末枯れも、薄い闇に沈むと、一色に見えなくもない。


 乾いた秋風が、ワタシとユズの手と手の体温をスポットライトのように浮き上がらせる。

 歩きながら頬摺りするのはワタシたちの身長差では難しく、練習が必要だ。





 ユズ、




 読点の続きは、書いてやらない。




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