悪役令嬢になる前に
登場人物
フィル王子 ネバーローズ王国の王子
シルビア ネバーローズ王国の貴族令嬢
フロンティア ネバーローズ王国の貴族令嬢だが、中身は転生者。小説を読んで王国の行く末を知っており、小説内の悪役ブラッドハート王子を救うためにストーリーを変えた。
ブラッドハート王子 ネバーローズ王国の敵国、バルダンディア王国の王子
ネバーローズ王国の貴族令嬢シルビアは、広大な屋敷の裏にある薄暗い離れに、ひとり佇んでいた。
シルビアは敵国の冷酷で知られる王子、ブラッドハートを待っていた。
隣国バルダンディア王国の次期国王、ブラッドハート王子は今頃、この国の次期国王となるフィル王子と会談中だった。それが決裂に終われば、ブラッドハート王子はまっすぐここに来ることになっていた。
平和を愛するフィル王子が持ちかけた会談を、冷酷な上に好戦的でも知られるブラッドハート王子は、はじめから決裂に持ち込むつもりだった。
そして、シルビアの一族と結託し、ネバーローズ王国に攻め入る話が進んでいた。
なぜ、シルビアが敵国の王子に手を貸すのか。それは、シルビアがフィル王子の結婚相手に選ばれなかったことが原因だった。
フィル王子は結婚相手に、貴族令嬢フロンティアを選んだ。
フロンティアはシルビアの幼馴染であり、家柄もシルビアの家と並んでいた。それだけに、王子は個人的な意向でフロンティアを選んだと周囲に知れた。
シルビアを溺愛している一族の者達は、涙を流してくやしがり激怒した。王子の結婚相手はフロンティアかシルビアかと噂されていただけに、悔しさはとめどなかった。
それにこれで、家同士は同等ではなくなってしまう。一族のプライドも深く傷つけられた。
そこで、持ち上がったのが敵国に寝返る話だった。
シルビアをブラッドハート王子と結婚させ、溜飲を下げたいのもあった。シルビアはそれを承諾した。
一族のためだけではなく、自分自身のためでもあった。
選ばれなかった怒りと悲しみは一族以上だった。
フィル王子は自分に、好意を寄せられているような振る舞いを何度も見せていたはずだった。それはシルビアの勘違いではなく、貴族の娘達も噂するほどだった。
期待を裏切られた復讐心と、一族の期待に応えられなかった責任感に、追い詰められての決断だった。
シルビアはこうなった原因を探すように、またフロンティアを思い出した。
選ばれたフロンティアは美しい。しかし、シルビアはフロンティアより美しいと評されていた。人には顔の好みがあるが、それを超えて見惚れさせる美しさが、シルビアにはあると評された。
幼い頃から何枚も肖像を描かれた。人の手に渡ったのもある。それはどうなるだろうと思った。敵国に寝返った裏切り者の肖像として、憎まれ燃やされてしまうのだろうか? と、我が身が焼かれるような恐怖と悲しみに震えた。
絵に描かれるに相応しい令嬢と言われ、そのように振る舞ってきたため、立ち居振る舞いや内面を悪く言われたこともなかった。それはフロンティアも同じだった。
ふいに、シルビアはフロンティアと慈善活動をするために、町を歩いたことを思い出した。二度と、仲良く並んで歩けないと思うと、両手に顔を埋めて嗚咽をこぼした。
呻きに似た嗚咽に、シルビアはフロンティアの歌声を思い出した。
フロンティアは歌が上手かった。歌姫と呼ばれるほどで、シルビアも聞き惚れていた。
それが、王子の心を射止めたのだろうか、それだけとは思えなかった。
はっきりしているのは、自分には王子を射止めるものはなにもなかったことだけ
今まで、誰もがシルビアは幸せになれると言った。
皆、誰かが幸せにしてくれると思っている。
フィル王子でさえ、フロンティアを選んだ後に
“シルビア、君なら、すぐに誰かと幸せになれる”
そう言って、去っていった。
今、隣には誰もおらず、幸せなどどこにもなく
ひとりぼっち
シルビアは激しく泣きそうになるのをこらえて、震えるため息をついた。このままでは嫌だった。誰もいないなら、自分でなんとかするしかないと思った。
だから、こうして、敵国の冷酷王子を待っているのだ。
こんな自分と似合いの相手かもしれないが、お互いに興味のない政略結婚。
それでも、もはや、泣いている場合ではないと、シルビアはなんとか落ちついて、自分を見下ろした。
黒い上等なブロケードドレスは、薄暗い部屋に溶け込んで、金の刺繍だけがキラキラ光っていた。
こんな、暗く大人びたドレスは着たくなかった。こんなところにも居たくなかった。
フィル王子と結婚できれば、いつまでも明るい日の下で、鮮やかなドレスを着れたのに……。
シルビアが未練を断ち切ろうと頭を振った時、扉がノックされた。急いでハンカチで目元を拭くと、返事をして扉を開けた。
そこには、まだ若いメイドのデイジーが立っていた。
「いらしたの?」
デイジーは困惑した顔で、一瞬言葉に詰まった。
「いえ、それが、フィル王子様がお見えです」
シルビアも驚きで言葉に詰まった。
「い、今さら、なぜ」
「どうしても、お会いしたいそうです」
シルビアが眉を寄せて悩んでいると、デイジーが訴えるような目を向けてきた。
フィル王子に会ってほしいと訴えているのが、すぐにわかった。デイジーは歳が近いこともあり、シルビアのよき話し相手だった。シルビアの心を汲んで、今の状況について来てくれていたが、平和を愛する娘だった。
「わかったわ。会います」
シルビアは安心させるように笑って言った。
デイジーは嬉しそうに笑い、シルビアを案内した。
重厚だが洗練された調度品で飾られた客間に、フィル王子が立っていた。
柔らかい金髪に凛々しさと柔和の混じった顔立ち、艷やかな碧眼がシルビアを捉えた。金の肩章から連なる飾緒のついた濃紺の軍服をスラリとした体で着こなしている。
シルビアは一瞬、全てを忘れて目を奪われた。
しかし、彼の表情に陰があることに気づき、我に返ってたじろいだ。
彼には笑顔でいてほしい、その思いで静かに身を引いたことを思い出した。それが、こんなことになり、どんな表情を見せればいいかわからず、うつ向き視線をそらした。
「シルビア、突然すまない。どうしても、君に会わなければと思って……」
意を決したように近づいてくるフィル王子に、シルビアは体を強張らせた。
「私に? フィル様……大事な会談中のはずでは?」
まだ会談が終わるには早過ぎるのでは? そのことに思い当たった。
「会談は、中止になった」
「中止?」
言葉をと切らせたフィル王子に、シルビアはわずかに首をかしげた。
「フロンティアが会談の席に現れて、突然」
そこで、フィル王子は息を呑んでから言った。
「私に、婚約破棄を突きつけてきた」
シルビアは衝撃に目を見開いた。なぜとすぐに聞きたかったが、しばし言葉が出せなかった。
「なぜ?」
やっと聞くと、フィル王子は首を横に振った。
「とても信じられないことだが、会談相手のブラッドハート王子を好き、ずっと好きだったと、告白したんだ」
「ブラッドハート王子を、す、き?」
敵国の王子を好きなどと、全く想像もできない話に、シルビアはオウム返しに呟くしかできなかった。
「時々、子供のようなことを言ったり、したりする人だったが、今回のことは受け止めきれない」
片手で頭を抱え、後ろにふらついたフィル王子を、シルビアはそっと長椅子に座らせた。
「待ってください。フロンティアとブラッドハート王子に接点はないはずでは? ブラッドハート王子の噂ならば、私もフロンティアも聞いたことはありますが」
その噂も冷酷からなり、平和を愛するフロンティアが好意を寄せるようなものではないと思えた。
「フロンティアが言うには、ずっと前に、一度会ったことがあるそうだ。とにかく、そうやってフロンティアは私から去り、ブラッドハート王子とどうやら結ばれたようだ」
「結ばれた? もう?」
シルビアは信じられないと、無意識に首を横に振った。
「ふたりの様子を見ていた兵の話では、フロンティアの馬車にふたりで乗り込んだと思えば、しばらくして、仲睦まじくブラッドハート王子の馬車に乗り換えて、フロンティアの馬車をつれて去ったそうだ」
「仲睦まじく去った? 本当ですか? 攫われたのでは?」
不安に駆られて、そわそわと窓や扉を見た。
「兵が後を追っているから、もうじき知らせが入るはずだ」
フィル王子も扉に顔を向けた。
「そんな一大事になぜ、私のところへ……?」
「フロンティアに婚約破棄を告げられた後、君のことを、真っ先に思い出したからだ」
フィル王子が立ち上がって、シルビアを見据えた。
「フロンティアと婚約した時に、君を、傷つけてしまった」
シルビアはまた胸が痛みだして、涙をこらえるために下を向いた。
そんなシルビアはいきなり抱き寄せられた。突然で反応できず、シルビアの額はフィル王子の胸元にぶつかり、体は少し痛いくらいの強さで彼の熱を感じた。
フィル王子の意外な強引さに、シルビアは目を瞬かせた。
「許してほしい」
フィル王子の震える声に、シルビアは抵抗することを忘れた。
私はもう復讐できない。一族をなんとかしなければと、真っ先に思った。
「君の一族にも謝罪しなければ」
「謝罪など!」
シルビアはフィル王子から身を離した。
「聞いてください。フィル様。謝罪しなければならないのは、私達の方です! おふたりの婚約を喜ぶべきなのに、私達は、復讐のために、敵国のバルダンディアに寝返る計画を進めていたのです!」
「復讐? 寝返り?」
恐ろしい告白に、平和を愛するフィル王子は後ずさった。
「一族の怒りを押さえられなかったのです。私のせいで……私も怒りと悲しみに苛まれて……」
全てを打ち明けたシルビアは、冷静になって続けた。
「こんな、恐ろしい私は、処刑してください」
覚悟を決めて告げたシルビアに、フィル王子がすぐに手を差し伸べた。
「処刑などできない!」
シルビアはまた強くフィル王子に抱き締められた。
「シルビア、君は恐ろしい人ではない。君も、一族の者も、怒りに我を忘れただけだ。本心は平和を愛するネバーローズの貴族のままだ、そうだろう?」
シルビアが涙をたたえて心を込めてうなずくと、フィル王子の胸が安堵に上下した。
「シルビア、君の一族の者が言うように、私は、君とフロンティアを天秤にかけたりはしていない。実は、フロンティアとは幼い頃に結婚の約束をしていたんだ」
「え?」
「ままごとのような約束だが、やはり、果たすべきかと思ったんだ。美しい思い出でもあった」
フィル王子にはそういう、律儀さと責任感の強さと、ロマンチックさがあるのをシルビアは知っていた。
「そう、でしたの」
彼のそんなところに惹かれているシルビアは、思わず胸が甘く痺れるのを感じて、こんな時にと自分に笑った。
「私も、しておけばよかった」
呟きに、フィル王子は困ったような微笑みを見せた。
「子供のような決め方で、君を傷つけた。許してほしい」
「もう、気になさらないで」
シルビアはしっかりと言い聞かせるように答えた。
「よかった……!」
ふたりはほっとして、お互いに寄りかかるようにして、しばし心を落ち着かせた。
「フィル様。子供といえば、フロンティアのことを探さなければ」
「ああ、そうしよう。その前に」
突如フィル王子が跪き、両手でシルビアの片手を取った。
「シルビア、私と結婚してほしい」
碧く澄んだ瞳にシルビアは囚われた。
両手からフィル王子の温もりが伝ってきて、繋がりをはっきりと感じられた。
敵国の王子の手を取った後の、想像もできない暗闇の未来、燃える国と自分の肖像、それらが全てガラスが割れるように粉々になるのが見えた。
その先には、まばゆい王子様の姿があった。
「はい!」
シルビアは泣きそうになるのをこらえ、喜びの笑顔で答えた。
フィル王子も泣きそうな笑顔で立ち上がり、ふたりはしっかりと抱き合った。
「シルビア、君をもう、ひとりにしたくない。城に来てほしい」
「は、はいっ」
真剣な顔に、シルビアはドキリと胸が高鳴った。
「そ、その前に、ドレスを着替えさせてください」
「もちろんだ。その間に、私は君の父上と話してこよう」
♢♢♢♢♢♢♢
この結果に涙して喜ぶデイジー達メイドに手伝ってもらい、シルビアは暗いドレスを脱ぎ捨てた。
そして、ネバーローズ王国の王子の隣に立つのに相応しい、金地に白い薔薇が刺繍された輝くドレスに着替えて階段を降りた。
玄関ホールではすでに話を終えて待ち構えていたフィル王子が、シルビアに手を伸ばした。
フィル王子の手をとって笑顔を交わしたシルビアを、父のウィグネス公が抱き締めた。
「シルビア、お前は幸せになると信じていたよ。お前に相応しい結末だ」
「お父様……」
シルビアは涙に言葉を詰まらせた。
「お前を敵国の王子にやろうとした私を、許してくれ」
父の弱々しい囁きに、シルビアはしっかりとうなずいた。
ウィグネス公は娘をフィル王子に委ねた。フィル王子は優しくシルビアの涙を指で拭った。
「ブラッドハート王子に、すぐにでも計画を白紙にしたいと伝えたいが、居場所がわからない」
ウィグネス公から全てを聞いたフィル王子は、悩み顔で言った。
「それから、フロンティアだ。私は城に戻り、ふたりを追った兵の報告を待つ。ウィグネス公も城に来てくれ」
「わかりました」
城に向かう馬車の中で、隣に座るフィル王子はシルビアの手を離さなかった。
「フロンティアと婚約してから、なぜか、ずっと不安が消えなかった。もうじき父から国を任される、そうなれば、一人で国を背負っていく。そんな想像しかできなかった」
フィル王子はシルビアに体を寄せた。
寄り添い合うふたりは、欠けたもの同士がぴったり合わさるようだった。
「君を失ったからだと、はっきりわかった。君の芯の強さに私はいつも、支えられていたんだ」
シルビアはただ優しく微笑んだ。
芯の強さが間違った方に進なくて、本当によかったと思った。
ふたりが城に着いてまもなく、ブラッドハート王子とフロンティアを追っていた兵の報告が入った。
「二人は今、フロンティア様の屋敷に居ます」
鎧に身を包んだ無骨な兵が、肩で息をしながら言った。
「ブラッドハート王子とフロンティア様に会って話しました。おふたりのご様子ですか? なんというか、恋人か夫婦を見ているようで、幸せそうでした。王子、自分は耳を疑いましたが、聞いたままお伝えします。おふたりはご結婚なさるそうです」
「け、結婚。もうそこまで話が進んで……」
フィル王子とシルビアは絶句した。
「ブラッドハート王子が、王子にお会いして、そのことについて」
「すぐに、城に呼んでくれ」
皆まで聞かずに、フィル王子は命じた。
兵が下がった後、ふたりは顔を見合わせた。
「私も、一緒に、ふたりに会わせてください」
「わかった。四人で話そう。その方がいいだろう。個人的なことが絡み合っているようだからな。国同士の話をする前に、まずは、そこをなんとかしなければ」
♢♢♢♢♢♢♢
ブラッドハート王子とフロンティアはすぐにやって来た。
それと同時に、ウィグネス公からブラッドハート王子に寝返りは止める旨を書いた密書が渡り、王子がそれを了承したと聞かされた。
シルビアはほっとして、これから、ブラッドハート王子になにを言われても、甘んじて受け入れようと思った。
会見の間にブラッドハート王子とフロンティアが現れた。
フィル王子とブラッドハート王子が、シルビアとフロンティアが向かい合って、四人はお互いの姿に視線を巡らせた。
シルビアはブラッドハート王子と目が合ってドキリとした。王子はわずかにニヤリとしたが、なにも言わずに視線をそらせた。
ほっとしたシルビアはフロンティアとブラッドハート王子を見比べた。
どこか、か弱そうな身に淡い桃色の絹のドレスを着た、絵に描いたようなお姫様といったフロンティアが、長い銀髪から作り物のように整った顔立ちに銀の瞳、漆黒の軍服に包んだしなやかな体まで、冷酷と噂されるに相応しく、冷たく研ぎ澄まされたようなブラッドハート王子の隣に立つ姿は不安を掻き立てた。
不安に眉を寄せるシルビアとは反対に、フロンティアは輝いた笑顔で身を乗り出した。
「おふたりは、まさか?」
フロンティアは確認するように、フィル王子とシルビアの姿を交互に見た。
「結ばれたのですか?」
いきなりの質問に動揺しつつ、ふたりはうなずいた。
「よかった!」
フロンティアは両手に顔を埋めて肩を震わせた。
「まず、フロンティアが会談に乗り込んだ経緯だが」
泣き出したフロンティアに困惑するフィル王子とシルビアに、フロンティアの肩を抱きブラッドハート王子が言った。
「会談を自分がどうにかしなければ、俺達全員に悲劇が起きる夢を見たそうだ」
「夢? まさか、その悲劇を阻止するために、ブラッドハート様と結婚するの?」
シルビアにはそんなことは納得できなかった。フィル王子も同じようで、顔に険しさが表れた。
「違います! それもありますが、その前から、私はブラッドハート様が好きでした」
「好き……」
あまりにストレートな告白に、シルビアは面食らった。
好きなど子供の言葉だと思っていた。
もう大人といっていい者が、こんなに真剣に口にするとは衝撃だった。
「そういうことだ」
ブラッドハートが言って、一歩前に出た。
「もう、これ以上責めないでやってくれ。責めるなら、俺が変わりに応えよう」
フロンティアを庇う毅然とした態度に、シルビアは胸を打たれた。
シルビアがフィル王子の顔を伺い、ふたりは視線と気持ちを交わした。
「安心してくれ。私達は、これ以上責める気はない。ふたりのことを、祝福しよう」
はっきりと答えたフィル王子の顔を、ブラッドハート王子がじっと見つめた。
「本当か? あのような形で婚約破棄されて、かなり屈辱だと思うが」
フィル王子は思わず足元に視線を落とした。
そんな彼の腕に両手を当て、シルビアは力強く体を寄せた。励まされたフィル王子は、フロンティアを見据えた。
「できれは、会談前に言ってほしかった」
悲しげな笑顔を見て、フロンティアが苦しげな顔になった。
「夢を見たのは会談の間際で、白昼夢というか、どうしても間に合わなかったんです。許してください」
フロンティアが崩れるように両膝をつき、頭を垂れた。
「わかった。もう、気にしないでくれ、フロンティア、気にしないで」
手を差し伸べるフィル王子の優しい声と笑顔に、顔を上げたフロンティアは、感謝と喜びの笑顔を返して涙を拭った。
「私も、婚約破棄されたショックで、酷い態度をとってしまった。許してほしい」
フロンティアは泣きながらうなずいた。
「ひとつ、気になることがあるのですが」
ブラッドハート王子がフロンティアの涙を拭いて慰め、ほっとした空気が流れてから、シルビアは言った。
「フロンティア、ブラッドハート様のことをいつからお慕いしていらしたの? 会談の前に、お会いしたことがあって?」
首をかしげるシルビアに、フロンティアは動揺した様子を見せて、ブラッドハート王子と顔を見合わせた。
「ずっと前に、一度だけ」
「俺がこの国を人知れず視察した時に、フロンティアだけには気づかれていたのだ」
「よく、気づいたね」
「よく、気づきましたわね」
「う、噂に聞いていましたから! そのお姿とそっくりで! 間違いないと……」
必死なフロンティアに、三人はフムと納得した。
「それにしても、俺は冷酷と噂されていたはず、お前は、冷酷な男が好きなのか?」
ブラッドハート王子が意地悪く笑った。
それは、シルビアも聞きたいところだった。
「冷酷さではなくて! クールとかストイックとかそういうところで! 冷酷そうに見えるけど、そうじゃないところというか」
フロンティアは慌てて答えながら、スカートを両手で握った。
「きっと、冷酷なだけじゃないんだろうなと思ったら、勝手にどんどん惹かれていきました……」
フロンティアが冷酷さの裏に期待していたのは、優しさや愛情だとシルビアにはわかって、フロンティアらしいと微笑んだ。
ブラッドハート王子の笑顔も嬉しそうに見え、きっと、期待通りの王子なのだろうと、直感した。
「本当か? 冷酷なだけではないというのは?」
フィル王子が確認するように、ブラッドハート王子に聞いた。
「……冷酷、そうなるように、教育は受けた。しかし、そう仕向けた父も病の床だ。亡くなる前に手柄を立てたところを見せてやるつもりだったが」
ブラッドハート王子は腕を組んで、しばし黙った。
「喜ぶとは思えないが、別の手柄を見せてやることはできそうだ。俺が国を受け継ぐ時に、こうなったのはよかった。バルダンディア王国は、ネバーローズ王国と同盟を結びたいと思う」
ブラッドハート王子はフィル王子に笑いかけた。
「平和的に」
「本当か!」
フィル王子は喜びと感動に満ちた笑顔で、ブラッドハート王子の手をとった。
「それとも、両国で手を組んで、他国を狙うか?」
「な!?」
手を握り返しながら、真剣な顔で問いかけるブラッドハート王子に、フロンティアはギクリと体を震わせ、フィル王子は後ろにのけぞり、シルビアは彼の腕にしがみついた。
「冗談だ」
ブラッドハート王子はそんな三人の様子に、可笑しそうに言った。
「冗談でも、そんな誤解を招くことを言わないでくれ!」
フィル王子が必死な顔で、こぶしを振って抗議した。
「わかった」
冗談が通じない相手に、ブラッドハート王子は少し肩を落とした。
それから、ブラッドハート王子はシルビアに笑みを向けた。
「お互い、愛する者を手に入れて、思いとどまることができたな」
愛という言葉にシルビアの心臓は飛び跳ねたが、意外な温かい口調に笑みを返してうなずいた。
「お互い?」
フィル王子だけが首をかしげた。
「俺は、フロンティアを手に入れるために、この国に攻め入ろうと考えていたのだ」
「なっ」
「そうでしたの。どうりで私にそっけないはず」
驚くフィル王子と納得してうなずくシルビアを尻目に、フロンティアが嬉しそうにブラッドハート王子を見上げた。
「やっぱり、悪役なんだから」
「悪役?」
目を丸くして首をかしげる三人に、フロンティアは慌てて両手を振った。
「あく、悪役のようなことは、してはいけません。本当に、お騒がせしました」
フロンティアは深々と頭を下げた。
「フロンティア、もう、謝るな。これからは、二度とお前に謝罪させたりはしない」
ブラッドハート王子が言った。
彼のそんな優しさと力強さに、三人は微笑んだ。
♢♢♢♢♢♢♢
個人間の話を終えて、同盟の話の前に休息をとることになり、ブラッドハート王子とフロンティアは客間に案内され、シルビアはフィル王子の部屋に招かれ、ふたりきりで向かい合った。
「シルビア、ありがとう。君が隣に居てくれて、やはり、心強かった」
シルビアは喜びに言葉を返せず、ただ微笑んだ。
「まだまだ、ブラッドハート王子とフロンティア、ふたりのことが心配だ。一緒に見守っていこう」
「はい」
笑顔で答えたシルビアは、気になることを口にした。
「フロンティアが、なにか、いつもと違ったような? 上手く言えませんが」
「ああ、それに、最後の謝罪の仕方など、メイドを真似たのだろうか?」
フロンティアが元社会人の転生者とは知らないふたりは、ただ首をかしげるばかりだった。
「愛というものが、フロンティアを変えたのだろうか?」
ふたりはそうだと微笑みを交わした。
「変わったといえば、たった一日で、私は人生が変わったよ」
フィル王子が少年のように爽やかな笑顔を見せた。
「とても、いい方に」
「ええ、私も、ブラッドハート王子とフロンティアも」
「ああ、同盟に至れば、ふたりの結婚も問題なく成されるだろう」
シルビアは早くそれを祝福したいと微笑んだ。
「私も、すぐにでも君と結婚式を挙げたくなった」
意気込むフィル王子を、シルビアは驚いて見上げた。
「まずは、その素晴らしいドレスに負けない、美しいドレスを用意しなければ」
シルビアはドレスを見下ろした。実は、フィル王子と結ばれた時のために用意されたドレスだった。
気の早い一族と自分に、笑みを浮かべた。
「フィル様」
シルビアはフィル王子の肩を両手で抱き、顔に顔を寄せた。
「ずっと、好きでした」
フロンティアを真似たくなって言ってみたが、これが、ずっと胸につかえていた言葉だとわかった。
「シルビア、君にそんな言葉をもらえるとは、夢のようだ」
フィル王子がうっとりとした目で見つめてきた。
「シルビア、君を守り、幸せにすると誓う」
気の早いフィル王子にシルビアは微笑み、泣きそうになった。
しかし、涙は枯れたようだった。そして、温かい幸せが胸に湧いてきた。
フィル王子の澄んだ瞳に、微笑むシルビアが映った。
「私も、貴方を守り、幸せにすると誓います」
フィル王子の温かい手が頬を包み、その優しさに身を任せて、シルビアはそっと目を閉じた。