第61話:Behavior therapy2
◆◆◆◆
プロジェクト・オルカ。この計画は、都市の最深部に広がる深淵の攻略を目的としていた。深淵の攻略とは即ち、そこに住まう〈震源〉の討滅あるいは封印である。かつては異界の蕃神として崇敬された彼らに対し、公議は徹底して最大の敵性存在という評価を変えない。故にこそ、公議に取り入るためにあるクランによってこの計画が組まれた。
震源が生得的に有する数理は、ヒトの精神そのものを破壊する。あらゆる生命体が、異界のオブジェクトを前に正気を保つことはできない。だが、計画の立案者はそれを百も承知の上でこう提言した。
「しかし、狂気の侵蝕を最小限に抑えられる思春期もしくはそれ以前の子供ならば、深淵の攻略において一定の戦果を挙げられるのではないだろうか」
提言は受理され、予算は通り、計画は実行された。素材となったのは遺伝的に徹底してデザインされた騎士の子供たち。本来公議を守護する為に生み出されたはずの少年兵は、あらゆる対震源の処理と改造を施され、深淵へと投入された。そして結果は――惨敗だった。子供たちは深淵に呑まれ、震源は千の口を開いて彼らを一人残らず咀嚼した。
深淵帰り。震源の狂気に触れ、正気を失ったヒトの形をした残骸。ほぼ再生不可能となった「盤上の子供たち」は、内々に失敗作として処理された。これがプロジェクト・オルカの顛末だ。だがこれには続きがある。後にある病院で、人智による深淵帰りの人格補完プログラムが組まれたという記録が残っている。その成功例はたった一人だけだった。
「あなた、ものの見事に弄ばれたものね」
俺は教書を閉じて仮想スクリーンを消した。今読んでいたのは、チューニングからリエリー誘拐事件の際に報酬として得た情報だ。俺の網膜にはまだ一枚の写真が焼き付いている。人格補完プログラムによる唯一の成功例。その人物のバストアップ。――目元がストリンディ・ラーズドラングによく似ていた。
全身が映る姿見に、自分の姿があますところなく映っている。普段は着ない、動きやすさよりも可愛らしさを重視したコーディネート。頭には帽子と首元にはアクセサリーまで。ストリンディ・ラーズドラングは騎士である前に一人の少女でもある。しかし、こうやっておしゃれをして出かけるようなことは、彼女の人生の中でもそう多くはなかった。
「よし。準備完了。いつでも出撃できます」
自分で自分にそう言い聞かせて軽く気合いを入れてから、ストリンディは整理整頓が行き届いた寮の自室を出る。今日は休日。騎士としての仕事も、夜に駐屯地で書類の整理だけとなっている。つまりほぼ一日がフリー。太陽が沈むまで、ストリンディはただの女の子でいられる。その開放感がくすぐったい。
上層都市スカイライトの朝は今日も清涼だった。ストリンディは道行く人々に挨拶し、空を飛んでいくハトの群れを見上げ、公園で奏でられるチェロの演奏に耳を傾ける。何でもない一日の一コマ。それなのに、なぜかどれも心を踊らせる要素となっていく。
「お待たせしました。すみません」
待ち合わせ場所とした教会の前で、その原因が立っていた。
「大丈夫、謝る必要はないわ。こうやって待つ時間もそれなりに楽しいもの」
スカイライトで流行っているトラディショナルなスタイルよりも、やや過激なフィールドロックスタイルの上下を着た銀髪の少女がわずかに笑う。シェリス・フィアだ。
「そう言っていただけると肩の荷が下りた思いです」
建前ではなく本心からストリンディはそう言う。
「じゃあ、今日一日エスコートをお願いするわ。素敵なナイトさん」
当然のようにそう求めてくるシェリスに、ストリンディははにかみつつうなずく。
「はい。不慣れですが精一杯務めさせていただきます」
そして二人は並んで歩いていく。何しろ今日はただの学友同士の親交ではない。今日はシェリスが望み、ストリンディが応えたデートの日なのだから。
「いつもお疲れ様、ストリンディさん」
二人がデートする数日前。寮へと帰ろうとするストリンディを呼び止めたのはシェリスだった。
「ああ、あなたでしたか」
ストリンディが歩を緩めると、シェリスは杖をつきつつ彼女の隣に並ぶ。
「……何か?」
いつになく熱心にシェリスがこちらの顔を見つめてくるので、ストリンディは首を傾げた。
「少しお疲れかしら? 騎士の身体能力はたぐいまれなものでも、メンタルは鉄壁というわけにはいかないようね」
見事に言い当てられてストリンディは驚いた。このところ学業と騎士の仕事が両立できず、やや心労がたまっているのは事実だ。
「はい。私も未熟者です。もっと鍛錬が必要ですね」
「私には適度な余暇が必要なように見えるけど?」
シェリスは呆れたと言わんばかりに肩をすくめた。つくづく、真面目一辺倒なストリンディと、ネコのように自由闊達に振る舞うシェリスは対照的な二人だ。
「ということで、ひとつお願いがあるの。聞いてもらえる?」
不意に肩を寄せるシェリスに、わずかにストリンディの心臓が高鳴った。
「次の週末、私とデートしてもらえないかしら?」
◆◆◆◆




