第68話:Abyssal
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幾重にも包帯が巻かれ、何重にも鉄扉で隔てられた過去が、こじ開けられていく。そこにいるのは、ストリンディ・ラーズドラングを名乗る前の誰かだ。甲冑の代わりに耐震スーツとジャケット。剣の代わりにアサルトライフル。整列する同年代の少年少女。戦闘訓練に明け暮れた基地。休眠水槽。メス。液体が伝う管。無数の医療術士。祈祷構文。
「これより我々はプロジェクト・オルカを遂行する。冥界の底へと潜行するシャチとなれ」
上官の言葉に敬礼。多機能ガスマスク。携帯食料。弾薬。通信用の教書。背負い慣れた重たいリュックが体に馴染む。潜行艇内部の空気の冷たさ。いつもの錠剤。扉が開く。作戦の開始。――深淵に投入された少年兵たちを待っていたのは、真正の地獄だった。
「本部! 本部! 応答して下さい本部! なんで!? なんで通じないの!?」
「嫌だ嫌だ嫌だ! あんなのになるなんてやだ! 帰して! 基地に帰してよぉ!」
「誰なの!? 誰がそこにいるの!? 見えない! 何も見えない見えない見えないぃぃいい!」
「あああああああ! あああああああああ!!」
「……おねがい……たすけて」
発狂。発狂。発狂。深淵の闇はヒトの精神には深すぎた。最高の素材である騎士を用い、最高の数理を施してなお、深淵はヒトの侵入を拒む。狂いに狂いきった異界の法則は、たやすく少年少女たちの精神を打ち砕いた。そこは人知を越えた千古の遺跡であり、狂気によって研ぎ澄まされた荒土であり、何よりも異質にして異形の生命体の体内だったのだ。
「なんで……なんでこんなことに……」
彼女はもうずっと、一人で肉質の迷宮をさ迷っていた。今自分がどこにいるのか、戦友がどこに行ったのか分からない。ただ分かるのは、途方もなく恐ろしい何かと出会ったことだけだ。それについては、基地内に招かれた自動仙人が心底嫌そうに語った記憶がある。けれども、仮の名さえ思い出せない。
「ああ……副隊長……来てくれたんですね?」
脈動する臓物の行き止まりで、彼女はそれを見てしまった。辺りに散らばる戦友たちの装備。そのどれもがまったく損傷してない。吐き気を催す粘液が、耐震スーツにこびりついている。恐ろしいことに、その粘液はどうやら外から吐きかけられたのではなく、内部から染み出したように見えるのだ。
「ど、どうして……」
既に数え切れないくらい嘔吐したため、もう胃液さえ残ってない彼女の胃が、それでも揺さぶられる。蠕動する外壁とほとんど一体化していたのは、彼女の戦友の一人である少女だった。辛うじて人間だと分かるのは顔と上半身の一部であり、残りの半分は外壁と融合し、もう半分は名状しがたい何かへと変態を終えていた。
「すみません。もう私は駄目みたいです。でも……みんなみたいになるのは嫌なんです」
這いずる音が聞こえる。かつてヒトやヒトに類する存在だった者の成れの果て。深淵の囁きによって自己を破砕された戦友たちだ。そして目の前の少女も、遠からずその後を追おうとしている。
「それ以上言わないで」
何を求められたのか、彼女は理解していた。
「……ごめんなさい、最後まで私、副隊長の足を引っ張ってばかりでした」
額に銃口を押しつけられてようやく、少女は安堵したようにほほ笑んだ。
「ありがとう……ございます」
銃声の後、閉じた少女の目から粘ついた涙が糸を引いて落ちた。そして同時に、少女を撃ち殺した彼女の目からも涙が落ちる。こちらの涙はまだ、ヒトの涙のままだった。
「ッ!!」
だが次の瞬間、彼女は全身を激しく震わせた。
「何か……いるの……?」
這いずる音が凄まじい勢いで遠ざかっていく。肉の迷宮が捩れ、歪み、変形していく。何かが来る。何かがいる。これまで彼女が見てきたあらゆる異形とはその存在の規模からして違う、圧倒的にして冒涜的な何かが、こちらを見ている。
「そこにいるんでしょ!」
たまらず彼女は叫んだ。音が聞こえる。フルートのような吐息のような、耳孔を通じて脳細胞をすり潰すかのような狂った音色が聞こえる。
「出てきて! 出てきなさい! 出てこいぃぃぃい!」
今来た方角に絶叫しながら銃を乱射した彼女だったが、その手が止まる。まだ弾丸は残っている。手の方が勝手に止まったのだ。
「あなた……様は……?」
――六十四卦――八卦――四象――両儀――太極――無極――
仙人の示す万象の図解が脳裏に蘇る。秩序の極北。深淵の王。それは震源。世界を揺るがすもの。万象の癌細胞。それは脈動する虚無であり、永遠に廻転する天体であり、異質な豊穣の肉塊であり、矮小なヒトが知覚するならば顔の無い神像であり――――
『我――――渾沌道人哉』
「失敗してごめんなさい役立たずでごめんなさい期待を裏切ってごめんなさい全然駄目でした私は無価値ですみんなを見捨てました副隊長失格です許して下さい許して下さいなんでもします本当ですだから見捨てないで下さいお願いですだから見せないで見せないで許して許してお願いもうやめてやめて私が悪いんですだから殺して死なせてぇええええ!」
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