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第69話:Abyssal2



◆◆◆◆



 ――なぜ、自分はこんな大事なことを忘れていたんだろうか。記憶が思考に殺到して飽和する。自分は高潔な騎士なんかじゃない。期待に応えられず、敵前から逃亡し、挙げ句の果てには戦友を撃ち殺した惨めな敗残兵だ。裏切り者だ。生きる価値のない死に損ない。かつての上官が、深淵に呑まれた戦友が、自分が殺したあの子が一斉に責め立てる。


「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」


 どれだけ謝っても、どれだけ悔いても許されるはずがない。途方もなく死にたい。誰でもいいから殺して欲しい。意識が破裂しそうになる。震源が記憶の底から今も見ている。あの、名状しがたい這い寄る――


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

「うるさい、黙れ」


 ストリンディの目に光がゆっくりと戻っていく。


「え……?」


 ようやく、雲散霧消していた思考が正気にかえる。自分は全身を胎児のように丸めて横たわっていたらしい。喉がおかしいのは、延々と絶叫していたからだろう。自分の行動が思い出せない。


「なるほど。これが盤上の子供たちの末路ね。想像を絶するおぞましさに吐き気がするわ」


 硬直した体を脱力させつつ、目を上げる。


「でも、はっきり言っておくわ。あなたはこれっぽっちも悪くない」


 ストリンディを見下ろす形で、シェリスが立っていた。杖はもう蛇腹から本来の形状に戻っている。彼女が指を鳴らすと、忽然と椅子とテーブルが姿を現した。学園の庭園に置かれているような、装飾が施された場にそぐわない椅子とテーブルだ。


「座りなさい」


 そう促され、ふらつきつつストリンディは立ち上がると椅子に腰掛ける。質料ホログラムではないようだ。


「ここは……?」


 一見するとさっきまでいたラインエイジ生命科学の高層ビルディングだが、どうも違うようだ。


「自閉した情報空間よ。あなたと私と……一応もう一人いるけど、基本的に隔離された場所になっているわ」


 続いて、テーブルの上に真っ黒な液体が満たされたティーカップが出現した。促されるままにストリンディは口をつける。焦げた苦味は一応コーヒーに近い。カップを持って初めて、ストリンディは自分の全身が小刻みに震えているのに気づいた。


「無理もないけど錯乱しているわね。私が分かる?」

「は、はい」

「私の名前は?」

「……シェリス・フィア」

「あなたの名前は?」

「……ストリンディ・ラーズドラング、です」


 これは本当に、自分の本名と言えるのだろうか。


「ええ、そうよ。あなたと私は今夜、企業間闘争で戦っていた。思い出せる?」

「……なんとか」


 まずいコーヒーが胃に落ちていき、ようやくストリンディは人心地がついた気がした。まずさがかえって脳をはっきりさせる。


「どうしてこんなことを……?」


 当惑をそのままストリンディは口にする。シェリスの行動が彼女には理解できない。生身でありながら平然と騎士に挑みかかり、突然過去のトラウマを見せつけたかと思えば今度は「あなたは悪くない」と言いつつ手を差し伸べてくる。


「あなたに勝つためよ。まさかあなた、私が腕力で騎士を上回るとでも?」


 シェリスは先程自分が放り投げた拳銃を拾い上げ、手の中で弄びつつ気のない返事をする。


「電算仙術で描画した渾沌道人。震源はただの図画でも現世を侵蝕する。それを現実化する一歩手前で画素単位で制御したのが、さっきの整式よ。精神を攻撃する汚染映像のようなものね、私のもくろみ通り、これはあなたに特効となる切り札だった」


 ストリンディの心臓の鼓動が不規則になる。そうだ。あの時自分は、剣を突きつけたシェリスの背後に“何か”を見ただけだ。目にしただけでそれは精神の奥底にまで触手を伸ばし、厳重に蓋をした過去をたやすくこじ開けた。


「あなたのことは調査済みなのよ、盤上の子供たちのたった一人の生き残りである深淵帰りさん」


 体の震えが激しくなる。


「クソ、人智も虫女も使えないな。これのどこが唯一の成功例だ? 割れた花瓶に雑なテスクチャを貼っただけだろうが。あの役立たずども」


 不意にシェリスが吐き捨てた。心底苦々しげに、まるで別人のような顔でそう言うのでストリンディは驚愕した。


「あの……あなたは……本当にシェリスさんですか?」

「私のことはどうでもいいの」


 不愉快そうに毒づいたシェリスだが、すぐにその表情は普段に戻った。


「もう一度言うわ。あなたは何も悪くない。誰もそう言わなかったかもしれないけど、私は断言する。あなたは悪くないわ」

「……優しいんですね、シェリスさんは」


 ストリンディはほほ笑む。


「客観的に判断しただけよ。私はプロジェクト・オルカで不利益を被っていないから」


 あくまでも部外者として意見するシェリスに、ストリンディは勝手に奥ゆかしさを感じてしまった。やっぱり、この人は優しい人だ。不器用に励まそうとしてくれている。でも、その差し出された手を掴むことは、自分には許されていない。


「でも、私はあなたの親切にすがるわけにはいきません。私は確かに高潔ではなく――裏切り者なんですから」



◆◆◆◆



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